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何のために(誰のために)学問しているのか?

夫が浮かない顔で帰宅しました。(夫は、私とは別の学問分野の研究者です。)
こういう顔をしているときの夫は、何かしら学問にかんすることや社会的(不)正義にまつわることでの違和感を宿題にしてきます。長女に「宿題やりなさい」と言って、お父さんこそ宿題やったのかと返されて静止画になる日の、夫です。

夫は、彼の専門分野を含む○○学の大御所先生による講演を聴いてきたそうです。(私は○○学についてさっぱり分かりませんが、グーグル氏によれば、その先生は日本とアメリカの超有名大学・大学院のご出身で、日本の政府関連の会議・審議会などにたくさん関与されています。)

夫は、その先生によるお話の、点ごとには頷いていたそうです。私にも分かりそうな例えとしては「スーパーの食材が高くなりましたね」でしょうか。ところが夫いわく、その先生の議論からは「でも収入は増えないから私たちの多くは困っています。どうしたら解決できるでしょうか?どのような政策を提案すべきでしょうか?」という視点が見えてきませんでした。

一方でその先生は、学問のための学問をしていてはダメだ、とも仰ったようです。もちろん夫は、それについても「そうですよね❣️」と。けれども・・・

浮かない顔の夫は、「○○学は何のためにあるのだろう?」と何回か言っていました。そういえば、時々そういうことを言っています。夫自身は「実際に困っている人たちのために、困っているけど声を上げられない人たちのために、必死で声を出しているのに聞いてもらえない人たちのために、学問の営みを通じて声を上げる」ことをモットーにしているのだと、私は理解しています。そんな夫の志や情熱も、しんどさも、なんとなく分かる気がしています。夫と私は専門分野は違いますが、問題意識を共有しているところがあると思うのです。

ただ、そういった世の中との距離感のようなものは、学問によって、分野によって、選ぶ研究手法によって、異なるだろうとも思います。それに、同じ分野においても様々なタイプの研究者が必要なのだろうなぁと思います。

「代わりに声を上げよう、しかるべきところに届けよう」というのは、もしかすると「専門バカ」の独りよがりかもしれません。中には「あなたには私の苦境は分かりっこない」「あなたには代弁して欲しくない」と感じる人もいるはずです。

だからと言って、今ここで投げ出したら、本当にただの独善で終わってしまいます。続けないと意味がないと思います。

ところで、「誰か」の苦境を見続けたり声を聴き続けたりするのには、たくさんのエネルギーが必要だと感じます。しかるべきところを探し出して繋げるためには、孤軍奮闘のことが多いですし失敗続きです。飛んでくる矢を交わしながら、自分の傲慢や無知とも闘わなくてはいけません。これについては、私自身が失敗続きで疲弊していることがあります。(あまりに疲れて缶ビールさえ開けられずに寝こむ現象です。)

飛んでくる矢を交わしきれずに流血しているところへ、お見舞いと称して塩を塗りこみに来る人に対しても、笑顔で御礼を言わざるをえない日もあります。

でも、夫と私が結婚したとき、夫がお世話になってきた先生方のうちのお一人が「常に、誰のために学問をしているのかを、忘れないでください」というメッセージを贈ってくださいました。夫と私で協力しなさいねっていう意味も含まれていたと思っています。そうやって教えてくださる先達がいて、世界をワクワクした目で見ている娘たちがいて、あーやっぱりもう少し頑張ってみよう・・・と思える日もあります。

読んでくださってありがとうございます!
(記憶がなるべく鮮明なうちに書き残しておきます。しっくりしない箇所もあるので、後日また戻ってきて加筆修正したいと思っています。)




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