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研師(とぎし)ヒデの話「ヒデの聖戦」

ヒデは研師とぎし、裏の世界で名を知られる本当の刀の研師である。
刀は本来、人を斬る道具である。
刀は美術館に展示されたり、愛好家の手元で慰み物になるために生まれてきたわけではない。
見せかけの平穏な今の世に、泣く刀が数多くいる。
ヒデは研師、そんな刀たちを研ぎ、その嘆きを聞いてやるのだ。

ヒデは最近赤い夢を見る。ぼんやり全体が赤い夢である。
それが記憶に無い母親の胎内の血であるのか、これまで流してきた人の血の赤なのか分からない。でも、不吉な予感が拭い去れずこの夢を見るのが怖かった。


事の起こりはまたマルの店だった。
夕方、ヒデはさとるから誘われてマルの店に向かった。智はヒデが預かり続けている妖刀『八丁念仏団子刺しはっちょうねんぶつだんござし』と悲しき小刀『猫娘ねこむすめ』の持ち主の孫、障害者介護施設で相談員として働く気のいい若者だった。仕事の帰りに久しぶりにヒデに会うためマルの店まで足を伸ばしたのである。
立ち飲み屋「マル」に着くと智はビールジョッキを片手にマルと何やら話していた。

「あ、ヒデさん、こんばんは。ご無沙汰してます」

智は半分ほど飲んだジョッキの片手を上げて笑顔でヒデに挨拶した。

「マルさん、俺にも生おくれ」

マルはサーバーからジョッキに生ビールを注ぎながら智に話したことを繰り返した。
昨夜、閉店後に常連客である近くのビルのオーナー杉山と、杉山の顔見知りの同じくビルのオーナーの村岡を自宅まで送り届けたと言う。村岡は亭主に先立たれた未亡人、子は近くにいるがともに生活することは無く寂しく生きている老年のご婦人である。そして杉山よりずっとたくさんのビルを所有するオーナーだった。マルの店から歩いて15分ほど、高級住宅街の入り口あたりにある洋風の大きな家に住んでいた。寂しく一人酔い潰れた村岡を杉山が背負い、マルの先導で送ったそうである。これが初めてのことじゃないのでマルは慣れていた。金には何の不自由は無いものの、幸せそうじゃないこの村岡を見るといつも本当の幸せって何なのかと思ってしまう。
でも、話はそんなことじゃなかったのである。

その帰りにマルは杉山がいて心強く、回り道して帰ったと言った。隣町との境あたり、村岡の自宅からそう遠くない所に誰も住まなくなってもうすぐ1年は経とうという鉄筋コンクリート造の古いアパートがあり、そこに寄ってみたかったのである。マルの店に来る客が夜中にかすかではあるが赤ん坊の泣く声をそこから聞いたというのである。マルは子どもの頃にこのアパートに憧れていた。普通の生活をする家族の匂いがするそんなアパートに住んでみたかったのである。

築50年は経つのだろうか、まだ世の中に景気の陰りなどみじんも見えなかった頃、天気が良ければ南向きのこのアパートのベランダには洗濯物と布団があふれ、子ども達の声と家族の笑い声が絶えることは無く生に満ちあふれる場所だった。
それが今では見る影も無い。古ぼけたアパートの1階にはどの窓もベニヤ板が打ち付けられて人が入り込まないように養生されている。周りには工事用の塀が立てられて、解体される日を待っているようであった。所有者の都合でそんな状態なのか、1年経てばここも今話題となる「空き屋」として問題視されるのであろうかと二人は話した。誰にも気付かれることなく朽ち果てるのを待っているかのようでもあり、在りし日を思い出しマルは切なくなった。

そしてマルは聞いたのである。夜風に運ばれて耳に届いた赤ん坊の泣き声を。それはかすかではあるが間違いなく赤ん坊の泣き声だった。
それをマルはヒデに告げた。なんだか嫌な予感がするともマルは告げた。
ヒデは同時に自分の見る赤い夢を思い出していた。どうしてそんなことが思い出されるのかヒデは分からなかったが、嫌な予感がするのはマルだけじゃなかった。

その時のヒデの表情の曇りをマルは見逃すことはなかった。

その夜マルの店は珍しくいつもより盛況だった。
古い建屋の昔ながらのスタイルの立ち飲み屋ではあるが、マルの性格とマルの心のこもった料理目当ての客たちは男も女も上客ばかりだった。良い店は良い店主と良い客が作る。
そして、それは何にしても同じなのである。
生みの親と育ての親がいる。刀は使い手と研師で育てるのである。ただ、現代に本当の使い手はおらず、本当に使える場所などないのである。だからヒデの研ぎは刀達にとって大きな心の支えでもあった。

ヒデは智と刀の話をしていた。智も子どもの頃から刀との縁が切れることが無かった。智の爺さんは元を正せば武家の出自、つまりは智も武家を先祖に持つのであった。ヒデは智とは遠い昔にどこかで出会っていたんじゃないかと思い頭がぐるぐる回り出していた。

「マルさん、なんだか調子が悪いから今日は帰るよ」

そう言い支払いを済ませて智を連れて店を出た。
マルは心配そうな顔をしながらヒデと智を見送った。

「ヒデちゃん、アパートの話忘れてね」

いつもマルはヒデを心配する。亡くなった弟武士たけしの親友だったヒデの表の凌ぎしのぎの裏には聞いてはならない何かがあることをずっと感じていたのである。

ヒデは智の送りがてら智とともに例のアパートに寄ってみた。



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