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『「利他」とは何か』ノート


伊藤亜紗編
中島岳志
若松英輔
國分功一郎
磯﨑憲一郎
共著

集英社新書


 2020年4月11日にNHKで放送された番組「ETV特集 緊急対談 パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~」にフランスの経済学者であるジャック・アタリが出演し、パンデミックを乗り越えるためのキーワードとして「利他主義」をあげた。そして世界的な深刻な危機に直面している今こそ、互いに競うのではなく、「他者のために生きる」という人間の本質に立ちかえなければならないと発言した。

 この5人の共著者は、東京工業大学の中にある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」のメンバーであり、この本は、日々「利他」をめぐって意見を交換し、議論していることの現時点での成果である。
 
 第一章の〈「うつわ」的利他〉は、編者の伊藤亜紗が書いている。
 伊藤は利他主義という立場にかなり懐疑的で、「利他ぎらい」といっていいほどだったといいつつ、研究者は得てして本人にとってよくわからないもの、苦手なものを研究対象とするものだといい、鋭い論考を提示している。
 まずジャック・アタリの「合理的利他主義」を取り上げる。アタリは、利他主義は「自分にとっての利益」を行為の動機にしており、合理的な戦略という。
「利他主義」を唱えたオーギュスト・コントは、「利己主義」に対置される言葉として想定され、「他者のために生きる」すなわち自己犠牲を前提としていた。

 次に取り上げるのは哲学者であるピーター・シンガーの「効果的利他主義」である。これは、「私たちは、自分にできる(いちばんたくさんのいいこと)をしなければならない」という考え方である。これはたとえば、自分の財産から1千ドルを寄付する場合、それをどの団体にどのような名目で寄付をすると、もっとも多くの善をもたらすのかを評価して寄付の対象を定めるというものだ。これは〝共感〟による利他主義を否定し、理性で行おうとするものだ。
 
 次に、ハリファックスの「真の利他性は、魚の釣り方を教えること」という考え方を紹介し、財や食物を与えるだけでは、悪しき依存を産み出すだけだと主張する。
 
 ここまで書いていて筆者が気付いたのは、これらの海外の論者は利他ということと寄付や贈与という面だけに限定しているか、あえて混同しているのではないかということだ。筆者は〝利他〟というものは自分の財などを人に施すだけではないと考えるからだ。また見返りを求める心も〝利他〟とはほど遠いものだ。利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということだ。

 伊藤は、章のタイトルの〈「うつわ」的利他〉については次のように書いている。
 相手のために何かをしている時であっても、善意の押しつけではなく、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白(=うつわ)を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある、という。
 
 伊藤は最後に、利他という時の「他」は人間に限られるべきではないといい、人間以外の生物や自然そのものに対すケアのこと考えるべきとする。そして「自然は人間が思うよりずっと相互扶助的なものだ」というスナウラ・テイラー(アメリカの画家であり作家。障害者と動物の権利運動に取り組む)の言葉を紹介している。

 第二章の〈利他はどこからやってくるのか〉で、中島岳志は、志賀直哉の『小僧の神様』に描かれる贈与という行為をしたあとの貴族院議員Aの心の中に残る「いやな気持ち」を最初に取り上げて論を進めている。
 そして、行為を行った時点では〝間接互恵〟が前提とされていない、自分が何かをしてあげたら、何かが返ってくるという前提で行った行為ではなく、結果として何かが返ってくるというのが重要だと結論する。

 第三章の〈美と奉仕と利他〉では、若松英輔が平安時代の最澄と空海の〝利他〟についての考え方を比較する。
さらに、民藝運動で有名な宗教哲学者で批評家の柳宗悦の考え方の中核である「不二」を取り上げ、「二」の壁を超える「不二」こそが仏教の説く「利他」に通じるのだとする。
 ちなみに柳宗悦は、「真の個人主義は真の利他主義である。自己を拡大する時、彼は他人を拡大しつつあるのである」(『宗教とその真理』)という言葉を遺している。

 第四章の〈中動態から考える利他〉を書いたのは國分功一郎。「中動態」という聞き慣れない言葉は、一般には能動と受動の対立の外にある概念である。我々の通常の感覚で言えば、行為の矢印が自分から他に向かえば能動であり、その矢印が自分に向いていれば受動となる。では中動態とは何か。
 たとえば、「与える」は能動態である。自分の外側で与えるという行為が終わるからである。それに対して、「欲する」は中動態となる。なぜなら「水が欲しい」とき、私は実際には能動的ではない。水を欲しいという欲求が自分の中で起こっていることになるからだ。
 その行為は能動なのか受動なのかと問われるとき、そこでは「意志」が問われている。しかしそれを超えて、困っている人を前に思わず「応答」(=中動態)してしまうような心のあり方に利他の可能性を求めている。

 第五章〈作家、作品に先行する、小説の歴史〉では、小説家という実作者である磯﨑憲一郎が、北杜夫の自伝的小説『楡家の人びと』、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』などを取り上げ、書くことは能動的な行為のように思われるが、予期せぬ流れに乗って「逸れて」いくことでもあり、そうやって生まれた作品は結果として、連綿と続く小説の歴史に奉仕するための仕事になっているという。そこに〝利他〟ということの本質があるのではないかと言わんとしているように筆者には思えた。

 筆者は最後に〝利他〟の本質を表している仏典の言葉を紹介したい。
「人のために火を灯(とも)せば、我がまへ(前)あきらかなるがごとし」――暗い夜道を難儀して歩いている人のために貴重な油を灯して、ある女性がその人の足元を照らした時に、その人は自分の足元を照らしてくれたお礼を言いながら、あなたの足元も明るくなっていますね」というのである。この女性の行為こそ、利他の本質を表しているように思う。

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