半生を振り返っていた

ふと思い出したこと。
トラウマ治療以前なので、おそらく5年前くらい。
同僚に、「朝起きて、今日はこれをしようと楽しみにできるような、そんな仕事につけたらな」と、言っていました。

今も、当時と同じ仕事をしていますが、変わったことは、趣味ができ、それにかける時間や労力が、できたことです。
趣味は写真ですが、最近は、プリントに使う現像液の調合なんかも試していて、それについて調べ物をしたり、明日はこれをやってみようか等と楽しみに眠り、朝も、今日楽しみだな、とわくわくしたり、終わってからも、楽しかった+次は何をしようなどと考えたりします。

私は化学の知識に乏しいので、知り合いのラボや、そこで知り合った理系の教授に、相談したりします。
(一歩間違えると、かなり危険なことになったりするので)

楽しみがあって、それについて相談できる人達がいて。もしかすると、かつて望んでいた状態に近いのかもしれない。

そんな折、コダックの薬品関係の古い(昭和期のもの)小冊子を、ラボの方が見せてくれたのですが。
コダック工場での、実験場を写した画像がありまして。
「楽しそうな職場だな」と呟いたのをきっかけに、自分の本心に気付いてしまい、ああ人生誤ったかもな、と、認めざるをえなくなりました。

もちろん、独り身で稼いで、自立しなくてはならなかったから、興味のない分野でも、収入や条件の良い仕事につく必要がありました。
それに、トラウマからくる鬱や解離や心身の症状で、自分の心が見えない状態で、没頭できる趣味が何かすら、よくわからない時間も多くありました。

すべてわかっている上で、それでも、なんとかならなかったものかな、と思ってしまう。
そうは思っても、後の祭りで、過ぎた時間は戻ってこない。

そんなつまらない仕事でも、私を経済的に自立させて、その資金を以ってトラウマ治療ができたと言う現実もあります。
愛着トラウマの治療に巡り会えなかったなら、あるいは巡り会えても金銭的に受けられなかった場合、いまだに、自覚なく、他人に寄生して人生に勝とうと張り切っていた可能性が高いです。
だから、「人生間違えた」というのは、ちょっと違うというのも、わかります。

自分の人生に選択肢があると、あまり思えなかったこと。
今では、それは思い込みだったとわかりますが、今わかっているからといって、その感覚をもって、過去のあれこれを問うのは、ナンセンスだというのも、わかります。

時折、あったかもしれない現実に思いを馳せたりもしますが、ひとまず、今日楽しみにしていたことをしようと思える自分になったことは、やはりありがたいです。
と言って納得したいという気持ちも、過去への憤りも、目の前の楽しみも、同時に抱えていけるのが、もしかすると、回復した、ということなのかも知れません。

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