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「行き過ぎたポリコレ」

そんな風に感じたことがある人は、少なくないのではないでしょうか。

では「ちょうどいいポリコレ」が存在するのか。そもそもポリコレ(ポリティカルコレクトネス)とは何なのか。

わたしは専門家ではないけれど、ポリコレとはこういう意識から派生することなのではないかという個人的な捉え方をシェアしてみたいと思います。

ポリティカル・コレクトネスとは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す。政治的妥当性とも言われる。

具体例として、看護婦・看護士という呼称を性別を問わない「看護師」に統合したことや、母子健康手帳という名称を父親の育児参加を踏まえて「親子手帳」に変更したことなどが挙げられる。

Wikipediaより

Wikipediaにはこう記されていました。

個人的には、経済学の「神の見えざる手」のようなものが人道的にも働き、時間をかけて人類全体にとって合理的かつ最大公約数が安心できる地球に向かっているんだと思っています。人権意識の高まり。ポリコレというのはその動きの一部。

昔々、コロッセオで奴隷が死ぬまで戦うことや、まともに裁判も行われず執行される公開処刑が庶民のエンタメでした。それについて、現代でも「そういうエンタメがないなんて窮屈な世界になったもんだ」と考える人はほぼいないと思います。

つまり、公開処刑については、人権意識がアップデートされた人間が地球の大半になってきているということです。

形が変わって、死を見せ物にする代わりに、オンライン上でのリンチが横行しています。しかし、それを「良いこと」だと捉える人は少なくて、ネットがすべて実名になったら随分減るのではないでしょうか。ネットリンチは悪いことという共通認識があり、匿名でなければできない人がほとんどだと思います。

その他の人権侵害についても、人々の意識が徐々に変わってきています。しかし、それは一斉一律ではなく、人によってバージョン2023.0だったり、バージョン1980.0だったりします。

個々がどのような価値観を持つかは自由であり、強制はできません。例えば「同性婚を制度化することに反対だ」と考える人もいるでしょう。

くり返しますが個々は自由です。しかし、政府などの公的機関や企業は、常に最新アップデートを把握・理解しておく必要があると思います。

なぜなら、過去の歴史に鑑みて、人権意識がバージョンダウンすることは決してないからです。

地球上の人権意識、動物や自然に対する保護意識は、一時的・局所的なバックラッシュ(揺り戻し)があったとしても、高まり続けています。

これから女性の参政権を剥奪する国や奴隷制を復活させる国はないでしょう。同性婚可能な国が増えることはあっても減ることはありません。(一部の宗教原理主義の動きは国際的批判にさらされていますよね。)

例えば、企業が「バージョン古めで時代と噛み合わなくなり鬱憤が溜まっている顧客層」に向けた商品をあえて販売することは可能です。一部から熱烈な支持を得られるかもしれません。ですが、その商品がのちの時代から下される評価は、火を見るよりも明らかに決まっています。

未成年の少女に「セーラー服を脱がさないで」という曲を歌わせたことは、当時の価値観ではアリでも、わたしから見ると「児童虐待」「性的搾取」以外の何ものでもありません。(知らない方、歌詞をググってみてください)当然、個人的にアリだと考える人はいるでしょう。しかし、時代を読める企業から「日向坂46にカバーさせよう」という企画が持ち上がることは未来永劫ないのです。


何か問題提起があったとき。「わたしは気にしたことないけど」「そんなことまで?窮屈だな」「行き過ぎたポリコレだ」と感じたのであれば、それは、問題提起した人のバージョンと自分のバージョンに乖離があるというだけのこと。「行き過ぎ」だと感じるのは自分のバージョンが最新ではないだけのことなのです。そして、アップデートしてしまえばそちらの方が心地よく、アップデート前の状況によく耐えられていたな、と感じるようになります。

個人が最新バージョンでないことは悪いことではなく、必ずしも常にアップデートしなければならないわけではありません。人間は変化を嫌う生き物なので、周りから変化を促されるのは気持ちのいいものではなく、反発したくなるのも自然なことだと思います。

しかし、時代が自分のバージョンに戻ってくることはないというのを理解しておくとラクなのではないでしょうか。スマホやパソコンと同じ。前のバージョンが好きだからアプデしないというのは自由だけど、たまに最新じゃないと使えないアプリや不具合がありますよ、ということ。

例えば、文化の盗用について。わたしは「そんなことまで気にしなくちゃいけないの?」と感じたことがありました。日本の女優さんやKPOPアイドルのヘアスタイルが、他の文化の特徴的なスタイルを模していたときのことです。一方で、アメリカの著名人がHARAJUKUやKIMONOをアメリカで商標登録し、日本の一般名詞を自分の固有名詞にして利益を独占しようとしたことは、よろしくないのではと感じる自分もいます。

文化の盗用については、未だ議論が多いそうなのですが、わたしは最先端の人たちに比べたら、バージョンが古いのだと思います。それが今の素直な感覚ですが、勉強をすればバージョンが変わっていくかもしれません。

大きな流れは頭で理解している人が多いと思うし、大前提として人権とは等しく守られて当然のものだという共通認識も広がっていると思います。個別の事柄に対する、個々人の感覚・バージョンについては、興味を持ってさまざまな立場からの意見を知ることで初めて内側から変わっていくのだと思います。超・内向きな島国の大国である日本にいれば、特に意識しないと見えないことが多いかもしれません。


わたしはもともと「こうあるべき」が強いタイプの人間。ですが、自分の素直な感覚もおざなりにせず、現状について考えてみたいなと思い、こんな記事を書いてみました。皆さんはどうお感じになりますか?

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