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無思考

 「考えるのをやめたら、人間じゃなくなる」。アーレントの有名な言葉である。
 私達は毎日何かしら考えながら生きてるように思える。しかし、それは本当に思考あるいは思索と言えるものなのだろうか?どこかで情報を鵜呑みにし、それを信じることを「考える」と名付けているのではないだろうか?
 アーレントの言う思考とは、孤独のうちに自己と向き合う行為である。この自己とは、ハイデガーの言う「良心」であるとも考えられる。つまり、私達は自分の行為を良心に照らし合わせてその是非を問わなければならないのである。それが自分に責任を持つということである。
 深い思考は私達の内省を促し、私達の心の声を聞く。それは自分についてだけではない。社会について、他者について、愛について、罪について。宗教について、科学について、戦争について、平和について。様々な主題について自分なりの答えを出そうと努力することを思考と呼ぶのである。正解ではなく答えを。
 もちろん、思考するには方法が必要になる。そして、哲学という学問は、自分に問いかけて真理に近付く手段を教えてくれるのである。哲学書を読むというのは、自分との向き合い方の指南書を読むことである。
 アーレントは無思考を極端に嫌ったが、その理由は無思考が自分に害を与えるからである。人間らしさを奪ってしまうからである。自分の内面を見つめることを放棄するというのは、社会に対する責任の放棄に繋がっていく。そして、それは、全体主義の萌芽にもなる。
 私達は人間として生きる権利と義務を持っている。その義務の中には、思考することも含まれている。無思考とは自由に生きることではなく、自由を理解出来ないことでもある。
 情報を入手することも今の社会において必要かもしれない。しかし、情報の危険性を考えることも必要である。私達は生きていく責任と判断を持ち、それは無思考を否定することから生まれる。人間が言葉を持つ以上、思考することが生きる武器にもなるのである。

        fin

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