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存在の重さと深さ

 ギリシャの哲学者パルメニデスは軽さを肯定的に、重さを否定的に分類した。それに対して、ミラン・クンデラは「存在の耐えられない軽さ」を上梓した。軽さは美しい裏切りであり、重さは深さへと通じる。愛の重さは存在の深さへと導かれる。
 パルメニデスはただ、物体の重量の軽さを肯定しただけだと思うが、存在の軽さと重さに意味を与えたのはクンデラの功績である。私達は存在の軽さに憧れるが、それは自由だからである。けれども、その自由は悲しみと孤独を伴い、そして自由はいつも裏切りを伴う。存在の軽さとは他者を裏切ることで成り立っている。そして他者からの裏切りで成り立ってもいる。
 それに対して存在の重さとは愛の重さそのものである。愛とは他者への共感と、痛みと孤独の共有から成り立っている醜い感情そのものである。私達は互いの愛を深みへと変えることで、美しい恩寵に出会う。けれども、恩寵は永遠に重力に引き裂かれ続ける。それでも、私達は存在の重さを求めるだろう。愛とは最大の裏切りであり、同時に深い光でもあるからだ。
 私達の生は、重く苦しい。私達の愛は、醜く暗い。未来は過去の残光であり、現在は忘却された記憶と、闇に包まれた予感から成り立っている。私達は失われた過去の代わりに、美しい未来を探し求めるが、それはベンヤミンの言うアウラのように儚い幻影である。生が一回性のものであるからこそ、私達は生の重さに耐えることが出来るのである。
 軽さが裏切りから成り立つように、重さは真摯さから成り立つ。けれども、どちらに価値があるかを決めることは私達には出来ない。ヴェイユの「真理は、常に死の側にある」という言葉の意味を永遠に理解出来ないように。
 ただ一つだけ分かっているのは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番が美しいように、存在の重さは深いということである。そして、私達はいつも浅さよりも深さに価値を置く。愛の重みに価値を置く。愛は変質すると知っていながら、私達は弱さや脆さ故に存在の深みを探し続けるのである。

         fin

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