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メキシコのラテンアメリカ研究博士。メキシコ在住10年を迎え、蓄積されてきたものを発信し…

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メキシコのラテンアメリカ研究博士。メキシコ在住10年を迎え、蓄積されてきたものを発信していきたいと思う今日この頃です。ラテンアメリカばかり研究したけれど最近はアジア研究に食指が動きはじめてます。2024年、どうなるか。

最近の記事

徒歩旅行論の萌芽的研究:わたしたちをつなぐライン

歩行は、実にありふれた行為であるがゆえに、いかに自分たちを規定し、世界との関わりを紡いでいるのか、それほど着目されてくることはなかった。しかし、人類学やアートといった文脈から、近年「歩く」ということに注目が集まっている。この流れの中心には社会人類学者ティム・インゴルドの『ラインズ 線の文化史』に続く一連の著作群の存在がある。 我々はこのインゴルドの「徒歩旅行論」に影響を受け、この度、「世界徒歩旅行研究会」なるものを立ち上げ、その第一回展覧会を2023年京都で行う運びとなった

    • メスカル:神話を越えた先にあるもの

      メスカル。それはリュウゼツランから作られるスモーキーな蒸留酒のこと。ついに日本でも、今年10月21日がメスカルの日に制定され、東京大阪の両市でイベントが行われるなど、このメキシコが生むお酒に対し、にわかに注目が集まっている。本文は、メスカルの魔術性について、実際に生産に携わった経験のある自分に意見を聞かせてほしいとメキシコ人の友人から依頼され作成した文章の日本語訳に加筆修正したものである。オアハカの小村のパレンケ(メスカル蒸留所)におけるメスカル生産を最前線からレポートする。

      • マジカル・ラテンアメリカ・ツアー、あるいは心の内奥への旅

        メキシコにおける先輩であり友人である、嘉山正太が表題のタイトルの本を執筆した。メキシコに帰ってきた本人から早速本をいただき、読了。友人として、ラテンアメリカ在住系ラ米オタとして熱量熱めに書評する。 本書は多分大勢の興味を惹くという目的の上で、タイトル・帯・デザインともに、ラ米での撮影・コーディネート業においての物珍しい経験をクローズアップしてきている。しかし、その中身は全ての他の書評が言っているように、ただ珍奇な旅や撮影の記録ではなく、ラ米の人間模様を自己に引きつけながらも

        • 結語:先住民の実践が僕らに語りかけるもの

           修士の最初の頃は、経済学的な観点からスタートした僕の研究ですが、結果的に年月とともに人類学的フォーカスを好むようになってきました。全てから一旦距離を置いてみてみるという作業ができるのは、人類学が西洋近代の理路に順じない社会の経験を蓄積してきたことや、あるいは実際にフィールドに出ることでそれらの経験を追体験できるからでしょう。しかし、この思考や経験をもってして、相対主義に陥ってはいけません。相対主義をただ突き詰めていくと、結局なんでもありの構造主義の落とし穴、あるいはポストモ

        徒歩旅行論の萌芽的研究:わたしたちをつなぐライン

        • メスカル:神話を越えた先にあるもの

        • マジカル・ラテンアメリカ・ツアー、あるいは心の内奥への旅

        • 結語:先住民の実践が僕らに語りかけるもの

          第2章 オアハカ北部山地:変化の中のコムナリダ

          オアハカ北部山地へ  修士の課題は時間的限界であり、もっとじっくりとフィールドワークに取り組みたいと思っていたので、博士(メキシコでは4年間)でも継続して贈与論の研究を深めていこうという方針は早々に決まっていました。博士課程では、さらに対象地域を広げ、南北アメリカ大陸の先住民の一般的実践として贈与を追ってみたいと考えます。そこで、メソアメリカ(注1)の経験の一つとしてオアハカという場所に1つ目の焦点を定めることに決めます。というのも、修士の研究の過程ですでにオアハカ北部山地

          第2章 オアハカ北部山地:変化の中のコムナリダ

          第1章 チアパス:自治・自律への意志と構造的暴力の狭間で

          チアパスとEZLN  講義にモグリで入った一年は、初めてのメキシコシティ暮らし、久しぶりの大学生活と、とても充実した時を過ごしました。当時は毎日授業に行くのが楽しみだったのですが、翌年UNAM(ウナム)に本入学して研究も半ばに入ると、そろそろ生活レベルでの非資本主義的実践をこの目で見てみたいという気持ちでうずうずしている自分が抑えきれなくなってきました。マルクス主義が基礎知識として議論される批判的土壌において、激論を交わすのは素晴らしいことなのですが、僕ら研究者を含む都市生

          第1章 チアパス:自治・自律への意志と構造的暴力の狭間で

          過去から現在、旅または遠くからの思索

           この2年間のコロナ禍で、旅をすることはとても難しくなりました。我々世代が経験したことのない移動にかかる制限。それは社会の分断をさらに加速させるかのようです。その証左として、ここメキシコでも社会経済格差が以前よりさらに可視化されるようになりました。巣篭もりできる人と巣篭もりすらできない人。国家統計に含まれないインフォーマルセクターと呼ばれる層が就労人口の半分を超えるこの国では、こんな状況下でも毎日外に出ざるを得ない人たちがたくさんいます。コロナ危機下で、日本のように自助を訴え

          過去から現在、旅または遠くからの思索

          いま贈与論を考える:チアパスとオアハカにおける先住民の生活実践と贈与の可能性

          (全文版) 導入:過去から現在、旅または遠くからの思索  この2年間のコロナ禍で、旅をすることはとても難しくなりました。我々世代が経験したことのない移動にかかる制限。それは社会の分断をさらに加速させるかのようです。その証左として、ここメキシコでも社会経済格差が以前よりさらに可視化されるようになりました。巣篭もりできる人と巣篭もりすらできない人。国家統計に含まれないインフォーマルセクターと呼ばれる層が就労人口の半分を超えるこの国では、こんな状況下でも毎日外に出ざるを得ない人

          いま贈与論を考える:チアパスとオアハカにおける先住民の生活実践と贈与の可能性

          Wey(お前)をめぐる考察:メキシコにおけるWey使用擁護論の展開

          先日メキシコ在住日本人の間でWey(元々去勢された牛Bueyを指す言葉で、気軽に友人の間で英語のmanのように呼び掛けに使う。Güeyと記すのが正確なのだろうが、本文にはあえてWeyを使う。)の使用に不快感を示すツイートを見かけました。「この言葉は最近使われ始めたもの」、「礼儀正しい人がほかの人にWeyを多用するのを見て引いた」、「使いどころを間違っているやつがいる」「私は正しいスペイン語を使いたいなと思う」。そんなコメントが列挙されていたんですが、あえてメキシコ人側(日常的

          Wey(お前)をめぐる考察:メキシコにおけるWey使用擁護論の展開