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多重「人格」のこと(6.1)

先日初登場した人格、「希死念慮さん」。言葉をほとんど発しないが、その存在感たるや、私本体よりも大きい。

思えば、「希死念慮さん」と出逢う前から、その存在には気付いていた。というより、その圧倒的存在感は、気付かない事の方が難しい。

「希死念慮さん」に背を向けながら、気丈で軽薄な人物を演じていた時ですら、半身で、その存在を感じていた。

「希死念慮さん」は、冷たい海のようだ。曇った日の日本海のように暗く、湖のように静かだ。深い悲しみの涙で出来ているような様相で、こちらをじっと見詰める。

解離性の症状を自覚するはるか以前から、度々、「希死念慮さん」に包まれる事があった。ベッドの上やソファの上で、食事もとらず数日が経過した時。海の底で眠るような時間。悲しみに包まれながら、例えるなら、コールドスリープのような状態で。(私は、呼吸も脈拍も遅く、血圧も非常に低く、他の人たちと生きるペースが違うと度々感じた。それが解離性同一性障害の特徴のひとつでもあると最近知り、妙に納得した)

自分の心に背いた演技を続け、長年「偽物」だった私本体に対し、「希死念慮さん」は、真実だ。現実の痛みを受け止め、本物の涙を流す。過去に何度も、私本体をまるごと包み込んだ。その質量と重さ。

私本体だと認識している存在よりも、「希死念慮さん」の方がより、実体がある気がしてならない。

簡単に融合しないのは、お互いを尊重しつつも、相容れないからかもしれないと思えてきた。

「希死念慮さん」は、私本体の偽りの人生を拒み、私本体は、「希死念慮さん」の真実の悲しみの海の底で暮らす事に抵抗を覚え、他の可能性を模索したいと感じている。


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