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多重「人格」のこと(6.4)

「希死念慮さん」は、自転車の補助輪だっただけでなく、気を失った時に倒れ込むセーフティネットでありながら、

私本体が気を失っている間に耐えがたい痛みを引き受けてくれる、双子の姉のような、親代わりのような、そんな存在だったらしい。いわば、おんぶに抱っこ状態。

「希死念慮さん」が私と一緒にならないのは、私本体が未だかつて自分の足で立てていないからなのでは、と思い始めている。頼りない、というか、自分で立とうとする意志があまり感じられない。

ある日思い立ち、「希死念慮さん」に伝えた。すぐには無理でも、いつか頼らず自分の足で立ってみると。「希死念慮さん」は、いつもと同じように、何も言葉は発さない。寡黙なのだ。

イメージトレーニングで、歩きながら地面を押す足に意識を向ける。時々、足を踏み鳴らし、自分が実体である事を認識する。

これは思い込み・こじつけかも知れないけれど、ここ最近、皮膚細胞の密度が増した感触になった。何となく、詰まってる感じがする。サイズはほぼ変わらないのに、体重が増えた。幽霊が、肉体を得つつあるような気分だ。

「希死念慮さん」は、相変わらず独立した存在として一緒にいるけれど、大きなバスボムがゆっくりお湯に溶けるように、染み出してる気がする時がある。

今やろうとしてるのは、一般に言う親離れのプロセスに近いのかも知れない。



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