女性観の違いは、歌詞にあらわれる

男性が女性のことを描く、という事例は世の中にいくらでもある。
映画、音楽、小説、演劇など、多くのコンテンツの作り手は、今でこそ女性も増えているものの、やはり男性の方が多い。そうなると、男性が女性を描写する機会は必然的に多くなる。

この、男性による女性の描写には、国家間の差が大きいのが面白い。
特にそれが端的に表れるのが「歌詞」だ。

まずは日本の場合。
いまはJ-POP全盛の時代だが、日本の従来の価値観を反映しているものとして、ここでは演歌を取り上げたい。

演歌は、郷愁や男女の情念を歌うものが一般的だ。石川さゆりの「天城越え」などは、私くらいの世代でも「女の情念系の歌だ」という認識がある。下記に歌詞を引用しよう。

恨んでも 恨んでも 躯うらはら
あなた…山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地を這って
あなたと越えたい 天城越え (石川さゆり「天城越え」)

ここだけ見ても、女が男に捨てられたか愛想を尽かされたかで男を恨んでいて、けれどそれでも想いを捨てきれないさまが読み取れる。そこに描かれているのは、恐ろしいほどに一途な愛をつらぬく女の姿である。
もちろん、演歌は基本的に歌い手と作詞者が異なっているから、そのメッセージは歌い手自身のものではない。演歌は文字通り、フィクションの世界を演じて、聴き手に届けるものだ。男に捨てられても思い続ける「一途な女」に心動かされる国民性だからこそ、数々の人気作詞家(多くの場合、男性である)がそのような女を描き、ヒット曲を生み出してきたのだろう。

それに対して、地球の反対側、アルゼンチンはまさに真逆だ。
アルゼンチンタンゴの歌詞をいくつか引用する。

私はマリア。
ブエノスアイレス育ちの。
もし人がこの町で、私が誰か尋ねたら、
すぐによくわかることだろう。
女たちはみな私に嫉妬するだろう。
そしてどの男も、私の足元でネズミのように
罠に落ちるに違いない。(Yo Soy Maria:私はマリア)

タンゴの歌詞には、このような自信に満ち溢れた娼婦がたびたび登場する。
そして同時に、彼女らに手ひどくふられて投げやりになる男や、別れた恋人をいつまでも引きずる男が多く描写されるのだ。

君の思い出がつむじ風と共にやってくる
秋の夕暮れに帰ってくる
私は露雨を見つめ、そしてその間にも
スプーンはコーヒーをかき回し続ける(El Ultimo Cafe:最後のコーヒー)

アルゼンチンタンゴは元々、19世紀のブエノスアイレスの貧民街で、移住してきた白人、労働力として連れてこられた黒人、原住民であるインディオといった多様な人々が混血化していくのに従って、土着の音楽と移民の音楽とが融合してできた音楽である。ここに現れる娼婦たちは、性を売らなければならない悲哀をまとった存在というよりは、強くたくましい存在として描かれている。弱い男には見向きもせず、愛の終わりも自ら告げ、嘆き悲しむのはたいがい男のほうなのである。
国民性の違いが、こんなところにはっきり出ていて面白い。



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