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「私が観た」ということに向き合う 〜人類学ゼミトークセッションレポート〜

 今年の2月24日に開催されたイベント「メッシュワーク人類学ゼミ 第1期生プレゼンテーション フィールドから揺さぶられるとき」内で行われました、ゼミ生によるトークセッションの様子をインターン生の田口がお伝えします。

 メッシュワーク人類学ゼミは、人類学的アプローチによる「問いのアップデート」を目指し、昨年9月から今年2月にかけて開講されたゼミナールです。
 計7人の社会人が参加し、課題図書の輪読と個別の研究プロジェクトを中心として行われました。

登場人物

  • 水上さん:メッシュワークの共同代表。ゼミの運営を行なった。

  • 佐川さん:UXリサーチのお仕事をしている。「カフェ」と「銭湯」を舞台に、居心地を形成する要素を探った。ご自身による振り返りはこちら

  • 根岸さん:隠岐島・海士町で共育コーディネーターのお仕事をしている。隣の家に住む「じっじ」を取り巻くものを媒介して、じっじ理解を試みた。ご自身による振り返りはこちら

  • 井手さん:UXリサーチのお仕事をしている。とある住人の「もの」に溢れた部屋に通いながら、ものたちによって立ち上がる住人の世界を探検した。ご自身による振り返りはこちら


 トークセッションは、本ゼミで運営を勤めた共同代表の水上さんが3人のゼミ生に質問を投げかける形で行われ、ゼミ生各々がゼミを通して感じたこと・考えたことを振り返りました。

 当日は雨天にも関わらず満員に近い30名ほどの方にご来場いただき、Impact HUB Tokyo の一角をお借りする形で行われました。水上さん司会のもと、穏やかな雰囲気の中トークセッションは進行されました。


誰と向き合っているのか

水上さん:フィールドワークは普段行う機会はあまりないと思いますけど、やってみて面白かったところ・難しかったところはどんなところでしたか?

佐川さん:人類学は自分の主観も大事に物事を見ようという態度があると思います。自分を透明な観察者として観察しようとすると浅いところしか見れないし、自分が元々持っているレンズでそれを見ることになる。だから自分も観察対象と同じ地平に立って、自分自身も観察対象として見ようということになる。このことを話として聞いてはいたんですけど、今回それを実感できてよかったです。銭湯を観察 するときも、自分が入り込むことでより細かく見ることができてとてもよかったです。

水上さん:そうですね、私もUXリサーチ的な企業に勤めているんですが、企業の調査だとどうしても客観的に判断できる部分に意識が寄っていて、だからこそ今回このゼミでのリサーチはそのコントラストとしてその部分がより際立ったのだと思います。主観的な調査だからこそ難しかった点はありますか?

井手さん:私が言葉にした瞬間に、違うと感じてしまうことですね。これが最も彼のことを表す言葉だ!というのを発見しても、時間が経てば「いや待てよ?」と思ってしまう、その堂々巡りに入ってしまうことがありました。見切りをつけるタイミングが見つけられない、終わりがないことが、難しくもあり面白かったことかなと思います。

根岸さん:今の(井手さんのコメント)にめちゃくちゃ共感していて、言葉にする前の情報を集めている段階で、どうしても主観で切り捨ててしまう部分があって、今回発表で書いてる部分以外にもじっじは色々なものを持っているんです。
でもそれを僕は何かしらの基準で選んでいて、だからもちろん分かろうとはしているんだけど、分かったとは言い切れないなと思いました。

井手さん:相手・対象を見ているようで、ずっと自分の中での対話という感じがしていました。

展示に向けた準備の様子


私だからこそ観えるもの

水上さん:人類学が面白いのはまさにこの部分だと思っています。他者のことを理解しようとしているようで、理解する主体は自分だということから逃れられない。数字とかに落とし込むと、そこを乗り越えられたように感じるけど、その数字を解釈するのは自分なのでそんなことはない。
フィールドワークという他者との関係性に没入する調査手法の中では、如実に自分というものと向き合わざるを得ないんですよね。それを皆さんもゼミの中で徐々に感じていったんじゃないかなと思います。フィールドワークをする中で、特に自分の中で変化していったなと感じる部分 はどのあたりですか?

井手さん:とても戸惑ったこととして、自分が大島さん(観察対象)を変えてしまったということがありました。自分の家に置いてあるようなものが、大島さんの家に置いてあって、大島さんの世界の中に入ってしまったなと。

根岸さん :「知る」ということと「わかる」ということの違いに気づいたことですかね。フィールドワークを始める前からじっじのウィキペディアは書けたんですけど、だからと言って分かったことにはならないなと今回思いました。会話を通して得られる情報だけじゃなくて、じっじの所作とか持ち物とかにも気を配るようになって、それを紐づけることでじっじに近づけるようになったかなと思い ます。

佐川さん:最初は目に入るもの全てを汲み取ろうとしましたが、後半は直観的に自分が気になるものを主観的に探して、「なぜ気になったんだろう?」というところを客観的に紐解いていくみたいなメモの取り方になっていきました。メモの取り方の切り替えみたいなことができるようになってきたかなと思います。

水上さん:なるほど、まさにその部分は伺いたかったところで、メモに何を書くか・書かないか、どんな風にどのタイミングで書くかというのは、非常に重要だと思っているんですよね。こういうところに注意して書いていたとか記録の手法とか、その辺りについて何かありましたか?

根岸さん:最初はメモを取ろうとしていたんですけど、飯食いながらとかが多かったので、録音とか録画メインになっていきました。でも客観的っぽいような自分のフィルターを介していないデータしか取れなかったです。そんな時に、自分とじっじの関係性だから聞けることとか、自分だからこそ感じられることを大事にした方が良いよと比嘉さんから言われました。
発表資料とかも、じっじに合わせて手書きにしました。タイピングしているときは感じなかったこと、立ち止まらなかったところに、手書きで書く中で出会い直すことができたかなと思います。

根岸さんの発表資料。
手書きのイラストとコメントで、じっじの世界が表情豊かに立ち上がる。


観たものを観せる

水上さん:今回の発表形式は人類学者の一般的な発表形式であるエスノグラフィーではなく、各々に自由に作ってもらったんですよね。どういう風に発表資料が出来上がっていったのかなというのを聞いてみたいです。

井手さん:本当は彼(観察対象)の部屋の様子を再現したかったんですけど、それは難しかったので、「物がとても多いから壁面に服を掛ける」というような彼の部屋の特徴的だなと思う部分を取り出して、それについて私がどう思うのかみたいなのを添えることで、私の中の彼の世界を表現しようとしまし た。
発表のために何を抜粋するかっていうのを考えるときに、彼のキーワードだったりシンボルを探していて、発表準備で彼の理解がさらに深まったなと感じています。

井手さんの発表資料。
ピンチハンガーに吊るされて揺れる写真の裏面には、井出さんが感じたことが書かれている。


根岸さん:こういう発表の場がなかったら、ずっと情報を取り込んで自分の中でまとまらなかったと思うので、こういう場があったからこそ情報が整理できたと思います。 じっじの世界を完全解読できたらよかったけどできなかったので、あえて雑多にじっじに関する情報を提示することで、観てくれる人たち自身の中でじっじ像を立ち上げてもらえたらなと思いました。

佐川さん:問いが変わっていくこと、今までみてきたものを改めて問い直すことが今回の 1 番の学びだったので、発表資料でも下手に結論を出して終わらせるんじゃなくて、観察対象のありのままを出すっていうことを意識していました。

佐川さんの発表資料。
複数の空間を細かく観察し、図面・写真・集う人々の様子をありのままに伝えている。


編集後記

 トークセッション全体の核を自分なりに見出した後、核に繋がりそうな部分を中心に言葉を書き起こして肉付けを行っていくという流れで、本記事は完成しました。当然ながら全ての情報を書いた訳ではないので、私の恣意性が多分に含まれております。トークセッションでの言葉に基づけば、この記事自体が、編集した私の自己紹介のようなものになっているのだと思い ます。

 編集のために繰り返し録画を視聴しながら、「物事を観るとはどういうことなんだろう?」と考えていました。ゼミ生の皆さんは観察対象だけではなく観察主体である自分自身について非常に多くの時間観察されているようでした。

 ゼミ生の皆さんはゼミでの活動を通して、観察主体は透明にはなれないこと・自分の視点から自分は逃れられないことを認識し、主観を大切にするようになったことで、観察している自分自身を観察する目が生まれてきているように思いました。私自身も本イベントに参加しましたが、皆さんの発表資料から、観察対象の方々のことが私の前に非常にリアルに立ち現れて、言語化が難しい部分(声のトーンや場の空気)までよく伝わってきたことを覚えています。

 イベント・記事執筆を通して、むしろ主観を重視することによって、より多くの人に届くような客観性にもつながるのではないかと感じることができました。


構成・執筆:田口響生(メッシュワークインターン)


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