岸田奈美になることを手放した(「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を読んで)
新たな標的に「岸田奈美」を選んだ。
37歳の誕生日から数日後、私は書店で1冊の本を握り締めていた。
岸田奈美さんの『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』
岸田さんとの出会いは、こちらのノートの記事。
泣いて笑ってといろんな感情(基本ポジティブな感情)を文章読みながら繰り広げることができたのは久しぶりの感覚で、それからと言うもの彼女が発信するものを貪るように読んでいた。
そんな岸田さんの本を握り締め、私が思っていたことと言えば、、、
「岸田奈美さんにみたいになりたい」
この感覚、またやって来たよ。。。と思ってしまった。「自分もこんな風に発信できる人になりたい。今度こそできそうな気がする」という感覚。
40代は不惑の年とはよくいったもので、世間で言う40代は迷いがなくなる年代らしいのだが、私は全くその逆を行っていた。もうぶれっぶれなのである。
発信することが上手な人へのあこがれは強く、はあちゅうさんやけんすうさんなどのブログやツイートをみては、自分もいつも”いつか”、こんな発信してみたいなと思っていた。
そしてまた新たな標的を見つけたのだ。
「岸田奈美さんのようになりたい」
「人の感情をグワングワンさせるような文章書いてみたい」
そんな思いは、本編を読み終わり、「あとがき」を読み始めた約23秒後くらいに一気に溶けていった。
だれからも嫌われず、だれもを幸せにできる、そんな岸田奈美になりたかった。だけどそんなのは無謀だったとすぐに気がついた。
あとがきの冒頭6行目に出てくる、この文章。
私はもう、2度見どころか、4度読みくらいしましたよ。
「ちょっ、奈美ちゃん(勝手にもう友達気分)。奈美ちゃん本人が奈美ちゃんになりたかったってどう言うこと?しかもそんなの無謀って!」
「岸田奈美になりたい」と思ったこの私のこのワクワク感をどうしてくれる。なりたい標的を見失ったではないか。
先ほどの文章を5度読みくらいしたタイミングで、やっと気がついた。”誰からも嫌われず、誰もを幸せにできる”という勝手に奈美さん自身が作り上げていた他人の理想の岸田奈美になるのは無謀だということを言っているのだと。
恐れず挑戦できたらいい?
そんな自分も、自分が勝手に作り出した理想の自分になれずに悩み続けた人生だったのではないかと思う。薄々気づいてはいたけど、そんな自分を重ねてしまうような、一文に出会って確信に変わった。
人と同じようにできない自分を、迷惑をかけている自分を、恥ずかしく思ったり、情けなく思ったりしていたのは、だれでもない自分だった。他人じゃない。全部を自分のせいだと決めつけて、勝手に落ち込んでいたのも自分だった。
そうそう、この感覚。
私は自分の生い立ちのせいか(ここを話すと4時間位かかるのでまたいつかの時にとっておきたい)、自分の意見や考えというものをあまり持っていない。持っていないと言うより、相手の意見や考えを聞いたら、「それいいね、やってみようよ」と思って応援したくなってしまうので、相手の意見や考えが自分のそれになったりする。
会社ではこの年(不惑の年に近くと)になると、意見を求められたり、プロジェクトをリードして進めて行かないといけない時もある。頼んでもいないのにその役回りは勝手にやってくる。明日あなたの意見聞くからねと、ちょっとくらい心の準備をさせて欲しいものだが、その時は突然やってくる。
「リッキーさんはどう思います?」「ここどうしたらいいですかね?」
そんな質問が届いた瞬間に「ん〜、そうだねー」と澄ました顔で返事をしてみるものの、心の中では鳩が豆鉄砲でも食らったかのうような状態。
ここで上手い指示や返しができずに悔しく思うこともある。そしてそんな時はだいたい、頭の中ではこの声が無限ループで流れてくる。
「あー、自分ってやっぱりだめだなー」
じゃあどうしたらいいだよ!奈美ちゃん、そこんとこ教えてくれよと、半分逆ギレ状態で本を読み返しているとあったあった。多分、奈美さんの弟の良太さんみたいにできたらいいんだろうなーと!
経験がないことも、おそれず、挑戦する。失敗するはずかしさとかも、良太にはない。
でも良太を見てみろ。当たり前のことをうまくやれなくたって、彼の人生はうまくいっている。楽しくやれてる。楽しくやらない方が、損なのだ。
全くその通りでぐうの音も出ない。人生やっぱり楽しまなきゃ損。失敗を恐れずに挑戦したいとも思う。以前は失敗するてことなんて考えたこともなかったくらいに粋がっていた時期もあったのに、いつの間にかできなくなってしまっている自分がいることに気づいてしまった。はて、なぜだろう。そう考えているうちに、そしてまたこの声が聞こえてきた。
「恐れず挑戦できていない、自分ってだめだな。。。」
ここに来て、また勝手に落ち込んでしまっている自分。あんた、懲りへんなー。慰めてやりたいが、もう知ったこっちゃない。自分を一旦見捨てて読み進めてみると、また一文が目に止まった。
死ぬか死なないかの判断基準もいいかも?
「死ななければ、なんとかなっちゃうんだよ。だから最近の俺の判断基準は、死ぬか死なないかになってる」
奈美さんとカメラマンの幡野広志さんとの会話の中で、幡野さんが発した言葉。
確かにな!死ぬか死なないかの感覚で物事考えたら、ある意味ほとんどのことができちゃうかもしれない。この判断基準で考えたら”おそれずに挑戦する”こともまたできるようになるかもしれないと。
だけれども、またこれもやってみるとなかなか難しい。というのも、死ぬ感覚が全く私の中で現実味を帯びて感じられないから。
これ絶対に体によくないやろうと思っても、お昼も夜もマクドにしちゃう時があるし、ある人に「銃を突きつけられて、やれと言われたら死ぬ気でやるでしょ?」と言われたことあったが、綾戸智恵さんが銃を突きつけられ時、おしっこ漏らして逃げたというエピソードを思い出し、自分もそうしたら逃げれるかなと想像した時点で考えるのを辞めた。。。
死ぬか死なないかは一つの判断基準になり得るけど、今の自分にはまだまだピンとこないのかもしれない。
そうして読み進めるうちに、最後に辿りついたのはこの一文だった。
好きな自分でいること
「好きな自分でいられる人との関係性だけを、大切にしていく」
あー、やっぱりこれだなと。他の人が考える理想の自分ではなく、自分が好きな自分でいること。アナ雪が流行るずっと前から、ありのままでいたいなといつも考えてきた自分がいたのを思い出した。けれど、自分って自分自身のことを、他人の目を通しての理想の自分でしか見てあげれていなかったなと。自分に謝りたい。こめんよ。
ありのままの自分てなんだろう。誰といたら自分は好きな自分でいられるだろう。そう思って真っ先に思い浮かぶのはパートナーや母だった。
以前、不安に駆られて身動き取れない時があったが、そんな時は何も言わずただ応援してくれたパートナー。無謀な夢を語っても「いいねー、やってみたら」と何の疑いもなく応援してくれる母。そんな人が周りにいたからこそ、自分も人を応援したいのだと。人のことを応援している自分がやっぱり好きだなと。
岸田奈美さんになることは辞めました。
今回、『キナリ読書フェス』の読書感想文の課題図書の中でどれを読むか迷った。自分が持っている悩みと呼応する本を選ぶといいということで、課題図書にどんな悩みが書かれているかが紹介された。
その中で、ぱっと一番目についたのがこれでした。
『楽しくおもしろく生きていきたい』
何でこれが目についたか思考レベルではわかっていないけど、魂が「自分をもっと好きになって、楽しくおもしろく生きていったらよろしおすやん」と語りかけてくれたからだと、今は思う。
そして私はすっかり忘れていた。「岸田奈美になりたい」という思いを。
それでいいんだと思う。
岸田奈美さんになるのは辞めました。その代わり憧れ続けることにします。
憧れは憧れのままにしておいて、人のいいとろこ見つけて、「いいねー、それやってみようよ」と人の可能性を何の疑いもなく信じて応援できるリッキーでいたいと思う。
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