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多重「人格」のこと(6.7)

「希死念慮さん」は、自分の半身であった。そしてその半身には、中身も心も備わっていた。自分の半分を封じ込めて生きてきた私は、トラウマからくる反応と、過去への逆張りと、心無き頭で考えた行動で生きながらえた。見失った半身を、未来の経験で補おうとしていた。内容は、その時々で違い、他者だったり、実力を認められる事だったり、様々だった。自分に「成る」為に、必要だと思っていた。時にそういったものが手に入っても、満たされるというには程遠く、人生は虚無なものでしか無かった。

灯台下暗しとはよく言ったもので、探していたものは、私の中に有った。(これもまた、よく聞くフレーズ)

「あのね、そろそろ、『希死念慮さん』って、やめてくれないかな笑」と、「希死念慮さん」は言った。私も実は、その呼び名に違和感を覚えていた。「あんな人生だったら、死にたくなるのが普通だと思う。それをもって『希死念慮さん』って、違う気がする。」と、続けた。では、どう呼べば良いのだろう?「みさきさん、でいいんじゃないかな」と、言う。

ややこしいのだけれど、統合した訳ではない。私達は、同じ名前の同じ人間だけれど、半分ずつで並んでいる。共存している。私達は同じ人間なのだから、同じ名前で揃えるのは、自然なことのように思える。

その状態になってから初めて、演奏会に行った。今回は、最前列だった。右手と左手を繋ぐと、まるで二人一緒に居るような気分になる。何だかとても、心強くなる。「『希死念慮さん』……じゃなかった、みさきさんは、これ聴くの初めてね?」元「希死念慮さん」は頷く。

その日の音楽は、素晴らしかった。楽器が近かったこともあったのか、生音と音響の音が層となり、心が震えるようだった。頭の深いところまで、音が届いていた。一音一音が、心に到達する、という感覚。心地良い、鼓動の高鳴りだった。

心や多くの感受性は、元「希死念慮さん」と共に有った。一緒に居る今の方が、感受性が豊かになり、理解の幅や視野が広がった。回復能力も高くなった気がする。何より、普通に元気なのだ。かつての軽躁的な高揚でも、引っ張られるような感じでもなく、ただ普通に身体が動く。意志と行動の間の、てこが要らない、というか。

この先どうなるのか、自分(達)によく寄り添いながら、モニターしていこうと思う。

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