心にナラティブを求めなくても、感情さえあればナラティブはできてくるのかも、という仮定

文献やnote上で色々な人の体験を読むと、人や状況は変われど、虐待行為に対する「反応」が類似していることに気付く。判で押したようと言ってもいいかもしれない。

渦中にいた時は、症状による同じような反応を示す人を、「自分と似た人」と認識する事があった。

(余談ですが、このnote上でも、「お前は俺とそっくりだ」と何度も言ってくる男性がいて、その人は自分が読んだ心理系の本について「あなたがフォローしてる◯◯さんにも教えたら感謝してました。読むのをすすめます。」などと言ってきて、さらにAIの描く絵を手放しで絶賛したり、悲しいことを書けば「やり直せないことなんてないんだよ?俺はあきらめない!」と一方的な自分語りを人の場所でしたり、こんな失礼で押し付けがましくて知性が限定された人と似てるなんて嫌だな……と思いつつ、症状や反応は確かに似たところがあるので、やっぱり似てるのかなとガッカリしたものでしたが、症状は症状で私の人格ではないとわかり、安心したという出来事がありました)

物心ついてからずっと、そんな「反応」ばかりで生きていた私は、自分についてわからない事だらけで、どんな人なのか、何を欲しているのか、それを知るところで、長いことつまずいている。そこまで焦ってはいないものの、生きているうちにわかる時は来るのだろうか、と考えることもある。

トラウマを乗り越え、愛着問題を克服し、後付けされた足枷が外れて自由になった今、「さあ今から、どこへでも飛んでいけるんですよ!」と言われても、どちらの方角へ行きたいのか、飛びたいのか寝転びたいのか、さっぱりピンと来ない。

以前と同じ仕事と、以前と同じ趣味の時間を、続けている。違いといえば、楽に気負いなく出来ていること。仕事はさておき、趣味について、これ本当に趣味なのかな、、、と時折考えて、よくわからないでいる。時間があいても戻るし楽しさを覚えるし、多分そんな気もするけれど。

トラウマを乗り越えて、複雑性PTSDやそれに付随する症状がなくなれば、めでたしめでたしとなって、自分の人生が始められるのかと思っていた。でもそれは、単にスタート地点へのゲートが開いただけだった。

トラウマ治療のマニュアルはあって、専門家のサポートを借りながら、克服することはできる。
でも、自分自身になる、自分自身を知るマニュアルは無い。ただ自分の心と向き合うしかない。
向き合っているうちに何も聞こえないと悲しくなって、毒親ムーブに移行しそうな自分がいたりする。心が壁を作ってその向こうを隠すのには、理由があるのだから、執拗に話して欲しいと迫るなんて図々しいにも程があると、我ながら。元はと言えば、散々その心を無視して痛めつけていた自分のせいなのに。「もう安全だよ、だから教えて?」と言う前に、まずやる事があるんじゃないかと思う。その繰り返し。

思い起こせば、味覚がリアルに感じられるようになったあの時、自分の中の子供が、「美味しい!桃大好き!」と喜んでいて、それだけで嬉しかったのに、いつのまにか、もっともっとと急かすようになってしまったのかもしれない。押し付けがましさが嫌いなはずの私が、自ら嫌いなものになろうとしてしまう。

周りの人間関係を俯瞰すると、手のひらを返して攻撃したりマウントしてきたり、周囲と一緒になっていじってくるような「友達」が居なくなったかわりに、例えば誰かが冗談でいじってくる時なんかに、「もう、(misakiさん)に何するんですか!」と抱きしめてくる人が近くにいるようになった。

もしかすると、「好き」「嫌い」「嬉しい」「腹が立つ」などと思うだけで、自然と態度に反映したり、行動する時の選択肢のベースが、無意識のうちに作られているのかも?

心に具体的な選択の言語化をいちいち迫らなくても、実は感情を認識するだけで事足りているのかも、、と考え始めています。それで、今日のタイトル。

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