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子どもたちの居場所。駄菓子屋

 クローズアップ現代(NHK)で現代の子どもたちの居場所は、駄菓子屋だそうである。学校が終わり、子どもたちが駄菓子屋に三々五々特に何か目的があるということもなく集まり、友達と遊んだり、お話したり、それぞれがそれぞれに過ごし、時間になれば帰っていくという。その場所が駄菓子屋ということらしい。
 親や学校、社会の価値観を強いられ、息が詰まるような、同質性の密度が高い集団に放り込まれ、喘いでいる子どもたちの姿が、なぜか浮かんできた。
 想像するに、家族や学校からの逃避の場所として子どもたちが探しあてたのが「アジール」としての駄菓子屋だったのかもしれない。
 
 街や学校、家庭の境界は、ある意味人々を守るセフティーネットとして機能していた。ある時から多くの領域はグラデーションを失い均質な空間が綿々と続く社会が登場した。おそらく「フラット化(価値の相対化)」という思潮が世界に蔓延し無自覚に受け入れた結果のように思われる。
 一方、わたしは頭脳化された社会に住んでおり、すべては合理的で効率的、曖昧さや不合理さはなく、単純で分かりやすく、明確で面白みのない社会ということになる。ある意味で逸脱したり、ズルしたり、横道にそれたりすることを許容しない社会であるともいえる。
 
 以前テレビで中学校の女の先生が、いまの子は、賢く振る舞うそうで「先生や親、周りの子どもなど、その場の空気や顔色を察するのが大変長けている」と語っていた。そんなことで試験の問題などは、出題者がどんな答えを望んでいるかを察知することに積極的に努力するという。学ぶことの意味がすでに失われているように感じられた。
 
 「子どもたちの居場所。駄菓子屋」から思い出されたのが、「原っぱと遊園地」と「修景の論理」であり、「Back to Confucius」と「2021年総選挙の総括」は、内田樹のブログのノ-トからである。
 
原っぱと遊園地 [著]青木淳 [掲載]2005年01月09日 [評者]鷲田清一
 『原っぱと遊園地』とはまたおっとりした書名である。が、これは対立する二つの建築理念の比喩(ひゆ)なのだ。
 
 「原っぱ」とは、そこで行われることが空間の中身を作っていく建築のこと。他方、「遊園地」とは「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」をさす。「ルイ・ヴィトン表参道」の建築家でもある青木は、「原っぱ」の典型を、同じ表参道にあって、すでに取り壊された同潤会アパートに見る。もともと住居だったはずが、ギャラリーやブティックとして使われなおした建築だ。
 
 原っぱでは、ともかくそこへ行ってそれから何をして遊ぶか決める。特定の行為のための空間ではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインしようというのが、青木の建築だ。そこから、文化とは、人と空間との関係が、当初の機能以上に成熟し、その関係から新たな機能が育まれていく過程のことだという文化論が導きだされる。
 
修景の論理 吉本隆明
 その料理が、おなじ程度の品質の材料からつくられた他の街区のおなじ料理とくらべて、法外な値段をつけてあったとしても、その料理はたべられなければならない。なぜならば、かれは料理をたべているのではなく、ほんとうはその街区の<共同意志>をたべているからである。<共同意志>をたべても、味覚はみたされないかもしれないかもしれないし、胃袋はふくらまないかもしれない。しかし、かれはそのとき瞬間的であっても、その街のもっている<気取り>を胃袋のなかで占有することができるというべきである。
もしも、都市の街区を歩きながら、なにものかによって心を拉し去られていると感じ、街路の両側にならんでいるビルや商店や、レストランや民家が、昨日までいっしょに暴れあるいていた悪童なかまなのに、今日はなにものか眼にみえない棚の此岸と彼岸とにへだてられて存在していると感じられたとすれば、その街区は<公園>なのである。
 しかし、近代都市というものは、例外なくここでいう意味のメタフィジカルな<原っぱ>や<公園を>という性格を拒んでしまった。
 
 <公園>の起源のひとつには、むかしながらの<庭園>がある。そして<庭園>の起源のひとつは、<自然のなかにある住居>という観念であるといえる。(中略)ところが、このように産みだされた<庭>は、いったん産みだされると、<住居>や住居の<集落>に属するよりも<人工化された自然>として<自然>の側に属することによって<住居>と対立しはじめたのである。<庭>がすでに、住居人が縁先からおり立って自由に歩けるものではなく、住居人が、じぶんでじぶんを禁足状態におくことで景観化したとき、<人工的な自然>として<住居>に対立するものとなった。このような段階の<庭>が抽象的になった形態が、いわゆる<枯山水>と称するものである。
 
 それゆえ円通寺の<庭>は、まず修景そのものの本質によって、人間がそこにおりたって歩くことが先験的に不可能なように造形されている。庭はまず主題そのものによって、完全に寺の建築そのものと対立している。しかし、人間にたいして禁足状態を強いたままで、<原っぱ>を実現するという矛盾をやってのけている。遊びにゆくことができない<原っぱ>、不可能な<原っぱ>、エピソードのありえない<原っぱ>というのが、円通寺の<庭>の本質であるというほかはない。
 
Back to Confucius
 日本の少年少女たちが親を罵倒したり、足蹴にしたり、刺し殺したりしていることの遠因の一つは、親自身が「そういうのがふつうの子供だ」と無意識にそのような暴力的なメンタリティを「容認」し、そのようにして容認された事実をメディアが「リアルな現実」として垂れ流していることにある。
でも、親の側のマインドセットが変わるだけで、子供は変わる。
子供というのは、親が口に出して言うことはほとんどは聴かないが、親の無意識の欲望には鋭く反応するものだからである。
時代はいま「ディセント」な方向に舵を切りつつある、私はそう見ている。
 
2021年総選挙の総括
 「若者はどうして投票しないのか?」信濃毎日新聞11月5日
 
 今回の衆院選も投票率が低かった。55・93%は戦後ワースト3位。特に若者の投票率が低かった。18歳が51.1%、19歳に至っては35.0%という目を覆わんばかりの数値だった。
 どうして若い人たちは投票をしないのかあちこちで訊かれた。私の仮説は「受験教育のせいかも知れない」というものである。その話をする。
 受験教育では教師が問いを出し、生徒にしばらく考えさせてから正解を示す。生徒たちは「問いと正解」をセットにして記憶する。そして、次に同じ問いを前にすると、覚えていた正解を出力する。正解を知らない場合にはうつむいて黙っている。誤答をするよりうつむいて黙っている方が「まし」だからである。少なくとも教室ではそうだ。教師は黙っている生徒にはとりあわず、次の生徒に向かう。だから、「誤答するくらいなら黙っている方がまし」ということが「成功体験」として日本の多くの子どもたちには刷り込まれている。
 選挙では「誰に投票すれば正しいか」という「正解」が事前には与えられていない。若者たちの多くはどの候補者が「正しい」かを判断するほどの情報を持っていない。友だちや家族とそれについて意見交換することもたぶんあまりないだろう。だから、彼らは「正解」を知らない状態で投票日を迎えることになる。そして、受験勉強で刷り込まれた「正解を知らないときは、誤答するよりは沈黙していた方がまし」という経験則を適用する。教師に「どうしてそんなバカな答えを思いついたのだ」と絡まれずに済むし、的外れな答えを口にするよりは黙っている方がまだしも賢そうに見える。中高生には熟知された事実だ。だとすれば、「正解」を知らない選挙では投票しないことが「まし」だという結論になる。いささか暴論だが、その可能性はあると思う。

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