しあわせとかなんとかについて。Moon River - Audrey Hepburn & Henry Mancini

Moon River
月の川と
wider than a mile
ずっと遠い向こう側
I'm crossing you in style
渡ってみせる立派なまんま
someday
いつの日にか
Oh, dream maker
夢を見せるきみとか
you heart breaker,
心を引き裂くきみとか
wherever you're going
どこへ流れ着くつもりでも
I'm going your way
僕もそっちへ着いてくつもり

Two drifters
ふたりの流れ者と
off to see the world
これまで知ってた世界の外
There's such a lot of world
広がり溢れるたくさんの
to see
ものごと
We're after the same
ふたりが目指すはおんなじ
rainbow's end
虹の端っこ
waiting 'round the bend
手も届くほんのすぐそこ
my huckleberry friend
ずっと昔からずっと一緒
Moon River
月の川と
and me
ぼく

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ムーンリバーができるまで

 ムーンリバーは『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘップバーンが歌うためにヘンリー・マンシーニが作ったオリジナル楽曲だ。ヘップバーンは歌の訓練を受けたわけでもなく、かつ声域が非常に狭かったため、マンシーニは彼女の技量に合わせて特別な配慮をして作曲せねばならなかった。その結果か、ムーンリバーは主題歌の割に、歌の聞かせどころ、みたいな部分がない何というか地味な曲にならざるを得なかった。
 後で書くことにも繋がるが、『ティファニーで朝食を』のヘップバーンの役、ホリー・ゴライトリーは娼婦、コールガールではないものの、金持ち男と連んでは小遣いもらって暮らしてるようなキャラだ。原作者のカポーティが望んでいたマリリン・モンローへのオファーは、エージェントから「うちのモンローはふしだらな娘はやりません」と門前払いを食らった。監督やプロデューサーは最初からヘップバーンにしたかったのでこれに胸を撫で下ろしたが、後にモンロー個人から「私としては興味があるんだけど…」と話が来ててんやわんやしたりもしたという。
 そんなわけで、役柄自体のハードルがイメージの問題で高いのに不得手な歌までやるのは…とヘップバーンは歌に関しては断ろうとした。しかし彼女のためにムーンリバーを書き下ろしたマンシーニは、彼女の過去の出演作での歌唱も踏まえて「きみは出来る」となんとか説得した。ヘップバーンも改めて歌のレッスンを受けて撮影へと臨んだ。

 そうして撮られたのが上のシーンである。さらっとした、何でもない風に撮られているのがシーンとして好感を抱くが、実は色んな人の想いが詰まった血と涙と汗の結晶なのだ。作曲当初はその制約に苦労しただろうマンシーニも、ヘップバーンのパフォーマンスを大変気に入った。

 会社内試写で、会社重役が「この地味な歌のシーンはカットだ」と言ったとき、マンシーニのこの歌のシーンへの思い入れを知っていた周りのスタッフは総出になって重役を説き伏せたと言う。一説には、ヘップバーンはそれを聞いて激怒して立ち上がり、「それは私が許しません」と啖呵を切ったとか。この啖呵についてマンシーニは「それはヘップバーンが取るとは思えない振る舞いだ。きっと彼女は居心地悪そうに椅子の上でモゾモゾしていただろう」と自伝に書いている。

 結果、ムーンリバーはその年のアカデミー主題歌賞を取った。たくさんの、ヘップバーンより遥かに技量のある歌手がカバーした。でも、マンシーニ本人が認める通り、1番良いのはヘップバーンのバージョンだろう。

 それでもヘップバーンは、音源として出すことは拒否した。自分は役者であって歌手じゃないし、と。よって「最良のムーンリバー」は、彼女の死後に発売される追悼コンピレーションアルバムまでは音源化されなかった。

ムーンリバーと『ティファニーで朝食を』

 ムーンリバーという楽曲は原作からの変化を如実に示す一要素だ。上流階級の魑魅魍魎たちのアレっぷりをドキュメントしたような、そこをしゃなりしゃなりと渡り歩くホリー・ゴライトリーを描いた作品が元の『ティファニーで朝食を』である。
 しかし映画版が設定したのはもっと牧歌的なテーマだった。漠然とした幸せを求めるあまり、手段がよく分からなくなり、自尊心なども相まって、半分身売りのようなことまでして「ハイソ」な生活を送ろうとする主人公二人。ふたりは出会いと交流を通じて、
「ひょっとすると、その求めてやまない幸せとやらは、もっと卑近で、素朴で、シンプルなものなのではないか」
と気づき始める。そこの中心に横たわるのがムーンリバーだ。そこにあるのは、失われてしまった、見失ってしまった、故郷や純粋さである。漠然とした幸せ、そこまでを辿っていくことが人生なのだとしたら、ムーンリバーを渡るとはつまり人生を渡っていくことなのだ。

 『ティファニーで朝食を』は正直傑作というような作品ではない。もっと良くも悪くも平々凡々とした映画だ。事実、後世に残ったのはムーンリバーとヘップバーンの魅力だけだった。

 ヘップバーンは当然言うまでもなくとんでもなく美人なわけだが、映画で見るとそういう気取った感じや美しすぎる!と言った感じはまるでない。可愛いけど、確実にどっか抜けてる愛嬌のあるキャラがとても似合う。彼女は絶世の美女、銀幕のスターというよりも、コメディエンヌとしてとても優れていた。キメの画で、バキッと美しさをフィルムに焼き付けるのではなく、おどけてキャッキャと忙しなく飛び跳ねてるのが似合うのだ。

カポーティの末路としあわせ

 原作者のカポーティは、主演は僕で、とか、ヘップバーンに直筆で「あなたに決まって嬉しい」とか、彼に監督してもらえて良かった、と述べていたかと思ったら、後になって「ヘップバーンほどのミスキャストはない」とか「あの無能監督め」とか「僕が脚本を手掛けてたらなぁ、いやオファーはあったんですけど」とありもしない脚本依頼の話を振りまいたりしている。

 カポーティはこの成功の後、『冷血』に取り組んだ。実際の殺人事件の被害者から加害者まで深く関わり徹底取材して書いたその作品は大ヒットし、「ノンフィクションノベル」というジャンルを一発でメジャージャンルに押し上げた。この執筆過程とカポーティの墜落を物語としてまとめた『カポーティ』という映画もある。オススメ。これも含めてベネット・ミラー監督は傑作しか撮ってない。

 カポーティはその後、一作も長編を書きあげられなかった。薬とアルコールに溺れ、59歳で死んだ。遺作になった”answered prayers”では嘲笑というレベルで済まないほどに上流階級の退廃ぶりを描き、社交界のスター、ドン、寵児は皆から嫌われ、孤独な晩年を送った。

 "answered prayers”というタイトルはある聖人の言葉のもじりで、小説の序文にもっと長い形で引用されている。

「応えられぬ祈りより、応えられた祈りにこそ多くの涙が流された」
“More tears are shed over answered prayers than unanswered ones.”

 これは、僕らにはパッと意味が取りづらいが、元の意味としては「神の沈黙は時に恩恵である」というようなものだ。祈りが通じ、もし神から答えが返ってきたとき、その答えが絶望するしかないものだったとしたら?そんな祈りはunansweredであった方が幸福かもしれない。answerは、通じない祈りを続けざるを得ないことより残酷かもしれない。

 天才としてデビューし、一気に文学界、社交界のトップに躍り出ておきながら、『冷血』の執筆を通じて何かが決定的に変わってしまったカポーティ。僕はただの凡人だが、それでもカポーティの気持ちや、聖人の言わんとすることが分かる気がする。現実や答えが受け入れ難いものであるなら、ずっと盲であった方がマシだったということだ。
 彼が毛嫌いした映画版『ティファニーと朝食を』の平凡さ、「捻りのない安易で安っぽい幸福論と人情噺」は、カポーティの末路と重ねるとより深みを増すように思う。紛れもない真実を抉り出すことが文学の働きであるならその先には破滅しかない。人が生きていくために必要なのは、それが安っぽい嘘だとしても、マンシーニやヘップバーンの汗と涙によって生み出された、美しくも薄っぺらい希望としあわせなのかもしれない、とか。

おわり


 ヘップバーンを除く、最良のカバーはたまによる『ムーンリバー』だ。


 たまはこともあろうに、こんな経緯を持つムーンリバーを、亡くなったヘップバーンへと捧げるララバイとしてカバーした。そんなん泣くやん。この記事の文脈から言えば、ヘップバーンだけでなく、カポーティにも捧げてあげたいところだ。

目を閉じて
月の川で
おやすみ


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