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番外編:想定外はいつも隣…⑥

あっという間に2月も下旬にさしかかろうとしています。
担当医から母の今後をどうするのか問われ、
突然の宣告にオロオロしてしまった私。
結局、私はどんな答えを出したのか?
そして、今、どんな状況であるのか?

前回書いたとおり、母に会わせてもらえるということだったので、
1月6日、会いに行きました。
その日、母は特別に個室に移されていました。
12月26日に救急搬送されて以来、約2週間ぶりに会う母は、
とても弱々しくみえましたが、呼吸器に繋がれることもなく、
手を握ると握り返してきました。

「ここから先、中心静脈に切り替えると、延命治療になります」。
先生にそう電話で伝えられたとき、私は父のことを思い出しました。

父もまた、明日、退院というその日に、突然、誤嚥性肺炎を起こし、
その場で気管チューブに繋がれ、2度と目を開けることなく、
1週間で亡くなりました。父が危篤状態になったときもやはり、
「この後は、延命治療になります。どうされますか?」と、
担当医から尋ねられましたた。
チューブや呼吸器に繋がれたまま、もう2度と目を開けることも、
言葉を発することもないという現実を受け入れ、
母も私もつらい決断をせざるを得ませんでした。

しかし、今、私の目の前で、私を見つめ、手を握り返してくる母は、
あきらかに父とは違う状況でした。
言葉を発することは出来ませんでしたが、ちゃんと意思を持っている母を、食事が摂れないだけで、「さよなら」をすることは、とてもじゃないけど、受け入れることができません。

病室で、私と母は、心の中で会話しました。
間違いなく、私の思いは母に伝わったと思うし、
私が受け取った母の返事も間違ってはいないと思います。
母は、頑張っている!
母は、生きることを諦めてはいない!
私には、そう思えたのです。

もう、私の答えは決まりました。
いえ、会う前から決まってはいたのですが、
答えに自信を持ちました。

15分の面会時間はあっという間で、病室を出る前に、
看護師さんに写真を撮ってもらい、母と握手をして別れました。

帰宅後、病室で撮った写真を兄に送ったところ、すぐに電話がありました。
「全然、普通じゃないか!」という兄に、私の出した答えを伝えたところ、
兄も賛成してくれました。

翌日、答えを伝えるために病院へ電話をしたのですが、
先生は不在だったため、看護師さんに伝えておきました。
先生から電話があったのは、その翌日、日曜日の夕方でした。
「本当にいいのですね?お母さんは辛いかもしれませんよ。
この先、5年、10年とこのまま生きられるかもしれないですよ。
途中で辞めることは出来ません。大丈夫ですか?」

何度も確認されました。
母が辛いかもしれないなんて、誰にわかるのでしょうか?
この先、5年、10年、母が生きることに対して、「大丈夫ですか?」って
聞かれる意味がわかりません。

私の変わらぬ答えを聞いた先生は、
「わかりました。では、火曜日に処置を行います」と言われました。

1月10日火曜日、昼過ぎに先生から電話があり、
中心静脈に切り替えたことを伝えられました。
その後は、週に2回ほど病院へ行き、看護師さんから母の様子を聞いていました。
相変わらず、言葉を発することはなく、1日のほとんどを眠って過ごし、時々、目を覚ましたり、言葉をかけると目を開けたりといった状態で、
手足は自由に動かしているとのことでした。

中心静脈に切り替え、母の様子は、それなりに安定していたので、
転院先を探すことも同時進行していました。
私自身は、施設ではなく病院を希望していました。
今の状態のまま、どこかの施設に入所するのは、まだまだ心配で、
まだしばらくは、「病院」で、診てもらいたいという思いがありました。
しかし、中心静脈の患者を受け入れてくれる病院が意外に少なく、
なかなか転院先が決まらない状態にありました。

そんな日々を送っていた1月終わりのある日、
いつものように病院へ行き、担当の看護師さんを待っていると、
初めて見る看護師さんがやってきました。
こちらの病院では、日々、担当看護師さんが変わっていましたが、
結構な確率で同じ方にお目にかかることが多い感じがしていました。
彼女は、とても礼儀正しい人で、
「今日、初めてお母様を担当しました○○です。」と挨拶をされ、
いつも通り私が「母の様子はどうですか?」と尋ねると、
「そうですね、少し微熱があり、声かけにもあまり反応がない状態です。」と、つらそうに話し、「医師からはどのように聞いていますか?」と、
逆に尋ねられました。先生とは、中心静脈に切り替えた報告の後、
話していないと答えると、「そうですか…」と言い、
続けて、「出来るだけ早い内に面会できるように頼んでおいた方が良いような気がします。詳しくはわからないので、先生に電話をするように話しておきますね」と言いました。

つい数日前、別の看護師は、「いつも通りですよ」と言われていたし、
ケアワーカーの方とも、転院先についていろいろ話しをしていたのに、
突然、そんなことを言われ、何をどう考えたら良いのかわからず、
ただ口の中がカラカラに乾いていたことだけを覚えています。

帰宅後、すぐに兄に電話を使用と思ったのですが、
先生からの電話を待つことにしました。
ちゃんとしたことを知りたかったし、兄にも事実を伝えたいと
考えていました。看護師さんから悲惨な話を聞かされたとき、
口の中がカラカラに乾き、動転していたにもかかわらず、
意外に冷静だったのかもしれません。

夜になって、ようやく先生から電話がありました。
先生が仰るには、母の状態は、唾液を誤嚥することで、軽い肺炎を起こし、微熱を繰り返してはいるものの、特に悪くなっている状態でもなく、
今日、看護師が話したことは、あくまでも彼女の感じ方であり、
今すぐどうなるということではないとのことでした。
私は、一度、母の様子を知るために面会したいと思っていること、
遠方にすんでいる兄も会いたがっていることを医師に伝えました。
すると先生は、「お兄さんが名古屋に来る日が決まれば連絡してください。検討します。」と言われ、その日の電話を終えました。

早速、その日の出来事を兄に電話で伝え、こちらに来る日を決め、
翌日にはそのことを病院側へ伝え、面会の許可を得ることができました。
また、その日は、ケアワーカーの方からも連絡があり、
私が転院先の1つとして希望していた病院へ「家族面談」に行って欲しいと連絡があり、ひとつ先へ進めたような気がしていました。

2月2日、埼玉から兄が来ました。その日、私は朝から、
転院先を希望していた病院へ「家族面談」に行きました。
面談は、その病院のケアワーカーの方と、担当医となる予定の先生でした。
担当医の方から聞かされた話は、これまた今まで耳にしたことがない話だったので、かなり驚きました。
先生と私の会話です。

「中心静脈は、感染のリスクが高いので、私なら経鼻栄養を選んだのですが、その話はなかったのですか?」
「えっ?経鼻栄養?聞いたことはありません。」
「そうですか…。ここは間違えずに聞いていただきたいのですが、
経鼻栄養にすれば、上手くいくとは限りません。やはりご高齢なので、
何が起きてもおかしくはありません。ただ、中心静脈は、私の経験上、
1ヶ月半を過ぎた頃から感染を起こす率がかなり高くなるのと、
栄養状態に偏りがあるので、それによる弊害も起こることがあります。
その点、経鼻栄養は、その心配はないのですが、ただ、今まで1ヶ月以上、静脈点滴、中心静脈を行ってきたので、ここで経鼻栄養に切り替えることがスムーズにいくとは、残念ながら言い切ることはできません。
さらに、入院する原因となった胆嚢炎が再発する可能性もあります。
ただ、上手くいけばの話ですが、僕は経鼻栄養を試してみるという方法もあると思っています。」
「上手くいかなかった場合は、どうなるのですか?」
「下痢をしたりとかいった症状が出てくるので、その症状が治まらなければ、もう一度、中心静脈に戻すか、普通の静脈点滴にするということになると思います。」
「今、先生のお話を伺う限りでは、是非試していただきたいと思いますが、兄に相談してからお返事しても良いですか?」
「大丈夫ですよ。ただ、出来ルだけ早くやった方が良いので、
転院するまでに決めておいてください。」
「わかりました。お返事します。」

その後、ケアワーカー、看護師との面談がありましたが、
もう、私の頭の中は、「経鼻栄養」という言葉がグルグル回っていました。
そんな方法があるのか?
何故、日赤の先生は、そのことを話してくれなかったのだろう?

帰宅後、家で待っていた兄に、その話をしました。
相談といっても、私の考えはすでに決まっていました。
私よりもずっと感染を恐れていた兄も、私の考えに賛成でした。

またひとつ、新たな道を見つけた気がしました。

午後、母との面会の時間が近づいてきました。
兄と病院を訪れると、すでに準備は出来ていて、個室に通されました。
私自身、母と会うのは1ヶ月ぶりです。
会えなかった1ヶ月の間に、母に何か変化は起きているのだろうか?
もう、私のことがわからなくなっているのではないか?
ましてや、ずっと会っていなかった兄のことがわかるのだろうか?
いろいろな思いが頭の中でグルグル回っていました。
病室に入ると、母は眠っていたのか、目を閉じていました。

私は母の右側、兄は左側から近づき、まず、私が声をかけました。
「お母さん!」
耳元で声をかけると、私の方を向き、目を開けました。
私は、母の手を握り、さらに声をかけました。
「お母さん、お兄ちゃんが来たよ!」
母は、まだ私の方をずっと見て、兄を探しているようだったので、
「あっちだよ」と反対側を向かせようとしました。
兄も「ここだよ」と声をかけると、その声を聞き、母はびっくりしたように目を大きく開き、布団の中に入れていた腕を出してきました。
その反応には、こちらがびっくりでした。
兄は、腕を出してきた母の手を握っていました。
私たちは、それぞれ一方的に母に話しかけました。
まあ、ほとんど私一人が話していたのですが…。
もちろん、返事はありません。
母は、私の方を見たり、兄の方を見たり、天井を見つめたり…。
かと思うと、また目を閉じ、眠ってしまったり…。
母の腕は、ずいぶん細くなっていましたが、
その手は、相変わらず温かく、柔らかかったです。
帰り際、「また来るね」といつも通りに声をかけ、握手をすると、
母は、両手で私と、兄の手をそれぞれギュッと握ってきました。
「うん、またね。それまでお母さん、頑張ってね!」

病院からの帰り道、兄は「母さん、ちゃんとわかってたな」と言いました。
私は、正直、ホッとしました。
たとえ、今日の面会で、母が、私や兄のを認識できなかったとしても、
もちろん、それは悲しくて、寂しいことですが、
私は、これまで十分な時間を母と過ごしてきました。
1月に面会した際にも、ちゃんと私をわかってくれた母と会っています。
でも、兄は違います。
1年以上、会うことがなかった上に、突然、こんなことになり、
自分のことを認識できない母と会うことはどんなにつらいだろうと
思ったからです。

帰宅後、最後に私たちの手をギュッと握った意味について話をしました。
「家に連れて帰って」と言っていたのではないか?というのが、
兄の意見でした。
でも、私は違います。
「来てくれてありがとう!また来てね!」
きっと母はそう言っていると思うと、兄に伝えました。
兄と私の性格の違いがはっきりとわかる意見の違いだと思いました。

兄は、3日間、こちらに滞在していました。
その間、お正月に母と食べるために用意していた冷凍のお節を食べ、
すき焼きを食べました。
母が作ってくれた料理について話しながら…。
食い道楽だった父の影響で、料理が得意だった母。
もう、あの料理は食べられないと、実感しました…。

キッチンのシンク下、母がシロップ漬けにした梅が眠ったままでした。
実は、私はこれが苦手だったので、どうしたものかと迷っていました。
兄は、母と食事の嗜好が似ており、梅の存在を伝えると、
「持って帰る」と言い、大きな瓶を車に積んで帰りました。

良かった…。
母が最後につけた梅、喜んでくれる人がもらってくれて良かった。
今度、母に会ったら、このこと、必ず伝えよう。
きっと喜んでくれるに違いありません。






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