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右翼右翼バード

近所にベランダに住んでいる猫がいる。コンビニにご飯を買いに行く時いつもそこから外の世界を眺めている。猫は自由ではない。

猫に玉ねぎを食べさせたい。猫の心臓を取り出してアスファルトの上で傷みながら動くところを見てみたい。

飼い主のおばさんはこのような危険からうちの猫を守る気持ちで家の中に置いているのだと思う。外の世界で自由に暮らす 猫ちゃんらしさと防衛本能の狭間で到達した限界 ベランダ。箱。

ハンダゴテセックスを見つけてしまうフィギュア職人さんはよろこぶのか?崩壊までが芸術なのか フィギュアはオナホではないが 合成樹脂が波打つ様子は痛みがちゃんとある きゅんがとまらなくなるような青春 人と人造人間の融合というところが最も美しいと思う。ものとして消費されたら経済が回るからただ嬉しいのか。これは死なのか。しかし寝取られ案件を黙ってみているという自慰なのか。崩壊は自分が主犯でなくていいのか。自分の意図しないところから生まれた攻撃はなんとなくわかっていればその悲しみを育てたいとおもうかもしれないけれど一番最初にみつけてしまったフィギュア職人さんの感想文が読みたい。

私は過去のことをたくさん遡る。未来への希望がおぼろげである。

悲観への愛着が深い。保守 ステレオタイプ 懐古厨。しかし透明な嵐に巻き込まれかけている。

月日の流れに伴って14歳中学二年生の私の自我が私史上最上質だったのではないかという考えが終わらない。きっとそんなことは無いのだけれどそこから来る自信の無さが透明な嵐に足を掴まれかけている原因なのだと思う。

(透明な嵐について)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13143925088


未来に希望を見いだしている人々は 悲観が趣味の隣人に対して この人の未来は何も成せることなく悲しく終わるから私たちより格下 というような態度はとらないのではないか。その反射は、他人の未来に対する悲観であるように思う。考えではない。

本質はわたし側と同じなのである。しかしこの人たちは悲しみに対して真っ当な思想をもっているのか。その態度は悲しさに対するネグレクトではないのか。悲しみが根にちゃんとあるのに、見ていないふりをしていたら悪質に歪んでもっと目が当てられなくなる可能性はその人の中にはないのか。

アニメ(ユリ熊嵐)にはくまが人になるためには一番大切なものを手放さなくてはならない というルールがある。

なぜ人になりたいと願うか というと人側に大切な人がいるからである。

誰かと対等にコミュニケーションをとり相手に承認されたいと願う気持ちが悲観を蔑む態度になっているのは横道にずれているとは思う。しかし自分はまだ成し遂げられていないことがあるがそんな自分よりも言葉としての表現が拙く見えるものを蔑みたい感情としては理解できる。反射であり考えではないが。

私は学校か社会か どちらかといえば社会に近いところにいる。だからコミュニケーションができないことは受け入れられ難い。関係が成熟していくにつれてコミュニケーションにも高度なシステムが必要になっていく。私はそういう人たちが勝手にやっている高度コミュニケーションシステムの現場や表彰式を黙ってみている。

どうして外国人にはにこやかな挨拶ができるのに日本人にはできないのか 私は日本には適性がないのではないかと思っていたけれど言語の壁の外にいるやつは猫みたいな感じで他の生き物っぽく見えるだけで3年くらい住んでしまったら同じ悩みをするのだと思う。3年は長いのでその間に生まれ変わる可能性はある。

簡単な感情は伝わりやすい。私の感情は誰かと共有するのは難しいものなのかもしれない。情報は量が多ければ多いほどよくそこに付け加えられたおまけの感情が評価されやすいのが社会であるように思う。

もっと自分のことを隠さなくては生きていけないような気がしているのに文章を書いたり簡単な感情では無いことを簡単な感情では無いと言ってしまったり 逃げが不完全燃焼で吐き気が終わらない。逃げの技術力が高い人はもうとっくに輪廻転生803回目くらいに行っている。






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