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オンブラ・マイ・フ〔第3話〕

 映画のお礼を言う機会もないまま夏休みが終わった。
 音楽部に入っている同級生が、また佐野部長が呼んでいるというので、今度は何事かと思いながら一緒に部室に向かった。先輩は部長になっていた。
また同じ顔ぶれがいて、佐野部長は是非音楽部に入ってほしいと言った。前の面接の時はあんなことを言ったのに何故と思ったが、理由は聞かなかった。
佐野先輩は、それ以上は何も言わず、同席していた女子の先輩から、来年の音楽祭でオペレッタに初挑戦するので、あなたにソロをやってもらいたいといわれた。考えさせてくださいと答えて、私は部室を出た。
 結局、私はこの時は入部せずに翌年、二年生になった春に音楽部に入部することになるのだが、この時はまったく入る気はなかった。
 その数日後、佐野先輩から話をしたいからと誘われ、練習のあと駅前の商店街にある喫茶店で会った。先輩は自分が好きなピアニストの話をし始めた。ルービンシュタインは、私も知っていて幾らか会話になったが、あとは専ら聞き役だった。こんなにしゃべる人だったのかと驚いた。小さい頃からピアノのレッスンを受けていると聞いた時はもっと驚いた。
 帰り道、水銀灯がほの暗く灯っている噴水公園の中を通った。どちらともなくベンチに座って暗さに目が慣れてくると、周りはほとんどカップルで、一つの影になっているベンチもあった。私が帰ろうと立ち上がったら、腕を掴まれ、そのまま膝の上に乗るような格好になり唇を塞がれた。煙草の匂いがした。私は反射的に先輩を突き飛ばして公園を走り出た。追っかけては来なかった。

 そのあとも、学校の廊下や階段ですれ違っても知らないふりだった。あの夜はどういうつもりだったのかと聞きたかった。
 休み時間に部室でおしゃべりをしていた時、佐野先輩の家にはベーゼンドルファーのグランドピアノがあるという話を聞いた。それがショパン国際ピアノコンクールの公式ピアノで一度は触ってみたいと思っていたので、佐野先輩と廊下ですれ違った時に、今度お家のピアノを弾かせて下さいと思い切って言ってみた。先輩は、今週の日曜日はレッスンがないので午後からおいでと言ってくれた。
国立大学近くの閑静な住宅街にある先輩の家は洋風のお屋敷といっていいほどの構えだった。石造りの門柱のインターフォンを押すと、横の通用口から入ってと先輩の声がした。私のおんぼろ自転車を中に入れるのが恥ずかしかった。ガレージには黒塗りの車が駐まっていた。玄関に着くと、ドアが開いて先輩が顔を出した。玄関を入ると広いホールで、奥にはレッスン室があり、夜中でも練習が出来るように防音室にしてあった。茶色の大きなベーゼンドルファーがあった。近づくと家のアップライトピアノとは違う匂いがした。
 今日のお礼をいうと、先輩はそれには答えず、弾いていいよといってくれたので、蓋をそっと開け、暗譜しているショパンの『ノクターン』を弾いた。緊張して途中で躓き、深呼吸して弾き直した。間違ったのが恥ずかしくて、ごめんなさいとピアノに向かって謝った。先輩は軽く拍手をしてくれた。
 先輩が鍵盤の前に座った。暫く上を向いていたと思うと、静かに鍵盤に手を下ろして弾き始めた。
 中低音部の力強いアルペジオから始まった音が、厚い音域の華麗なテーマに変わった。ショパンのピアノ独奏曲『英雄ポロネーズ』だった。オクターブを超えるキータッチが必要な難曲だった。鍵盤上を走る大きな手がきれいだった。弾き終わっても、私は拍手をすることさえも忘れていた。
 次の曲を弾き始めた。ベートーヴェンのピアノソナタ第八番『悲愴』だった。重厚な和音からゆっくりと始まり、和音の重なりの中にたゆたうような主旋律が浮き出てきて、だんだんと激しく鍵盤に叩きつける指先から音の波が広がってきた。低音から高音に流れる音の連なりが私の胸を揺さぶった。
 ゆったりと流れるような第二楽章が終わり、現れては消える速いテンポの第三楽章のテーマに息もつけないくらいに聴き惚れていた。というより、彼の身体全体を使って演奏している姿に見とれてしまっていた。
 最後の和音を弾き終わり、その響きがフェイドアウトしていくのに合わせ、彼は両手の指をゆっくりと鍵盤から離して膝に置いた。私は夢中で拍手をした。その時、私の顔は上気していたと思う。身体の芯から熱いものが込み上げてきた。
 彼は椅子に座っている私に近づいてきてじっと眼をのぞき込んできた。私は磁力で引き寄せられるように立ち上がり抱きしめられた。ようやく、素晴らしいですとだけ声に出したが声が掠れた。離れ際に私の両頬を人差し指がやさしくなぞった。あの夜のことを難詰しようと思っていた感情が砕け散った。きっとこの瞬間、私は彼に恋をしたのだと思う。
 彼は、もっと練習をしなくちゃ音大には入れないよと言い、自分は東京芸大に行くと決めているといった。
 最初の面接の時、音大志望なら音楽部に入る必要はないと先輩はいいましたよねと詰問すると、それは母親からいわれたことをそのままいっただけだと答えたので、私は叩く振りをして拳を振り上げたら、また抱きしめられ、耳元で、君が好きだと囁かれた。

 それからも月に一、二回、彼の家でピアノを弾いたり、二階の彼の部屋でレコードを聴いたりと二人きりの時間を過ごした。家には彼以外に人の気配がなかった。家族のことを聞くのは立ち入り過ぎと思い何も訊かなかった。飲み物はいつも彼が持ってきてくれた。
 部屋には古い家具のような大きなレコードプレーヤーがあった。初めて彼の部屋に行った時は、ビル・エヴァンズのレコードをかけたくれた。モノラルプレーヤーから落ち着いた膨らみのある音が溢れていた。壁のラックにはLPレコードが何百枚とあった。
 私がロックは聴かないのかと尋ねると、ビートルズだけは好きだといったので、ローリング・ストーンズのファンとはいえなかった。

 学校での彼の態度は相変わらず素っ気なかったが、私に気付いたらかすかに視線を送ってくれるようになった。
私たちが会えるのは、レッスンがない日の彼の家での逢瀬だけだった。彼の都合のよい日時を書いたメモが私の靴箱に入っていた。それが唯一かつ一方通行の連絡手段だった。
 自分のピアノに合わせて私が歌うのは最高だ。君はオペラ歌手を目指せといってくれた。部屋では次々とオペラのレコードをかけてくれた。ほとんど会話もせずにひたすら音楽を聴くだけの時もあった。オペラに飽きると、耳と頭の休憩だといってジャズをかけた。

 翌年の春休みに彼の家に行った時に、レッスン室でいつにない真面目な顔つきで、付き合ってほしいといわれた。私は、いまの状態と何が変わるのかと思いながらも頷いた。
 彼は、ヘンデルのオペラのアリア『オンブラ・マイ・フ』の楽譜を出してきて、お祝いにこれを歌ってほしいといった。何回か聴かせてくれたことがあった。初見だったが、歌詞にカタカナのルビも振ってあったので、彼がピアノで前奏を弾き始めると、ついていくことが出来た。
 この日は何度これを歌っただろうか。歌い方や感情の込め方などを丁寧に教えてくれた。自分の歌声と彼のピアノの音色の融合に私は陶酔した。それは彼も同じだったと思う。
 帰り際に私は、音楽部に入りますといったら、好きにしたらと素っ気ない返事が返ってきた。よくそんなに変われるなと思うほどの変りようが私には理解できなかった。私はできるだけ一緒にいたいと思っただけなのに、彼はそう思ってはいなかったのかと訝った。

 二年生の春に音楽部に入ったが、佐野先輩は芸大の受験に専念するためと、任期より早く部長をやめており、指揮者の三年生も辞めていた。本来は三年生が就く部長に、三年生は誰も手を挙げず、二年生になったばかりの川野君が部長兼指揮者になっていた。部長は選挙で指揮者は指導教師の指名だったが、兼任は無理と渋ってどちらかを他の人にやってほしいといったらしいが、結局、両職兼任ということになったようだった。
 この年に予定していたオペレッタは、三年生がリーダーシップを放棄した影響で、来年に延期することになった。

 その後、佐野先輩の家に電話をしても、留守だと電話を取り次いでもらえなかった。一度だけ先輩が出たので、会いたいしいろんな話をしたいといったが、素っ気ない態度で忙しいからの一言で切られてしまった。
 何故か廊下ですれ違うこともなくなった。秋の音楽祭にも来てくれなかった。もう半年以上も会っていないし、電話しなくなって三か月以上になる。彼恋しさは募るばかりだった。また彼の部屋に行きたかった。翌春、佐野先輩は志望通り東京芸大に合格したと部室で聞いた。
 翌年の部活最後の合宿の時も気持ちは宙ぶらりんのままだった。川野君はやさしく控えめだけれど何でも話せる存在で、私のことを気に掛けてくれているのは分かった。私は川野君が好きだった。
 合宿の夜の花火の時、川野君が砂浜でひとり離れて座っていたので、横に座った途端、ため息が出て疲れたといってしまった。彼は、主役は歌いっぱなしで疲れるよねと言ってくれたが、私は、人生に疲れたと言ってしまい、佐野先輩と付き合っている——捨てられたと同じだったが——とつい口にしてしまった。彼に言うべきことではなかったかも知れない。彼がそのことを知っていたのか返事はしてくれなかったが、彼は、「アウト・オブ・サイト アウト・オブ・マインド」と呟いた。私はその時、彼に、去ってしまった人はもう忘れろと言ってもらいたかったのだが、私は全く逆の反応をして、離れたらだめだよねと答えてしまった。涙が滲んできた。

 私はとにかくオペレッタの大成功のために他のことは忘れて練習に集中した。ゲネプロの時には教師のほぼ全員が来てくれて、校長からもお褒めの言葉をいただいた。指導教師は鼻高々だった。
 公演は大成功だった。よく声が出た。幕が下りた後、女子部員全員が抱き合って泣いた。部長は舞台袖で拍手をしていた。高校生だけで初のオペレッタ公演で、出来映えもよかったので地方紙で取り上げられ、私と総監督の川野君が写真入りの小さな囲み記事になった。
 私は佐野先輩にオペレッタを観てもらいたかったと思うと、居ても立っても居られず、彼の家に行ったが留守番の女性しか出てこず、東京の住所を教えてくれとお願いをしたが、自分は知らないと断られた。私は、東京芸大を尋ねれば必ず先輩に会えると思い、東京に行くと決めた。

 東京には独り身の母の妹が住んでいたので、電話で事情を話し、両親が仕事で不在の時に、当面の着替えだけを鞄に詰めて、行き先だけを書いたメモをテレビの上に置いて家を出た。学校には、前の日に休学届を自分で出した。担任から理由を聞かれたが、音大進学のための下調べで東京に行きますとだけ答えた。
 寝台特急に乗ったが、ほとんど眠れなかった。列車の振動のせいだけではなかった。早朝にも関わらず、叔母が東京駅まで迎えに来てくれていた。
 川野君には、正月には必ず戻るので会ってほしいと手紙を書いて、東京に着いてから投函した。しかし、その正月は帰らず叔母の家で過ごした。まだ佐野先輩には会えなかった。いつも電話に出る人に、今度ご両親に住所を聞いておいてもらえないかと頼んでみたが、やんわりと断られた。
 私はとにかく佐野先輩に会いたかった。話をしたかった。オペレッタの成功を報告したかった。どんな返事が返ってきてもかまわなかった。邪険にされてもいい。とにかく彼の気持ちを聞きたかった。私の中には何か分からないが熾火のようなものがあり、それが何かを確かめたかった。
        *
 僕の母は十代の頃から市のオーケストラ専属のピアニストをしていて、僕が生まれた時は、この子を絶対一流のピアニストにすると父に宣言をしたそうだ。父は母の所に婿養子にきた。母の父は長く衆議院議員をしていて、野党の幹部だったが、僕が小学校にあがる前の年に亡くなった。それを追いかけるように祖母も亡くなった。
 僕は三歳の頃からほぼ毎日ピアノの練習をさせられ、小学校に上がったらコーチが付いて、毎日曜日には自宅で五時間近くのレッスンを受けていた。
 母はショパンが好きで、ショパン国際コンクールの公式ピアノのベーゼンドルファー225というセミコンサートグランドを買った程だ。このピアノは普通のピアノより低音部が四鍵多く、誤打を防ぐために最低音部の白鍵二つが黒く塗られている。母は僕のレッスンのために練習室を防音にして、ヤマハのグランドピアノを買ってくれた。
 音大附属の高校に進学しろと母から言われたが、僕は芸大には行くので、高校は普通高校に行きたいと頼んだ。今まで通りにレッスンを続けるという条件で許してもらった。
 僕はクラシック以外の世界も知りたかった。母は面白くなかったと思うが、中学生の頃から父の影響でジャズに興味を持ち、祖父から譲られた古い管球式のモノラルプレーヤーで聴いていた。廃盤になったレコードは中古屋で買い集めた。同じピアノでも、こんな世界があるのかと新鮮だった。
 それが僕の中に意外な影響を及ぼした。ジャズピアノを聴いていていると、気分転換ということ以上に練習が苦でなくなるのだ。オスカー・ピーターソン——あとで知ったが、ベーゼンドルファーを好んで弾いていた——やレイ・ブライアント、ビル・エヴァンズ、バド・パウエルなど名だたるジャズピアノの巨匠たちのレコードを聴きまくった。
 国内で入手できないアルバムは、隣町のジャズ喫茶まで行って聴いていた。店の入口には、〔高校生出入り禁止〕の貼り紙があったが、私服だとわからないだろうと構わず通った。
 ある時、店のマスターから、ピアノをやっているのかと訊かれて頷くと、本棚から手書きのジャズの楽譜を出してきた。『クレオパトラの夢』というバド・パウエルの曲だった。音符を手でなぞっていると、今度店で弾いてみろと言われ、楽譜を貸してくれた。
 母がいない時に弾いてみた。耳が覚えているので、三、四回練習するとほぼイメージ通りに弾くことが出来た。この時ほどピアノを習わせてくれた母に感謝したことはなかった。というより、そんな思いを抱いたのはこの時だけだったかも知れない。
 マスターに頼まれて、土曜日の午後のセッションタイムにピアノの前に座ったが、ピアノはうまいが、やはりジャズのノリとは違う。クラシックを続けるのなら、ジャズは弾かない方がいいと忠告された。〔全6話中第3話終〕

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