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楫枕 地唄の歌詞がわからず「遊郭と日本人」をよんだこと

地歌 楫枕(かじまくら)

いま練習している古典の曲ですが、曲名の漢字が読めませんでした。
きへんに口に耳でスマホで検索して、すぐ読み方がわかってよかったです。
三味線屋さんで楽譜を買う時に言わなきゃいけないので。

江戸時代につくられた古典の曲は歌詞とか、わからないことが多いです。
私は、大学受験で浪人しましたが、古文は0点〜30点の実力のままで、
和歌的な歌詞の意味はちんぷんかんぷんです。

譜面があるので、メロディの三味線の指でおさえるところははわかるのですが、中身や日本語の意味がわからないのが少し気になる。
それで歌詞の意味を調べようと思いました。

歌詞の単語をスマホで検索して訳してみたのはこちらです↓


地唄三味線おと遊び、というページを作成されている方のこの曲についての解説がありました。

楫枕とは、楫を枕として寝るの意から
船中の旅寝を意味し、
船の上で暮らす遊女たちの悲しくもやるせない心情を歌っている。
遊女の揺れ動く空しい心情を、
舟上の仮寝に例え、いつか遠い将来には思い人と固く契り、
この世界から逃れ出たいと願う内容、とのことです。

こちらのページを先にみていればよかった。
しかし、私は田中優子先生という方の「遊郭と日本人」が出版発売されたという宣伝で、三味線のことも触れられていたのでこちらも読んでみるべしと、思ってしまいました。

時間がかかりましたが、読ませてもらいまして、自分のわかっていなかったことについてはっきり書かれていてよかったです。

私はそもそも遊女という名前になじみがないのです。
床をともにする、ことを職業上されるのであろうことはわかっている気分になっていました。
しかし実のところ、芸者という人たちのこともよくわかっていませんでしたので、ごちゃごちゃでした。

この楫枕の曲のはじまりの歌詞、空櫓(からろ)ですが、
意味は、櫓を水中に浅く入れてゆっくりこぐこと。(コトバンクより)

遊女in遊郭、ではなく、遊女 on ship、なんですね。
だれがこいでるの?遊女さん?船頭さん?

田中先生の「遊郭と日本人」に説明がありました。

遊郭以前に存在していた遊女
平安時代には遊郭はまだなかったが遊女はいた。
舟で移動しながら楽器を奏で、唄をうたい、夜は枕を並べた。
遊女記によると大阪淀川河口、尼崎の神崎、その対岸の蟹島は船の行き来が頻繁で人口が多い所であった。
そこには遊女たちがいた。
彼女らは舟で移動しながら美しい調べを奏で、
その歌声はインドの黒ホトトギス「くしら」のような美しさであった。
彼女らには「長者」という統率者がいて、客に呼ばれると派遣された。
つまり、彼女らは芸能者であった。

ということで、もともと遊女の人たちは水上で芸能活動をしていたのですね。

以下も移動していた遊女、芸能者であったこと、川についての解説です。

旅をしながら芸能を見せ、同時に色を売った女性たちであった。
遊郭はその移動する芸能者である遊女が選ばれて集まる場所として作られた。

吉原に入るまでの道程は、特に川を使って舟で近づいていく時、
辺境の別世に入って行くような気分にさせる仕掛けになっていた。

吉原の町じゅうに三味線のすががき(唄なしの演奏)が聞こえる。
格子の中で遊女が弾いているのである。

遊女は三味線が弾けたということですが、その程度ではない教養をもった人たちであったそうです。以下がその解説になります。

京都の島原遊郭の最高位の遊女、吉田太夫
もてなしの場では前掛けをして自ら立ち働き、琴を弾き、和歌を詠み、
茶を点(た)て、花を生け、和時計の調整をし、碁の相手をし、
娘さんたちの髪を結い、面白い話で人を引き込んだ。

多くの遊女は手紙を見事な筆跡で書いた。
俳諧、狂歌もでき、漢詩を作ることもあった。
平安貴族のように髪や着物に伽羅(から 輸入の香木)を焚きしめ、
着物をセンスよく着こなした。
後に芸能は芸者たちに任せられたが、それまでは琴、三味線を弾き、唄を唄い踊りや能の舞も披露していた。

とのことで、
大学受験をしても古文がちんぷんかんぷんの私とはレベルがちがうということでした。ちなみに私は漢文も全然わかりませんでした。

そして、私は芸者という方たちの定義がわかっていませんでした。
移動生活をして芸能者であった遊女たちが、
遊郭という世界の中に入った理由、そして芸者という人達がうまれてくる流れも解説されていました。

遊女はかぶき踊りによって現在の歌舞伎を開発した女性たちであった。
出雲の阿国が始めたかぶき踊りを京都の遊女たちが継承し、
常設の舞台で興行化した。
かぶき踊りに三味線を導入したのも、遊女たちであった。
つまり遊女は芸能者であった。
しかし遊女歌舞伎があまりにも熱狂的人気を集めたため、危険視され弾圧された。
歌舞伎から女性たちが追放されて
若衆歌舞伎になり、野郎歌舞伎になって今日に至る。

遊郭が出現した理由は演劇から女性が追放されたことによる。
しかし、遊女は芸能を持ちつづけた。
芸の能力を持った遊女たちを集め遊郭が作られた。
そこではかぶきと呼ばれた踊りではなく伝統的な舞が中心となった。
そして遊女たちの教養の高さ、
着物の素晴らしさ、人柄の暖かさ、
言葉の面白さ、振舞いの見事さ、
年中行事の華やかさなど
芸能以外の側面が評価されるようになり、
芸能は別の人々に委ねられた。
かぶき踊りの時の踊り子たちが遊郭に呼ばれ、遊女屋に常駐する芸者と、遊郭内の自宅に住む芸者が生まれるようになった。
吉原芸者という格の高い芸者層が生まれた。

ということです。
そして、吉原、遊郭は明治の外国からの影響による廃止例、
そして戦前、戦後という時代の区切れの中で
和歌などの教養も芸能も宴もそして床もふくまれていた場から
遊女と芸者の活動が分離していく解説もありました。

解放令後も吉原は繁盛したが、同時に芸者が人気を集めるようになった。
吉原では、貸座敷、茶屋、遊女の三業が協力しあっていたが、
芸者の世界では芸者置屋、料理屋、待合の三業種が連携し商売をした。

待合には置屋から芸者が、料理屋からは仕出しが届き、
芸者衆は三味線やその他楽器、踊りなどの芸を売った。
宴席ではお酌もし、拳の遊びなど様々な遊びをした。

遊女屋がなくなった後の吉原では
茶屋で芸者を揚げ、幇間(男芸者 太鼓持ち)を呼び、
三味線、太鼓、唄や踊りで存分に楽しんだ後に、貸座敷で遊女と会った。

人によっては茶屋での遊びが楽しく、だからといって、遊女を指名しないで茶屋で遊ぶこともできないので、茶屋での遊びが終わると遊女の玉代を置いて帰ってしまう人もいた。
遊女屋で宴を行った江戸時代とはだいぶ雰囲気が違った。

とのことでした。
以上の解説を読んで、遊女、芸者について知ることができました。

また、別の書籍になりますが、
田口尚幸先生という愛知教育大学の古文のスペシャリストの先生が
地唄の歌詞について解説された、
「箏曲地唄五十選 歌詞解説と訳」(邦楽ジャーナル刊行)という書籍があることも知りました。

五十選のなかには楫枕も含まれているので、読んでみたかったのですが、
なんと現在どこにも売られていない、と書籍の通販サイトの方の情報でした。再販を検討されているそうで、22年春になる可能性もあるそうです。


2022年追記、ほんとにまた発売されましたがすぐ売り切れになってしまいました↓ 


筆者の先生はさらにサイトもつくられ、そちらでは
古典文学と古典音楽の融合をめざす試みとし、
歌詞と曲調の同調を指摘できれば、文学と音楽がいかに融合しているかを明示できる、とおっしゃられています。

ハードル高過ぎですが、私もそこまで理解できるようになれればスゴイことでしょう。
いっそ学校の古典の授業で三味線も弾いて、
歌詞の内容も説明してくれれば、古典文学と古典音楽の融合を理解する基礎力がつけられたかもしれませんが。
これからちょっとづつ知識が増えるといいなと思います。

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