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極楽浄土の花が咲く

蓮の花が咲く季節になりました。

6月2日午前7時2分に逝った父の葬儀、初七日法要を無事終え、帰宅しております。いいねをして下さった皆様、お悔やみの言葉を頂きました皆様、ありがとうございました。

随分と更新の間が空いてしまいました。 皆様のところにも全くお邪魔出来ておらず、そろそろお邪魔したいと思っているのですが、少しずつ、拝見させて頂きたいので、もう少しお待ちください<(_ _)>

2度の往復後、こちらへ戻ってきてすぐ、相方が発熱によりダウンし2日間程寝込みました。父の告別式のときから体調が良くなかったのですが、無理をさせてしまいました。そして、相方の体調が快復したと思ったら、今度は私が発熱でダウン。幸い私も2日間ほど休むと良くなりましたが、その後、仕事が続いていたので、体力を持たせるのに必死で、5月下旬に最初に帰省してからは怒涛の1ヶ月でした。

四十九日法要の為、7月には、もう一度、帰省しなくてはいけません。5・6・7月と月一ペースで帰省ということで、出費が半端ではない上に、ついに私のコロワクコールセンターの仕事も、契約終了となりました。
今後の収入面でも不安が・・・。
暫く、家族皆、無事に元気で居てくれることを願うばかりです。

四十九日法要前に、ちょっと長くなりますが、これを書かないと気持ちが先へ進めない気がするので、父との思い出を少しお話させてください。


前回の帰省から半年後の帰省中に亡くなった父ですが、亡くなった日の朝は、相方の実家のある東京都下に移動していた為、最後の瞬間には間に合いませんでした。

最初に私のスマホが鳴ったのが6月2日午前5時20分頃。朝方4時頃に、父の呼吸状態が悪化し、救急搬送されたとの弟からの連絡でした。SPO2が40台まで落ち込んでいたとのことでしたが、救急車の中で80まで回復したというので、それならばまた回復するだろうと相方と話していたのですが、次の連絡では延命措置をするかどうかと聞かれ、希望しない旨を伝えたとのことでした。そんなに悪い状態なのかと付き添った家族皆が、驚いたと後で話していました。そして次の連絡で父が息を引き取ったと。
救急搬送されてから息を引き取るまで3時間程しかなかったことになります。本当にあっという間のことで、まさか、と家族皆が信じられない気持ちでいました。

直接の死因をそういえばちゃんと聞いていないのですが、救急搬送される際、熱がかなり上がっていたこと、嘔吐もあったことから、誤嚥性肺炎を起こしていたのではないか、とのことでした。肺気腫を長い事患っていたこともあり、肺の機能が持たなかったのかもしれません。最後は、かなり苦しかっただろうと思われますが、最後の最後まで起きてトイレに行こうとしていたそうです。呼吸がそんなに苦しいのにね。亡くなったあとは、すぐに葬儀場へ移すとのことで、私達は、ホテルから病院ではなく、葬儀場へ行き、亡くなった父と対面となりました。

父を見た瞬間に、ああ、逝ってしまったなぁと。 父の亡骸がそこにある、という感覚に包まれ、ただただ、父の亡骸を見つめていた自分がいました。
悲しいとか淋しいなぁといった感情が生まれたのは、葬儀が始まってからでした。

父は、7人兄弟の下から2番目で、群馬の山の中で生まれ育ちました。兄弟も多く、とても貧しかった為、何か手に職をつけたいと、最初は大工を目指して見習いとして働いていたそうですが、持病があった為、身体が持たず断念。その後は、東京での書生を経て、別の職人を目指し、一番上の兄の下での修業を終え、東京の某企業に就職を果たしました。
そして、その頃に、埼玉に一軒家を構え、そこから満員電車で通勤をしていました。
その当時、業界内では最高峰であり、難易度も高い資格を取るため、社内での推薦を経て、半年程、スイスへ修業へ行かせてもらっていました。度々痛みの発作に襲われる中での渡欧は、父にとってもかなり不安もあったのではないかと思いますが、会社もそんな人間によくお金を出したなぁと、後から散々聞かされました。
半年分の給料は、日本にいる家族に毎月きっちり支払われ、それとは別に、スイス滞在中の生活費も全て支払われていたとのことで、毎週末の休みを利用して、フランスやイタリア、イギリス、オランダ、バチカン市国等に行った話も聞かせてもらいました。私が3歳の時でした。出発時、羽田まで見送りに行ったこと、自分は留守番なのだということも幼いながら理解していましたし、帰宅したときにスーツケースいっぱいに入っていたお土産品は宝の山に思えました🥰
ポストカード・父が撮影した写真、8mmビデオを見せてもらいながら、スイスや欧州諸国への憧れを強くしたことを今でも覚えています。
そんなかいもあってか、無事難関の資格試験を突破し、資格を取ることが出来ました。1954〜80年の間だけ実施されていた資格試験で、有資格者は800名程とのこと。今は取りたくても取れない資格になっています。
業界紙でも紹介され、新聞等にもインタビュー記事が載ったこともあり、当時のインタビュー動画が残っていて、告別式の際は受け付けでその映像を流していました。現役の元気な頃の父の姿を見ることが出来て良かったなぁと懐かしい気持ちで見ていました。

一緒に、今度は家族皆でスイスへ行こう、という夢は叶いませんでしたが、せめてもう一度、スイスの話を聞きたかったなぁ。

その後は、持病の悪化や手術の後遺症もあり、日々の通勤もキツく、地元で開業したいと、長い下準備期間を経て、会社を設立し、店舗をオープン。最盛期は、事業所も5か所まで増やしたこともあったのですが、現在は、最初に開いた店のみの一店舗に縮小し、弟が継いでいます。

大病をしたこともあり、いつ死んでもおかしくないと、80過ぎたら御の字といっていた父、最後は寝たきりになることもなく、逝った父。現役を退いていましたので、家族蔡ではなかったのですが、ごくごく親しい方だけに連絡して執り行いました。

そして、短期間の間に、関東と九州を予期せず2往復した為か、暫く、寝て起きた時に、あれ、ここはどこだっけ?今どこにいるんだっけ?とわからなくなる感覚が続いていたのですが、どうやらそれは自分だけではなく、相方も同じだったようで、それを聞いたときに、少しほっとしました。


そんな父と、最後に一緒に出掛けたのは、2019年6月でした。
ちょうど4年前ですね。

両親と弟夫婦、そして私達夫婦の6人で埼玉県飯能市にあるムーミンバレーパークを訪れました。
梅雨でしたが、雨には降られず、アンブレラススカイの傘から降り注ぐ光がとても綺麗でした。


笑顔の父と母ですが、この時皆で撮った写真が、外で撮った最後の写真になりました。








アンブレラスカイ脇には色とりどりの紫陽花が咲き始めていました




駐車場に車を停め、アンブレラスカイを歩き、インフォメーションを過ぎると見えてくるのが、メッツァビレッジのマーケット棟。父も母もあまり歩く元気がなく、特に父は、駐車場からここまで歩いてくるのがやっとで、皆が買物したり、少し先まで行っている間ずっと、このマーケット棟脇にあるベンチで座って休んでいました。

母と弟夫婦と私達5人は、その少し先ノルディックスクエアまで歩いてみました。そこから先のムーミンバレーパークは有料エリアですが、当初から行っても、無料エリアのメッツァビレッジまでの予定でした。父が待っていることもあり、この辺りで引き返します。


ムーミンバレーパークになる前、この辺りにはよく父と釣りに来ていたと弟が話していました。


戻ってきて、父を探し、メッツァビレッジのレストラン棟で一息。
マーケット棟でしばし買物をしてから、メッツァビレッジを後にしました。

この2019年6月の帰省のときは、実家を後にするとき、地元のレストランで父と一緒にお昼を食べました。今振り返ってみると、これが父と外で食事を共にした最後になりました。

地元での父との最後の外食


このとき、あと何回私に会えるかな、と父がポツリとつぶやいたことを今でも覚えています。
昼食後、じゃぁ、行くね、と実家を後にするとき、父が外に出て見送ってくれたのも、このときが最後になりました。
帰省の度、どんなときでも必ず外に出て、見送ってくれていた父でした。

翌2020年夏、父が急激に痩せ、様子がおかしいので、病院へ行った方がいいとケアマネージャーの方に云われ、病院へ連れていくと、脱水と尿閉を起こしていて、即入院となったとの連絡がありました。その後、別の医療機関への転院を経て、介護施設へ入所。コロナ禍ということもあり、面会もガラス越し、電話での会話で10分のみとのことで、こんなところにひとり閉じ込められていたら、余計認知症も進んでしまい、命を縮めてしまうのではと危惧しましたが、2021年春には無事退所し、自宅へと戻ってきました。
施設へ入所した当初は、車椅子で移動していた父でしたが、毎日のリハビリの効果もあってか、自宅へ戻ってからは、亡くなるまで、介助なく、ひとりでトイレへ行き、食事も助けなく、自力で食べられていました。

ただ、2023年、今年の2月頃に、呼吸が苦しいとの本人の訴えで救急車を呼び、再び尿閉があり、尿道カテーテルとなりましたが、入院はせず帰宅。カテーテルはその後すぐに外れましたが、尿閉の原因は最後までわかりませんでした。
3月に一か月ほど、検査入院をしましたが、特に何がわかったわけでもなく、ただ、肺気腫が悪化していてSPO2が低いとのことで、自宅酸素吸入器をレンタルし、24時間鼻から酸素吸入となっていました。

2020年10月には、私ひとりで帰省し、施設入所中の父に会ってきたのですが、そのとき既にだいぶ痩せていた父が、今年2023年6月に帰省したときには、更に痩せてしまっていて、あまりいい状態ではないと感じてはいました。
本人曰く、酸素吸入はしなくても平気なんだけど、付けておいてと医者に言われるからしている、言っていたのですが、少し起きて話をするものの、すぐにもう寝るとベッドへ行ってしまい、起きていられないんだなという感じでした。昨年11月に帰省したときよりも、明らかに弱っている感じでした。それでも、すぐすぐどうこうということはないだろうと皆そう思っていたし、それを信じて疑わなかったので、今はトイレも自分で行けるし、食事も自分で出来るからいいけど、この先、寝たきりになって、トイレも自力で行けなくなったら、お母さん一人で面倒みるのは大変だよね、どうする、というような話をしていたぐらいでした。

そうなることなく潔く逝った父でした。

以前から、私自身、色々なことにいわゆる”感が働く”タイプで、楽しみにしていたことが、わけもなく急に乗り気ではなくなったときは、強行しても、散々なめにあうことが多かったり、あまりにもイヤな感覚に包まれて、予定を変更したりしたことも何度かありました。大切な人や事、を失うときには、歯が抜ける夢を見ることも多かったのですが、父のときには、そういったことが全く何もなく、ホントにね、また、来るね、と言って、その日がまた来ることを疑うことなく実家を後にしたんです。

なんで、わからなかったんだろうって、後からそれを思うとき、涙が溢れてきたりしたのですが、最近はでも、何だろう、逆に、父はただ、人として生まれる前のところへ帰っただけで、父の魂と私の魂は、今もすぐ近くにいて、それは何も変わっていなくて、ただ肉体から抜け出て元の場所へ帰っただけで、決して、父を失ったわけじゃない。

父は、私の中に今も生きていて、だから、きっとわからなかったんだな、と思うようになりました。

そもそもが、帰省を早めたこと、このタイミングで帰省して、父と話をしたことこそが、それこそ、きっと自分でも意識していなかった”感”が働いた、ということだったんだろうなあと思います。
いつもなら、飛行機のチケットの予約前に、この日程でいい?と母に確認の連絡をしていたのですが、今回は、少し前にだいたいの日程は話してはいたものの、直前の確認はせずに、全ての予約を取り、いざ帰省する1週間だったか2週間だったか、それくらい直前に母に連絡していついつ帰るね、と伝えたんです。
実は、その時、母からは、帰省の日程を、もっと後に出来ないか、という打診があったんです。
「お父さんもお母さんも、ちょっと具合がよくないから、もう少し後に伸ばせないか」と。
「いやいや、お母さん、それは無理。もう休みも予約も何もかも全部取ったから今から変更なんて出来ないから、とりあえず皆で食事は出来なくても、顔を見に帰るぐらいはいいでしょう」といって、予定変更はせず、当初の予定のままの帰省となりました。
それが、結果的に、最後に父に会って話を出来た、ということにつながりました。
見えない何かに導かれるように、奇跡のタイミングでの父との最後の別れでした。

とりあえず、今一番気になっているのは母のことです。

もっと頻繁に帰れればいいのですが、四十九日法要後は、また暫く帰省は難しい気がします。

そして、怒涛の6月最終日の昨日は、朝から時折激しい雨が降っていましたが、2か月ぶりに糸島へ。

お昼は、いつもの志摩の海鮮丼屋で海鮮天丼を頂き、夜はこれまた「駅前の魚屋さん」で刺身の盛り合わせと、ちょうど真鯛フェアの最終日だったこともあって、真鯛天むすが出ていたので、昨年も頂いたら、あまりの美味しさを忘れられず、今年もまた食べたいと、滑り込みセーフで買うことが出来ました。
ちなみに、真鯛フェアは終了しましたが、暫くは、真鯛の入荷があれば、作るそうなので、気になっている方はぜひ、確認して予約の上で行かれてください。

私は以前一度食べたことのある海鮮天丼でしたが、相方は海鮮丼ばかりで
天丼はお初でした。その味と、全てのバランスに感激することしきりの相方で、
お店を後にした車の中で、暫し、熱く語っておりました。笑


父の告別式のとき、埼玉の田んぼではちょうど水が入り、田植え前か直後、という感じだったのですが、写真を撮るどころではなく、こちらへ戻ってきてからも体調悪化と仕事で全く写真が撮れなかったのですが、昨日糸島で、田植えが終わったばかりの田んぼに遭遇し、車を停めて写真を撮りました。
紫陽花もあって、いい感じでしたが、昨年撮った紫陽花寺は、既に刈り取られた後でした。


昨年の糸島で偶然通りかかって写真を撮った紫陽花寺です。
満開のちょうどいいタイミングでした。

今年は、紫陽花は終わっていましたが、代わりに、アガパンサスのお花に出逢いました。

アガパンサスといえば、この淡い紫か白花だけと思っていたのですが、濃い紫もあるのを初めて知りました。





そして、名前ど忘れしましたが、この派手な赤い花も、結構好きな花で、今の時期、切り花としても出回っているのをよく見かけます。
激しく燃えるような赤色が好きなお花なので、載せてみました。

以上、長文になりましたが、最後までご覧頂いてありがとうございます😊💕


読んで頂いてありがとうございます。ご縁に感謝します。頂いたサポートは、フィルム写真を今後も撮り続けていく活力や、美味しくて身体にも良い食を広めていく活動に使わせて頂きます。