からだで実感すると幸福感が増すことについて

「身体性」というワードに、近頃強く興味をひかれる。
とても個人的な思いからなのだが、
脳で知覚できることと、身体で知覚できることの間には、
おそらく大きな隔たりがあって、
そのどちらか「だけ」が発達してしまうと、幸せを感じにくくなるんじゃないか。そんなことを考えているのだ。

ちなみに、物事を知覚する方法には、おそらく個人差がある。
耳で感じるタイプ、においで感じるタイプ、目で感じるタイプ、などなど…。
私自身はおそらく、接触からはじまって、全身で感じるタイプだ。
たまに心理学界隈で見かける「体感覚優位タイプ」と言われるものに近いかもしれない。

これはなかなかにやっかいなタイプで、
彼氏と電話やLINEでやりとりしていても、それがあまりに続くと「この人は本当はAIなんじゃないか」「りんなとしゃべるのと何が違うんだ?」という謎の雑念がどこからともなく湧いてくる。
そして、実際に会うと、とにかくベタベタ触る。そして、ありとあらゆる手段でその全体像を認識しようとする。
空間を共有し、この人はこんな存在感があるのか、
こんな雰囲気をまとっているのか、こんな言葉をつかうのか…
そんな「実感」が身体にいきわたってようやく、「ああ、この人は本当にいるんだ」「わたしの知ってるあの人だ」と思うのだ。
おそらく人のことを、「平安貴族みたいな雰囲気の人」とか「あったかいオーラを感じる人」といったように、その人から受けた感覚で記憶しているのだろう。そのせいか、名前や細かい情報をどうしても覚えられないことも多い。

ここまで書いて、自分でも「なんて抽象的な話なんだ」と思ったし、
ただの不思議ちゃんだろ!と思う人が多いだろう。
けれど自分としては、悲しいが的を射た表現をしていると思う。
つまりは、何かを認識したり納得したりするために脳だけでなく身体でも納得する必要があり、相当の時間と手間がかかるタイプだということである。

ここで一度、最初の話に戻ろう。
「脳での知覚と身体での知覚、どちらかだけに偏ってしまうと、幸せを感じにくくなるのでは?」という問いかけだ。

脳で知覚する情報量は、インターネットが生まれて以来、膨大なものになり続けていると思う。
それに対して、身体での知覚はどうか。
自分の足で歩いて、自分の手で触れて、自分の口で確かめる…
そんな経験は、脳での知覚に比べたら少ないのではないか。
私の学生時代は、特にそうだったのではないかと思っている。
頭では、こうなったら次はこうなるだろうとか、
こういうときはこうするべきなんだろうとか、すらすら出てくるのだけど、
実際にその過程を自分の身体で体験していない状態。
つまり、頭の体験と身体の体験とが一致していない状態にあったと思っている。

このような状態は、身体で納得する必要のある私のようなタイプにとって、
自分自身に対する納得感の薄い、いびつな状態である。
こうなってしまったのは、時代の流れに身を任せていたこともあるけれど、
何より子どもの頃のつまずきが発端だと思う。

上述したような面倒な性質のせいか、何かにつけて身体で覚えないと習得できず、初めからそれなりにできるということがほとんどなかった。
自分なりに練習と準備をして、初めて人並みになれる人生なのだ。
勉強はそうやって努力をしたから、ある程度のところまで行けたけれど、
運動はそれができなかった。
嫌いだったからではない。残酷な周囲の子どもたちにバカにされるのが嫌だったのである。

4歳の時点で身長が130cm近くあり、何をしてもしなくても目立っていた私は、「恥ずかしい」という気持ちを知るのも早かった。逆上がりやマット運動の練習は、家ではないどこかでしなければならないけれど、そうすると失敗した姿を誰かに見られる。これがとにかく嫌だったのだ。
大人はまだしも、同世代の『猛獣』(幼稚園に通う年齢ならうるさいのが当たり前なのかもしれないが、普通に話したいだけなのに何なんだ、怖すぎると正直引いていて、うるさい子たちを勝手にこう捉えていた)たちに見られたら最悪だ。彼らは自分にできることができない者を簡単にバカにするからだ。本当はできるようになるまで努力したかったけれど、カッコ悪い姿を見られたくなくて、「私は運動ができない」と思いこんだ。

今ならわかるが、本当は「できない」んじゃなくて、「経験が足りない」のだ。
バカにされるのが嫌だったこと。そして、何をするにもとにかく時間と手間がかかるから、つい面倒に感じてしまうこと。それが引き金となり、昨今のインターネット技術の発展もあいまって、身体の実感が足りないまま大人になってしまった。大人たちは勉強ができる子には優しいから、それしかできなくても何のお咎めもない。「頭では分かっているのにできないこと」に出くわすたび、心ばかりが先走って動くこともできず、青春と呼ばれるものも横を通り過ぎていった。
それは自分が「何もできない人間だから」と思っていたけれど、そうではなくて、「身体の実感をしようとしてこなかったから」なんだと気づいたのは、社会人になってからだった。

いま私は、手のひらからこぼれてなくなり続けてきた「身体の実感」を、大人になってひとつずつ取り戻している。
あんなにできなかった平泳ぎも、教え方のうまい人に教わってしばらく練習したら、できるようになった。ずっとやってみたかった生け花も、だんだんこつがわかるようになって、楽しくなってきた。人と話すことも苦手だったけど、そういう場を増やしていくうちに、前ほどの恐怖心はなくなった。
身体性を取り戻すことは、確かに私に幸福感をもたらしている。

今でもバカにされることへの恐怖はある。それに、やはり納得するのに時間がかかるので、面倒すぎて動けないこともいまだにある。
でも、それらを少しずつ、自分の手の中に取り戻していきたい。
家事はそれの最たるものかもしれない。料理などは、やる前からあれもこれも想像してしまって、得られるものが労力に見合わないと思いがちだった。
今は「かんたんにできる●●」が巷には溢れているし、教えてくれる人もたくさんいる。そこからでいいじゃないか。私の周りにはもう、できないことを揶揄する猛獣はいない。それに、そんなやつがいても、「あなたも一緒にやろうよ」と言って仲間にしてしまえばいい。今ならそう思えるのだ。


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