見出し画像

第八の粘土板 ギルガメシュの慟哭

 夜が明けるまで、ギルガメシュは寝台に横たわるエンキドゥを見ていた。まだエンキドゥのズィを感じる。エンキドゥはそこにいる。だが明日の夜には、大いなる地へと旅立つだろう。その後エンキドゥは、肉体を持たない影となる。
 ギルガメシュであれば、冥界のエンキドゥを呼び出す事は可能だ。だが共に同じ世界にいなければ、冒険はできない。これまで通りではない。そして神々の様に、生きた人間を支援できる訳でもない。エンキドゥは影でしかないからだ。
 無論、戦争と疫病の神ネルガルに、エンキドゥの試練は依頼した。だが期待はできない。恐らく試練を突破できないだろう。そうなれば、エンキドゥを救う手段はなくなり、冥界に留まるより他はなくなる。何れ死んだ他の人間達の影の中に、埋もれていく事だろう。
 そして名前を忘れ去られれば、その人影も他の人影と区別が付かなくなる。そうなれば、かつて英雄であったとしても、存在意義はなくなり、事実上消えたに等しい。それは避けたい。だが不滅の名声さえあれば、冥界の人影も存在意義は保てる。
 ――名前さえ、この地上から忘れ去れなければよい。
 ギルガメシュは立ち上がった。冒険を続けよう。不滅の名声を打ち立てよう。人類が続く限り、二人の名前を永遠のものとしよう。人々に語り継がれる限り、ギルガメシュとエンキドゥは存在し続ける。だから誰も知らない前人未到で、前代未聞の物語を作ろう。
 それが何よりもエンキドゥのためだし、残されたギルガメシュの為すべき事だ。もし立場が逆だったとしても、恐らくエンキドゥも同じ結論に至るだろう。役割の違いだけだ。何も恐れる事はない。何も恐れる必要はない筈。
 ――だが今は葬式だ。一人の英雄の死を飾り、物語に添えなければならない。
 人として悲しみ、嘆くという行為は意味がある。それが偉大な人物であればあるほど、人々の記憶に残る。だからこれからギルガメシュは嘆き、悲しむ――必要な行為として。
 ギルガメシュは近習を呼び、エンキドゥの死を告げた。そして葬式を行い、埋葬する準備をする様に命じた。さらにウルクの人々に、喪に服す様に指示を出した。

 ギルガメシュは、王宮の広場に人々を集めた。
 貴族である臣下達、その子弟である近習達、書記を引退した長老達、神殿の神官達や書記達、衛兵や職人達、そして数多のウルクの子らだ。
 王宮の広場にギルガメシュは、ルガルとして正装して現れた。手に木の棒と青銅の輪を持ち、豪華なカウナケスを腰に巻き、随所をラピスラズリで留めた白い衣を上から纏い、髭を黒く大きく四角く垂らしていた。そしてその琥珀色の瞳は、大きく揺れていた。
 広場の中心に高台が設え、その上に花で飾れた誉の寝台があった。エンキドゥは目を閉じ、腕を組んで、誉の寝台に静かに横たわっていた。若きクルガルラ達が長い黒髪を振り乱し、哭きに哭いていた。神殿から派遣されて来た禿頭のガラトゥル達は、哀歌を低く詠った。
 ギルガメシュが誉の寝台に向かって歩き始めると、祭祀の長槍を掲げた近習達が続いた。そしてその周りを、クルガルラ達が巧みに踊る様に舞い、独特の抑揚を付けて哭いた。禿頭のガラトゥル達も独特の旋律で哀歌を詠った。二つの声は混じり合い、悲哀の調子を帯びた。
 やがて高台に辿り着くと、ギルガメシュは階段を登って、エンキドゥが眠る誉の寝台の前に立った。祭祀の長槍を掲げた近習達は片膝を突き、いつしかクルガルラ達の哭き声やガラトゥル達も哀歌も止んでいた。ウルクの子らはその時を待っていた。
 そしてギルガメシュは、どこまでも通る声で言った。
 「エンキドゥよ。汝を生み出した神々も、汝を育てた荒野も、小径も、杉の森も、昼も夜も、全て汝のために泣くだろう。皆が汝のために鼻の上に右手を置くだろう」(注23)
 ギルガメシュは木の杖を掲げて言った。
 「聞け、ウルクの子らよ。そして耳を傾けよ。我は友エンキドゥに向かってすすり哭く、クルガルラの如く烈しく哭き叫ぶ。我等は全てを征服し、山々を渡り歩いた。都城を奪い、杉の森に住む怪物フンババを斃し、天牛グガランナさえ斃した」(注24)
 ギルガメシュは青銅の輪を掲げて言った。
 「だが今や、汝に圧し掛かるこの眠りは何だ。汝は闇に包まれ、我の言う事が聞こえない。そしてまなこも上げず、汝の心胸に触ったが、動いていなかった。そこで我は花嫁であるかの様に白い薄布を汝にかけた」(注25)
 不意にシャマシュが翳り、黒いシンが天空に現れた。
 「そして我は獅子吼し、仔を奪われた雌獅子であるかの様に友の前を行ったり来たりした。髪の毛を引き抜き、撒き散らしながら、身に付けた装飾品も引き裂き、投げ付けながら、夜明けの光と共に我は枯れた」(注26)
 ウルクの子らは恐慌を来した。シャマシュとシンが交わり、辺りが夜の様に暗くなった。
 「誉れの寝台に汝を横たえよう。汝を我の左の席、安楽の座に座らせよう。貴族達よ。エンキドゥの両脚に接吻せよ。人々が、汝を嘆き悲しむ様にさせてやる。喜びに満ちている人々をエンキドゥへの想いで満たしてやる」(注27)
蝕の闇の中、ギルガメシュの後光だけが瞬き、ウルクの子らを照らした。
 「そして汝が行ってしまうと、我は身体を長い髪で覆い、犬の皮を着て、荒野を彷徨うだろう」(注28)
 蝕が終わった。明けの光と共に、ギルガメシュは、エンキドゥのカウナケスを緩めた。ウルクの子らは、ギルガメシュに平伏した。そして涙を流している事を知った。

                          第八の粘土板 了

『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第九の粘土板 マーシュ山の試練 9/12話


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?