絵画を前に、心の問題を思い出した話

先日、国立西洋美術館の常設展を見てきまして。
その際、すごく心惹かれる絵と、出逢いました。

ウジェーヌ・カリエールという、フランスの象徴主義に属する画家の作品です。
そこで見たのは、自画像を含む二点です。
なんだか、肉体というより魂が描かれているようで、しばらく目の前に座って、見入ってしまいました。

画像ではおそらく、何も伝わらないとおもいますが、、
ぜひ本物を見ていただきたいです。

ウジェーヌ・カリエール 自画像 Self-Portrait
ウジェーヌ・カリエール 「モデルによる習作」または「彫刻」

2016年に、損保ジャパン日本興亜美術館で展示があったんですね。当時の私は、それどころじゃなかったらしく、まったく気付きませんでした。

図録を取り寄せてみました。そうそうたるコレクションで、行かなかったことが悔やまれます。。

好きな絵、見てみたい絵はたくさんありますが、この本の中で、特に気になったのが、『受け入れる』というタイトルがついた、こちらの絵です。


ウジェーヌ・カリエール 受け入れる

(※この絵の画像が見つからなくて、本をスマホで撮るという、いけない事をしました。なので、画角や角度は、本物と違います。ぜひ、図書室や美術館等でみていただきたく……)

さんざん愛着障害について書いているので、この絵にどうして惹かれるのかは、言わずもがな。
欲しかった原風景であり、それ欲しさに足掻いた半生であり。
最終的に自分が両者(母と子)になり、心の中でのみこの状態を完成させ、今に至ります。

私が自分の母親代わりになるには、若い時代を終え、ある程度の年齢になる必要があったのかな、と思い始めています。
愛着トラウマを、もっと若い頃に乗り越えられていたらなあ、と思うことも多いですが、
子ども時代の自分を受け止められるようになるには、一般的に子育てがひと段落したような年齢になり、女盛りを過ぎた今の状態になる必要があったのかもしれません。

それまでは、ずっと、子どもとして全面的に庇護されることを、諦め切れなかった気がしています。

およそ20年前の話。私の最初のパートナーは、19歳歳上、バツイチで娘がいました。
認めたくありませんでしたが、父親を求める内なる渇望が、少なからずあったと言わざるを得ません。しばらくすると、彼との性行為に拒否感、嫌悪感を覚えるようになりました。一緒にいればいるほど、心が壊れていきました。私は父から、殴る蹴るの暴力だけでなく、ふざけて性的に触られたこともあるので、そうなるべくしてそうなった、という感じです。

私はきっと、恋愛経験がないんだと思います。
今まで恋愛だと信じていたものは、愛着への渇望と、支配と、執着だけだったような気がしています。
パートナーと愛情や愛着を育めている人達を、今更ながら、尊敬してしまいます。

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