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『普通という異常――健常発達という病』ノート

兼本浩祐著
講談社現代新書

 刺激的なタイトルを見て購入した。筆者は、人間の「正常と異常」の間には、はっきりとした線引きができないのではないかとずっと考えてきたから興味があった。

 いまの精神医学では、いわゆる正常といわれるような、私たちの周りで多数を占める「普通」の発達を「定型発達」と呼び、ADHD(注意欠如・多動症)やASD(自閉症スペクトラム障害)は「非定型発達」と呼ばれている。
 この「定型発達」は、以前は「健常発達」と呼ばれていたが、その言葉には、もう片方は健常ではない、つまり病気であるという価値判断が加わることになる。それゆえ、健常発達が完成型で、それ以外は不全型という価値判断を避けるために、「健常発達」が「定型発達」という呼び名に変更されたのである。

 この言い換えは、「定型発達も非定型発達も病気じゃない」という主張ともいえるが、ADHD的な特性を持っている人に対しては薬もあるし、いまは医療保険も使えるので、公的には病気として扱っていることになる。
「病(やまい)」について、自分が苦しむことを前提とした時は、ADHDやASDが病(やま)い的になることはあるが、定型発達をしてきた人も、病(やま)い的になることがあるのではないかというのが、この著者の問題提起である。

 たとえば定型発達の特性の過剰な人が、「相手が自分をどうみているか気になって仕方がない」「自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から逃れることができなくなる場合も、「病」といってもいいのではないかと著者はいう。
 そしてこの本では、「健常」という言葉に暗に含まれている「自分は普通なのだ」という一部の定型発達の人のこだわりを強調するために、「定型発達」ではなく、あえて「健常発達」という用語を使うと述べている。

 第1章では、健常発達的特性が自分も他人も苦しめる実例をあげる。
 その中で特に筆者が関心をもった術語が「対人希求性」である。
 どのくらい他人を求める気持ちが強いかという意味で、「名誉」は他人抜きには成り立たないところから、発達障害的な心性を持つ人と健常発達的心性を持つ人の際だった違いとして、対人希求性の違いはよく指摘される特性の一つなのである。そしてこの対人希求性が過多となれば大変な苦痛を自分にも他人にも与えることになると著者はいう。
 この対人希求性の例として、SNSにおける「いいね」を例に挙げる。「いいね」は平和的に言い合う分にはまだよいが、この「いいね」は多くの場合には競合的になり、そして、「私」と「いいね」の、のっぴきならない深い関係に着目する。この「対人希求性」はやさしく言い換えれば、SNSに依存する人を分析する時によく使用される「承認欲求」となろう。

 そして私たちには「ベーシック・トラスト(基本的信頼)」が必要だと著者は述べる。これは具体的にいえば、「自分は何か価値ある存在だとあえて証明しなくても、自分とは生きる価値のある、いいものだと思える基本的な自分への信頼感」のことだ。

 筆者がここまで書いてきたことはこの本の入り口に過ぎない。著者はいくつかの臨床事例を挙げて多面的に論を展開しており、さらには著名な人についての分析も試みる。
 人間は何故こんなにも複雑極まりない存在なのか。あるいは社会現象に影響されてそのようにならざるを得なかったのかと改めて考えさせられた。哲学書を読んだような読後感であった。

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