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研師(とぎし)ヒデの話 (多様性の森に彷徨う若者)その3最終話

智は60手前の施設長に話をして、松井の名を出すと施設長はしばらく黙り込んで「このことは誰にも言うな」と智に言った。智はどういう意味か聞いたが、再び黙り込んだ施設長はパソコンのモニターを見つめたまま口を開くことは無かった。
このことで智は人間不信に陥ってしまったのである。
実はそこには簡単な理由があり、それを知り飲み込むことができれば智は一人前の大人となり、清濁を併せ吞むこともできるようになれたであろうが、この仕打ちは智に与えられた試練でありヒデとの出会いに結び付く運命だったのかも知れない。

ヒデは智から松井の夜勤日を聞き、その日を決めた。
そしてその日の深夜に智を同乗させてヒデの車で施設へ向かった。
「この事は他言無用、じいちゃんにも言うなよ」
ヒデは黒色のジャージの上下に黒の鞘に納めた団子刺しを車に積んでいた。智もヒデに言われるがまま、黒の上下、靴も黒のスニーカーを履いていた。
智から聞いて松井の夜勤の行動を把握していたヒデは深夜のその時間を狙い近くの公園の駐車場に車を止めた。智に施設の鍵を開けさせて、智には柱の陰から一部始終を見ておけと命じた。

松井は利用者たちが消灯時間で部屋に入り寝静まった時間に、とうに食べ終えた夕食の残骸を一階の厨房まで下膳するのであった。ヒデはそれを1階のエレベーターホールで待ち受けたのである。
竣工して3年と経たない施設は3階建て、堅固なRC造りにシックな化粧タイル貼りの建物は地元の小さな社会福祉法人ではマネの出来ない府下で一番大きい社会福祉法人の資金力と、公共からの助成金の取り込み方法の手練れてだれを示していた。
広い玄関ホールは無駄に天井も高く、ヒデの持つ斬馬刀でも振り回せるほどの空間だった。
日中はここで若い利用者たちがはしゃぎ、大きな声や歌声に満ちた陽気な場所なのであるが、誰もいない冷たく暗い陰気な空間に変わっていた。

福祉という、人権を守り弱者を支援する、そんな建前で作られたこの空間で介護者がおのが欲望を満たすために障害者の尊厳を踏みにじり、その介護を目指す若者の気持ちを惑わす行為をヒデは許すわけにはいかなかった。
「団子刺しよ、力を貸してくれな。決して過ぎたことはするな、俺に従ってくれ」
「ああ、わかったよ。智のためなんだろ。俺もあいつが好きだからな。」
切った鯉口から団子刺しの声が漏れ出てきた。
「お前のために助っ人呼んだからな」
「エッ、」とヒデがいう間に松井がエレベーターで降りてきた。
ガラガラと配膳車を押す松井はヒデを見るなり腰を抜かした。しかし、どうも松井の視線がおかしい。なんと松井の視線に合わせてヒデが振り向くとヒデの裏には10人ほどの落ち武者の亡霊が立っていたのである。ある者は片手を落とし、ある者は足が無く刀を杖替わりにし、ある者は後頭部を槍で突かれ目玉が飛び出していた。
その異様な姿を目にして松井は腰を抜かしたのであった。
その昔、近くの古戦場で天下を分ける戦いがあった。その時この近くに落ちのび、こと切れた武者たちが地縛霊となってこの近辺に居つき、それを団子刺しが呼んだのであった。

ヒデは松井に言った。
「この世に様々な人間が生き、すべての人間の生き方が認められるようになった今、お前のやった所業はそんな人たちの生き方まで否定してしまう。いわば多様性の冒涜だ」
「その所業は許すわけにはいかん」
そう言い団子刺しを抜き、
「フン」
と、一刀横なぎにした。
その剣の振りはまるで首切り浅右衛門が二つ胴、三つ胴と罪人の死体を重ねて試し斬りしたその手の振りに似ていた。しかし、松井の首は落ちることなく、皮一枚だけ斬ったのであった。そしてヒデは用意してきた墨汁を顔にかけ、目が見えなくなっている松井に60手前の施設長との関係を聞き出し、
「お前はここの法人で生き続けろよ、ずっとこの落ち武者たちが見張っている。また同じことをやったら今度は首を落としに来るからな、定年前に逃げ出しても同じだからな」
そう言い残し、ヒデは智を連れて車に乗った。

智は生まれて初めて目にした出来事に興奮冷めやらぬ表情で言葉を発することは出来なかった。でもその目は施設に向かった時のおどおどした元気無さは消えて、未来に向けての明るい希望を持った力強い目に変わっていた。

後日談、
松井は顔を洗えば首の切り口には黒い墨が入り込み生涯消えぬ真一文字の黒い傷が残った。鏡を見るたびに恐怖の一夜を思い出した。それからずっと夏でも冬でもハイネックのシャツを着ていた。
そして、法人を辞めることは無かった。実はその時、法人に勤める一回り歳下の看護師と結婚し、子どもが生まれたばかりだった。
辞めなかったのはヒデ達への恐怖もあったが、若い女房や子どもに知られることの方が怖かったのかも知れない。
そして施設長は施設内の30過ぎの女と不倫をしてたのである。
松井はそれを知っていて、お互いに自分の恥部を隠し合ったのである。
こっちは簡単だった。法人と自宅に電話をして、ことの事実を告げたのである。そして施設長は依願退職した。

智は一度にあまりに多くの経験をし、いろんな事を知った。消化不良気味でもあったが、なんだか細かな事はどうでもいいように思えてきた。良い意味で一皮むけて、本当の大人の男に近づいたんだって事に本人はまだ気付いていなかった。

そしてヒデは、近いうちにマルの店に智を連れて行こうと思っていた。一人「マル」の気のいい客が増えたな、と考えるとなんとなく楽しくなってくるのであった。



実は、スタートはこれです。


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