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日本の教育観点が独特すぎるので、リスキリング政策の効果は期待できないのではないか


リスキリング政策とは?

2020年に世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で、第4次産業革命に伴う技術の変化に対応した新たなスキルを獲得するために2030年までに世界で10億人をリスキルすることを目標に掲げ、「リスキル革命プラットフォーム」の構築が宣言された。

2021年2月26日に開催された経済産業省「第2回 デジタル時代の人材政策に関する検討会」においてリスキリングは以下のように定義された。

新しい職業に就くために、あるいは、今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、必要なスキルを獲得する/させること

経済産業省の取組(令和4年2月)

しかしながら、このリスクキリング政策は効果が期待できないのではないか?という考えを私は否定することができない。
理由はいくつかあるのだが、最も特徴的なものが日本国内に存在する教育に関しての独特な観点・文化というものが、海外の教育観点と大きく違うために、世界会議などで決まった内容に沿って実施しても意に反する結果が訪れるのではないかと思っている。



歴史の流れから見る日本の教育に関する観点

私は歴史家ではなく単なる商売人であるが、私が知る程度の知識で歴史を振り返ってみる。
日本人の教育観点に公共性と収益性は生まれてない。

日本の教育には2つの文化・流れが存在する

日本国内において歴史的に近代に最も近く、教育についての観点が生まれ始めた江戸時代をスコープにして観察してみると大きく2つの流れが存在している。1つ目は政治を取り行っていた武士階級における教育、2つ目は一般の人たちの生活の中にあった寺子屋教育。

江戸時代:武士階級の教育は仕事

政治を執り行う武士階級は藩という組織が指南役を雇用し、武士たちは研修として取り組んでいた。教育は仕事そのものだった面が強く、受講することは仕事においての役務を果たすことと同意義であった。これにより組織や上役が自分たちの仕事=教育を作り出してくれているという文化があった。
教育は上役や上司が施してくれるものであって、受けるは研修なので仕事という流れだ。

江戸時代:庶民階級の教育は暇つぶしか託児

一方で寺子屋を中心とした街中の教育については、暇な人間が暇つぶしのために活用することであったり、親が手をつけられない子供が放り込まれるような託児所に近い面を持っていた。寺子屋の講師は他に生計を立てられる生業を持っており、趣味みたいなものとして人に教育を行っていた。
教育や学問というよりも暇つぶしや趣味に当てられるという流れだ。

明治時代〜戦前時代:国策教育と一般市民

明治維新が起こり、富国強兵や文明開花という時代に入り、仕事の種類が増えて識字率を上げないと生産性が低いという問題に直面する。
こうして国家主導による国民教育が始まるが、民間の教育に関する観点や文化は整備されていないままとなっている。
良くも悪くも「近代化の装置」という表現が実にしっくりくる。

私の祖父は大正生まれで、太平洋戦争に参加した世代だ。
祖父は尋常小学校では大変成績が良く、中学校の校長先生から「学費を免除するのでぜひ進学して欲しい」と呼ばれるような存在だった。
しかし祖父の父は「学校で学んでいる間は家の稼ぎにならない」と進学の話を断った。明治から始まった国策の教育≒学問が金にならないことを祖父の父は知っていた。

戦後時代〜高度経済成長時代:復興と抑制からの解放

戦後になり人々は復興に湧いた。
戦時下で出来なかったことが出来るようになったという反動も手伝って大いに国内の学問は推進した。
そしてある程度復興が進むと学校に通うことが復興のステータスにもなっていた。
私の祖父は自分が進学できなかったため、自分の子供たちは全員大学に行かせた。子供を学校に行かせることは豊かさの象徴でもあった時代だったわけで、子供自身が学校で何を学んでいるかなどは気にしてなかった。

父母たちの世代からは「大学に行って良かった」「何を学んだかではない、我々は学生時代というものを謳歌したのだ」という話を良く聞かされた。
その下の世代からは「就職のために」と聞かされた。

高度経済成長期以降:進学の目的は卒業後の進路選択肢を増やすため

時代は移り変わって大学の目的は教育を受ける場、研究を進める場というものからモラトリアムやステータスに変わり、そして近年は職業訓練が目的に変わったことは否定できない。

働く人の総数は1950年から最労働人口の推移最高値であった2005年にかけて1.5倍ほどに増え、親世代が子供世代の進学にお金を使う余裕が出来たという時代があった。大教育時代みたいなものの訪れだろう。
「良い就職をするには良い大学を卒業する」という言葉は誰しもが一度は耳にしたことがあるような言葉だ。

労働人口の推移
大学設置数の推移

大学の設立数は年々増加して高度経済成長期である1970年頃の約400から2倍となる800を突破した。
これはユーザーである学生側からの求めに大学側が応えただけだろうと考えている。需要があるから供給が発生するのはどの世界でも同じだからだ。
しかし労働人口は1.5倍にしかなっていないのに、大学数が2倍とは、いささか増やしすぎだろうと私も考えている。大学が飽和状態になっていることは否定できない。

今の時代に大学に行くということは教育でもなく、モラトリアムなどのステータスでもなく、職業訓練が目的なのだ。
この部分の認識を間違えると対策すら打てなくなるのだが、世の中の大多数は未だに大学という場所に学問的な意味を求めてしまっている。
感情に振り回されて正常に市場を判断することができなくなっているのだ。
学びを抑制されていた戦後世代なんかとっくに引退しており、モラトリアムやステータスを謳歌していた世代も引退し始めているというのに、だ。

進学については職業訓練であるというのが私の持論だ。

社会人になってから学ぶということ=研修は仕事

江戸時代の武士たちと同じように、社会人になってからの教育というのは仕事で研修を受けることになっている。

アジアの国々との比較

たった一例ではあるが、現在の日本はアジアで最も大人が学んでいない国となっている。こういう調査は諸々あるが、1日の平均勉強時間が5分〜10分以下だとか馬鹿げた数字が立ち並ぶ。
しかし私が10数年仕事をしてきて「仕事の研修」というのはどんな会社でも実施されていたし、働いている人たちは面倒臭そうに「仕事の研修」には参加している。

プライベートで勉強をするという感覚がないのだろう。
アンケート形式の調査結果にはそれが反映されているだけだ。
例えば経営者層にとって飲み会に参加して他の経営者と繋がり、いろんな情報を収集することは勉強になることだ。
同じようにバイト同士の交流のための飲み会だって勉強になることはあるのだが、参加している本人たちの自覚がないため勉強というものにカウントされず、アンケートの結果に反映されてしまっている。



歴史の流れから見る海外の教育に関する観点

日本の歴史のように海外の歴史は簡単にはいかない。
しかし大学の起こりを追ってみると実に面白い。
日本の大学がいかに機能していないかがわかった。

世界の大学の成り立ち

紀元前380年頃のギリシアでは哲学者プラトンがアカデメイアを開き、そこでは哲学だけでなく数学が教えられていた。そのほかにも医学を教えたりするところもあった。
中国では紀元前120年頃の前漢時代に大学が設立された。
5世紀頃のインドでは仏教を中心として天文学などの知識も教授されている。
日本では7世紀に天智天皇によって大学寮が設立され、官僚養成が目的とされていた(この頃からすでにお仕事になってる)

大学は学生ギルドから始まった

各国の大学の成り立ちはそれぞれ宗教や国の官僚たちの育成機関という目的がほぼ大多数を占める。
国がお金を出して教育を施すのだから、その目的に見合った費用対効果が望めないのでは意味がないから当たり前だ。
では現代のような大学はいつ頃発生したのか。
それは12世紀〜13世紀頃にイタリアやフランスで始まっている。
中世の西ヨーロッパでも専門職を養成することが大きな役割であったのは日本とも変わらない。

ヨーロッパには親方と呼ばれる人が弟子を取っていた文化が存在し、この文化が大学を自然発生させた。
職人や手工業者の営利的なギルドと同じ仕組みを利用して学生ギルド ≒ 大学の原形が作られたとも言われている。
大学に行くということはお金を稼ぐという営利目的な部分が非常に大きかった。そして現代の日本の職業訓練と違うのは親方=教授も弟子=学生も既にお金を稼いでいた人たちが中心だったのだ。

海外の大学は単体でお金が稼げ、日本の大学は致命的にお金が稼げない

アメリカの大学の主な収入は寄付金、企業などからの研究開発投資、授業料、運用益の4つだ。
スタンフォード大学なんかは授業料が全体収入に占める割合は16%程度しかない。皮肉にも日本の企業は国内の大学よりも海外の大学に研究開発投資を行っているという情報もある。

海外の大学には寄付金を集める専門部隊がいて、卒業者たちにせっせと寄付金のお願いをしている。もちろん寄付金と同様に企業にも研究開発を投げかけ、お金を投資してもらっている。
ビジネスモデルが日本の大学と大きく違うのだ。

日本の大学は私学は8割近くが授業料収入で、国立は5割近くが税金で賄われている。

今日の私学財政(平成29年度版)
国立大学法人運営費交付金予算額の概要(平成26年度)

日本の大学は海外の大学に比べて致命的にお金が稼げない。
お金が稼げないのに学生が求める職業訓練をメインに教育しているのは何かの喜劇か、悲劇か。
多くの日本企業も投資効果が少ないと判断を下して国内の大学よりも、海外の大学に投資しているのだろうと説明されれば非常に頷ける。

学生にとっての教育

海外の学生にとってみれば大学に進学する目的がお金稼ぎであることは明白である。今の自分ではお金が稼げないから大学という場所に行き、教授という親方に弟子入りをするのだ。
退屈な授業から逃れるようにバイトやサークル活動に勤しむようなモラトリアムは存在していない。
みんな必死にお金を稼ぐために自分の理解や疑問と向き合っている。
実にシンプルで良いと思う。

ある国の学生は母国語で医学を学べないから英語やドイツ語を勉強しているそうで、国内の学校では医学を学べないから海外の大学に進学するそうだ。
ある国の学生は母国に自分の疑問への答えを持ってる人たちがいないため、海外の大学に進学するそうだ。

大学に入り、金儲けや大学のビジネスモデルと出会い、それぞれ卒業後に学んだ知識を使ってお金儲けと学問を発展させている。
そして儲けたお金を寄付、研究開発として更に大学に注ぎ込み、更なる金儲けと学問の発展を呼び込んでいる。
これが海外勢の大学の使い方なのだ。



国内のリスキリング施策がなぜうまくいかないのか

お金をね、致命的にお金を稼げないのよ。
大学も、教育コンテンツを提供している市場や企業も、国さえもお金儲けを考えていないんだから、投資ではなく消費になると思ってる。

国内の教育コンテンツが安すぎる

人材投資の国際比較

よく日本企業は人間に投資しないと言われているが、国内の社会人向け研修や教育用コンテンツが安すぎることはあまり指摘されていない。
国内最大手とも呼ばれるグロービス社の法人向けサービスではMBA2.0を動画学べるのだが、これは1名につき年間1〜2万円くらいの費用がかかる。
これで教育の質が担保できるようなコンテンツが作れるだろうか?
動画を見て、学習している人たちが更なる疑問に思ったらどうするのだろうか?

教育研修費用の実態調査(2018年度)

新人教育用の研修費も1名につきだいたい5万円程度である。
この予算で何を教えるというのか?
100万円使っても社員が200万利益を上げてくれる人材になるのならば、企業はいくらでもお金を払ってくれると思う。
「新人はゆっくり育てよう」とか寝ぼけたことを言ってる間に、海外では大学で鍛え抜かれたビジネス戦士たちが成果と共に出世街道を直走っている。
何百ドル、何千ドルもかけてビジネス戦士たちが次々に武器を手にしている間に、日本はマナー研修とかやってるから絶対に追いつくことができない。

国内は教育コンテンツが安すぎるから質が低く、質が低いから企業の投資の向き先として選ばれないのだ。
社会人教育業界はもっと金額を上げて、効果や成果のある教材やコンテンツを作りまくる必要がある。
社会人教育業界が顧客からお金を引き出せないでいる状態だが、ここに国や民間の金融機関が投資をするというのであれば何か変化が起こせる可能性が出てくるかもしれないと私は考えている(可能性は低いと思うけど)

国内の事業者向けリスキリング施策

一社につき64万円を上限として、助成対象経費の2/3が出される。
従業員10人の会社なら1名6.4万円程度しか補助されず、だいたいのコンテンツの費用は9.6万円程度に抑えなければ売れない。
社会人向け教育コンテンツ業界の売り上げを左右するような施策でしかない。
9.6万円程度のコンテンツで期待される費用対効果はなんなのか。
利益を上げるだとか、生産性を向上させるだとか、そういうものが期待できるような類いのものではないだろう。
結局は自社で、OJTで、現場で、根性論的なもので叩き込む手法しか使えない状況は何も変わらない。

eラーニング実施率は8割だが…

国内企業のeラーニング実施率調査(2015〜2016年)

一見高そうにも見える国内企業のeラーニング実施率だが、継続率は圧倒的に低い。ここには表記できないが、とある社内調査では継続率3%という数値を目にしたことがある。
なぜ企業の教育にeラーニングが選ばれるのかは価格と手軽さらしい。
企業が研修にお金を使ってもお金を稼げないと学習しているのがeラーニングではないのかと思う。

それに各企業内でeラーニングの効果測定はどのようにするのか?
大学や高校などの教育でも課題とされているeラーニングをたかだか民間のいち企業が効果的に使用できるアテはあるのか?
些かeラーニングへの期待が大きすぎやしないか?
私は教育者としては素人も同然だが、企業の経営者として考えた時に費用対効果くらいはわかる。
だとしても何にいくら費やせば、どれくらいのフィードバックが返ってくるのかが不明確すぎやしないか?

これら136本の論文のうち、効果量を算出できる情報を明らかにしていたものは、例えば理解度では24本にすぎなかった。このようにeラーニングの研究の多くはICTベースの教育システムを教室に導入してみたらどうなるかというアクションリサーチ的な側面がまだ強い。

eラーニングに関する実践的研究の進展と課題


キャリアアップ支援事業

リスキリング施策は個人としても支援を受けられ、最大で56万円の補助が出るそうだ。
中身見てみたけどプログラミング、介護、DX関連がほとんどを占めている。
転職を主に支援してくれるとのことらしい。

あれ?大元のダボス会議で「第4次産業革命に伴う技術の変化に対応した新たなスキルを獲得するために」って言ってなかったっけ?
プログラミングはまだわかるけど介護は違うんじゃないのか。
中でもすごかったのは中身が何もないような会社まで事業開始事業者にノミネートされてたことだ。

事業開始事業者一覧より抜粋(2023年8月30日更新)

将来、需要の高まる職業として、データサイエンスやAI、クラウドコンピューティングといったデジタル技術に関わるものと同時に、医療やホスピタリティ、健康といったケア・エコノミーや、マーケティングや営業、人事など、「人」に関わる職業も必要となるとされている点。

Jobs of Tomorrow: Mapping Opportunity in the New Economy

企業に頼るにしても予算が低すぎるし、低すぎて予算に合わせて買えるコンテンツは頼りない(なんなら未定)
個人は転職するならお金を出してくれるけど、こんなの無理矢理に人材流動性の数字を作ろうとしてる気満々じゃないですか、と疑いたくもなる。



まとめ

日本人は教育というものに対して幻想を抱きすぎている。
日本の大学はお金が稼げないし、稼げない場所で学ぶ職業訓練に価値が見出せず、卒業して入った会社で低予算低価値の教育コンテンツに触れる。
当然そんな低価値のコンテンツで何も変わらないので、転職をキーにして国から支援を受けるしかない。

はっきり言って現在の日本の教育は金持ちの道楽であって、貧乏人が手を出すものではない。
単独でお金を稼げない大学の維持費を学生が入学金や授業料という形で賄っている。金持ち以上に暇じゃなければ実行できない沙汰だろう。
その後、何年も奨学金の返済をするというのだ。もはや狂気と言っても過言ではないだろう。
教える人、学ぶ人、関わる人たちが、お金を稼ぐこと=実になるを忘れてるからこのような事態になっていると私は考えている。
国内の教育機関に投資という考えが露ほどもなく、投資という考えがないことが基礎になってるから、金持ちたちからお金を出してもらえないんだと思う。

そして国策のリスキリングに関しても社会人として役に立たせたいのか、転職斡旋したいのか目的をはっきりとさせて欲しいとは思う。
5年で1兆円を投資するなら、社会人向け教育コンテンツの質が上がるように投資をし続けてくれと思う。「教育の機会を平等に」というのは、経産省がリスキリング施策でやることじゃない。
この施策で国内企業が海外大学の投資よりも国内の社会人向け教育コンテンツや国内大学に研究開発投資を行わなければ効果としては非常に薄いものになる。

5年という時間、1兆円というお金を使って施策を打つなら大学数を今の1/10に減らし、お金を稼げる仕組みを大学に注入することの方が圧倒的に公共性が高いと私は考える。

社会人もバカではないので、社会人教育という質の低いコンテンツに使いたいお金も時間もないということを良い加減に認める良い機会だと私は思う。
リスキリングを機に、良い教育コンテンツが溢れる社会になってくれることを心から願う。

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