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鞍上の狼 第1部

※この作品はフィクションです。
登場する人物・施設・団体とは架空のものです。

プロローグ

『乗馬はお金持ちのスポーツだ。』

そんなことは誰が決めたんだ。
今、僕はこうして馬に跨がり、一人の競技者としてここにいる。同じ乗馬クラブで鎬を削りあった者だけの競技会。それは凄く凄く小さな競技会かもしれない。それでも、僕が何かに全力で取り組んだ証を刻むとしたら、この競技会で結果を出すこと。僕よりもベテラン、僕よりも格上、僕よりもレッスンに時間を割ける者が沢山いる。だからこそ、ここで勝つ。勝って『貧乏人の下剋上』を魅せる。そしていつか、僕の乗馬人生が誰かの希望になれるように…。
どれだけ努力する才能があっても、環境が無ければ夢は簡単に砕かれる。小さい頃、挑戦する前から砕かれた夢を、あの頃とは違うカタチで叶えるために、今、前に進もう。

君と共に…

A地点 『思い出作り』

1 

何も無くなってしまった。去年のこの時期は草野球チームのリーグ戦に出ていた。仮に試合が無い日だとしたら、チーム練習か自主トレを行っていた。
家族の影響をうけて物心付いた時には既にボールを握っていた。柔らかいおもちゃのゴムボールを投げてはプラスチック製のバットや新聞紙を丸めた物で打ち、一人の時は軽いランニングをしたり、プロ野球選手達の真似をしながら自分にあったフォームを探したりしていた。ある程度読める漢字や意味のわかる言葉が増えてくると、兄の野球教本を借りて何度も何度も読んでいた。
しかし、そんな僕が生まれた環境は、野球をするには残念な環境だった。
兄弟が多く、家族が普通に生活するだけでもそれなりのお金がかかる。それに、父親は退職癖があり、安定した収入もないうえに、母親は父親の扶養控除を受けるため、収入を調整していた。
勿論、そんな僕よりも恵まれない環境に生まれた子供達もいるだろう。ただ、学校に通えば、同じ年齢の子供達と同じ時間を過ごすことになる。そうなれば、自然と周りの子供達の恵まれている部分が目立ってくる。頻繁にではなくとも欲しい物があればそれなりに与えられ、やりたいことがあれば挑戦させてもらえる環境や応援があり、学校が終われば友達と遊ぶことを許されている同級生を見ると、幼い僕はたちまち孤立していった。
そんな孤立した僕でも、周りの同級生達に知られていることがあった。それが大の野球好きであること。そのため、野球の話ができる時間は、それなりに楽しむことができていた。ただ、野球好きを知られていたことが後々僕の心をより苦しめる。
部活動が始まる小学校四年生を迎えた。当時の男の子の間では、野球部かサッカー部が人気の部活だったと思う。同級生で一緒に野球の話をしていた友達は迷わず野球部を選択していたが、当たり前のように僕も野球部に入部すると思っていた彼らは、僕が入部しないことに驚きの表情を見せていた。

「何で野球部に入らないんだ?」

シンプルな友達の質問に僕は小さな笑顔で答える。

「ウチの家、お金なくってさ…」

その日の授業が終わると、僕はいつも以上の孤独感を味わい始めていた。
彼らは好きな部活動を同級生や年の近い先輩達と一生懸命やるだろう。しかし僕はどうだ?たった一人だけで通学路を帰っている。よく一緒に帰っていた友達も野球部に入っていた為、一人ぼっちの帰り道になった。その友達が野球部に入る程の野球好きとは思わなかった。それに対して、周りから野球好きであることを知られていて、当たり前のように野球部に入ると思われていた僕がこの時間にここを歩いてる。この日常がこれから続く。気づけば僕は、一人の帰り道に慣れてしまっていた。唯一の救いは、その年に野球部の無い小学校へ転校したことだったのかもしれない。

新しい地、とは言っても前住んでいた家に歩いて数分で行ける町に引っ越した僕は、無事に小学校を卒業し中学生になっていた。
中学生。今までよりも周りのことが気になりだす年頃である。そのタイミングでも僕は苦しめられていた。
中学校には野球部はなかったが、スポーツ好きな僕としてはサッカー部に入りたいと思っていた。勿論、入れないことはわかっていた。しかし、中学校は部活動が強制だった為、家族の意見を元に僕は部費がかからない美術部に入部した。幸い、絵を描くことは嫌いではなかったが、部費のかからない美術部には指導者がほぼほぼ来ることはなかった。なので、絵の技術を教わることもない。先輩方のやる気もあるかないかもわからない。僕の中学時代は、美術部と言う名のサボリ部に入部したところから始まった。
そんなサボリ部生活をしていても、僕の体は野球を欲しており、部活終わりや休日には野球の練習に励んでいた。中学生以上から野球を楽しめる場を兄が知り合いを集めて作っていたので、僕はそこで思いっきり野球をやるために練習していた。ただ、年齢もバラバラ、同じ学校の仲間達と勝利目指す部活動と比べると、チームで揃えたユニフォームもないこの野球の場は、かなり物足りない時間だった。
厄介なことは更に起こる。中学生という年齢が僕を更に苦しめた。
異性に対する意識が強くなってくる思春期。この時期に好かれるのは目立つ生徒だった。明るく会話が上手い者、成績が良く自信のある者はやはり人が寄ってくる。そしてこの双方のどちらでもないのに好かれる者は運動部に所属している者だった。元々人見知りの僕は会話が上手い訳もなく、典型的なスポーツ好きと言ってもいいくらい勉強嫌いな僕が成績優秀な訳もない。そして入部している部活が美術部となれば好かれる者にはなれなかった。それでもスポーツ好きと知られていたため、まだ隅のほうに追いやられるような立ち位置までにはならなかったが、同級生との会話にハードルを感じずにはいられなかった。
そんなある日、美術部の部室に入ろうとしていた時のことだった。鍵を開け、廊下に置いておいた鞄を何も考えずに持って部室に入ろうとしたとき、

「美術部のクセに格好つけた鞄の持ち方してんじゃねーよ」

と、言われたのだ。
今では「何言ってのコイツ?」で終わってしまうような言葉だが、思春期の僕にはそんな心の余裕がなかったようだ。「本当は運動部に入りたい。」「みんなと一緒に、スポーツで汗水流して努力したい。」そんな本音が一瞬にして頭の中を駆けめぐった。絵を描くことは確かに嫌いではない。ただ、それ以上に年齢の近い同じ学校の仲間とスポーツで戦いたいと言う思いに強引に蓋をしていたのに、急に浴びせられたことで、僕は生まれ育った環境を少しずつ恨み始めていた。

僕の反抗期は順当に来たのだろうか、それとも少し遅れ気味なのだろうか。高校選択をする頃には僕は色々と企んでいた。正直なところ、近所の普通科に通いたいと思っていたが、学力も届かなかったし、そこでは僕の企みは実行できない。そんな時、たまたま担任が薦めてきたのが地元の工業高校だった。僕は工作系が苦手だったのもあり、技術の授業ではいつも以上に必死だったのかもしれない。しかしその姿が担任の目に良く映ったらしく「お前の技術の授業を受けている時の目が良い!」という謎な理由で工業高校を進められた。
先にも言ったように、工作系は苦手だったため、工業高校は敬遠していたのだが、薦められた学校であれば推薦入試も可能という甘い誘いに乗ることにした。
無事に推薦合格を勝ち取り、一般入試組より早く勉強から解放された僕は自主トレに励む。高校入学後の企み、それは自分の貯金から部費を出し野球部に入ることだった。その高校は公立高校で、野球のために選ぶような強豪でも無い。小学校・中学校とほぼ自主トレで野球をしてきた僕でも努力次第でメンバー入りできないだろうかと思っていた。
結果はすぐに表れた。勿論、悪いカタチで。少しの練習でわかった。指導者がいた者・同世代と共に戦ってきた者達とほぼ自主トレの僕では話にならないということが。その夜は悩んで悩んで眠れなかった。続けるべきか諦めるべきか。そして翌朝、母親に告げた事は「小学校の時にした、腰の怪我の後遺症が出たから野球はやらないことにしたよ。」と90%以上の本音を隠し、数%の微かな事実を利用して伝えることにした。ちなみに、母親は何年も僕の本音を見破れていなかったらしい。
まだ体験入部中だったこともあり、転部は簡単にできた。中学時代と同じように、サボリ部と化していた囲碁・将棋部に籍をおいた。勿論、部費は0円。
野球をやる場を失った僕だったが、父親が数年前から働きだした就職先で草野球チームを作っていたこともあり、そのチームにお邪魔させてもらうことになった。兄のチームとは違い、ユニフォームも揃えたしっかりとした草野球チーム。これで再び野球ができる環境は整ったが、やはり部活動には勝てない。高校野球では『甲子園出場』などのはっきりとした目標がある。甲子園出場を狙えるような強豪校で無ければ『初戦突破』や『一日でも長くこのメンバーで!』などの見やすい目標もたてられる。だが、草野球は違う。健康のため、週末のリフレッシュのため、単純に野球が好き等、野球に対する価値観もバラバラ。その草野球チームとは高校卒業後も二年間お世話になったが、野球に対する価値観の違いや家庭の事情などで不戦敗が増え、チームは解散した。

こうして僕は何もかも無くした。
仕事をし、何もない週末を迎えては、夜に酒を飲み、次の日はただ一日を終える日々を送り、翌日の仕事に支障をきたさないように寝るだけだった。
そう、小さい頃“野球の影に隠れた夢”を思い出すまでは…。

今日も何もない一日を迎えた。とは言っても、既に午後1時を過ぎている。スマートフォンをいじってダラダラとしていたものの、画面に映るものに対しての好奇心は消え去った。うつ伏せの体勢からぐるり、仰向けになって天井を見つめる。酒を飲んだ翌日、次の日は仕事という日程で行きたい場所は見つからない。当然、そんな奴に出会いもない。出会いもないから恋人もいない。今日も何もしない週末が過ぎていく。

(本当に、何も無いな…。)

(僕はこのまま死んでいくのかな…。)

小さい頃、馬鹿みたいボールを投げ、馬鹿みたい野球教本を読み、馬鹿みたい走っていた。それでも、その努力は芽を出す前に摘み取られてしまった。どれだけ努力しても、子供は親の許可が無ければ、親の応援が無ければ何もできない生き物。
少し前に話題になった言葉で“親ガチャ”と言うものがあった。賛否両論でた言葉だが“親ガチャ”は存在すると思ってしまう。残酷な話をするなら“親は子を生まない”という選択をできるが、子は“親を選ぶ”こともできなければ“生まれない”という選択をすることもできない。世界的に見れば、生まれた翌日に命を落としかねないような環境に生まれる子もいるだろうが、実はこの考えがすぐに頭を駆けめぐるようになった頃、僕は親との溝が深くなっていることに気づいていた。
そんなプラスに働かないことを考えながら時間は刻々と過ぎていく。

(何も無く死ぬのか…。)

(どうせ死ぬなら、一つくらい何かに全力で取り組んだ証が欲しかったな…。)

そんなことを思いながら小さい頃の記憶を思い出す。5歳くらいの時だっただろうか?当時、幼稚園も保育園にも通っていなかった僕は、母親に連れられ隣の市にある大きめのスーパーに通っていた。退屈な車での移動時間。スーパーなんてそこら辺にあるのに、わざわざこんな所に来るなんて。そこまで行くということは、安くで買い物ができる所だったのかもしれない。今の僕はそう思えるが、当時の僕には面倒なだけだった。でも、その往復には唯一の楽しみがあった。それは…

「あっ、馬だ!」

助手席の窓から、馬に乗り駈け回る姿が見える。動物は好きだ。犬や猫も兎もハムスターも。でも、小さい頃から一番好きだったのは馬かもしれない。何故か家にあった馬のぬいぐるみを、僕は一番好いていた。

「馬、乗ってみたいなー。」

「無理よ。あれは“お金持ちのスポーツ”だから。」

言葉は多少違うかもしれないが、当時の記憶が鮮明に蘇ってくる。晴れた日に力強く駈ける馬。何知らない当時の僕からはただ馬に乗ってるだけに見えるのに、馬に乗った男性の姿には強い憧れを抱いていた。

「“お金持ちのスポーツ”か。いくらくらいするんだろう。」

先ほどまで、暇潰しの道具でしかなかったスマートフォンをいじくる。小さい頃に見たあの乗馬クラブは今も存在する。ただ、何て調べればいい?乗馬クラブの名前さえわからない。頭をフル回転させ検索ワードを考える。

-愛知県 乗馬-

スマートフォンから微かに聞こえるタップ音。その音は多くの情報を画面上に引っ張り出す。その中から、あの時憧れを抱いた乗馬クラブを見つけ出すのに時間はかからなかった。
早速サイトを開き、乗馬クラブの情報を取り込んでいく。その中でも大事なのが入会金、会費、レッスン料などの『料金』。そのサイトには細かく書かれていた。

(確かに結構するなぁ…。)

(それより、これは?)

気になったポイントを更にチェック。そこには『5級ライセンスコース』と書かれたものの料金が載っていた。1回30分で合計6回レッスンがあり、筆記試験のための講義もある。そのコースの額は4万円を切っていた。

「4万円でお釣りがくる金額かぁ…。」

流石に即決価格ではない。一旦そのサイトを閉じ、今度は『乗馬 5級ライセンスコース』で検索をかける。こちらもまた多くの検索結果が出てきた。他県の乗馬クラブのサイトも出てきてはいたが、そこで僕は愛知県にも思っていたより多くの乗馬クラブが存在していることを知った。

(どこの乗馬クラブでもやってるんだな…。)

乗馬の5級ライセンスコースは、正規会員ではない人対象に行われるようで、難易度も低いらしい。どこの乗馬クラブでも、レッスン回数はだいたい5、6回。最短2日で取得可能という所もある。ライセンス試験合格者には自動車の運転免許証のように、顔写真が付いたライセンスカードが発行されるらしい。ちなみに、この『5級ライセンスコース』は、新規会員獲得に向けた営業として用いられることが多いようだ。なので、「コース修了が近づいたら、会員になる時・なった時の見積書を見せられる。」「会員になる気が無いなら確り断ること。」というアドバイスが見受けられた。営業を断るのは簡単だ。はっきりした返事をしなくても、はぐらかして時間を稼げば相手もだれてくる。4万円は確かに大きな出費だが、何もない休日を過ごしているだけの僕には出せない額ではなかった。

「どうせ使い道が無いんだ。何も無く死ぬくらいなら、一つでも夢を叶えた証を作ろう!」

もう一度、スマートフォンに最寄りの乗馬クラブのページを出す。『臨空乗馬クラブ』。近くに空港があることにちなんで付けられた名前だろう。表示された電話番号をタップすると、自動的に通話画面が開かれた。今度はもう迷わない。
21歳、4月。乗馬という“終活”が始まった。

駐車場に車を入れる。土と砂利の駐車場には、所々枠線の役目をしているであろう紐が通っていたが、土や草、石ころなどで見えにくくなっている部分が目立つ。それでもここは乗馬クラブ。高級車がちらほら並んでいる。そんなところに、少し汚れた軽自動車がここに並ぶのは恐縮した。これから僕がすることに対しての高揚感と不安感が喧嘩をする。恐らく勝っていたのは不安感だろう。

『乗馬はお金持ちのスポーツ』

同じ日本に住んでいても、この扉の先にいる人達は、僕と住む世界が違う人なんだろうと思うとますます不安感が強くなった。

「…こんにちはぁ…。5級ライセンスコースの森下です。」

「あっ、こんにちは!5級ライセンスコース受講ありがとうございます!ちょっと時間もまだあるので、どうぞお掛けになってお待ち下さぁい!」

「あっ、はい。ありがとうございます。」

「また馬の準備が出来たら担当の者が声を掛けに来ますので!」

「わかりました。」

そこまで広くない休憩室。距離を空けて座ろうとしても人が近い。目に見える範囲だと3人いる。その奥にも椅子が並んでいるようだが、そちらは死角になっていてわからない。
会話している会員であろう人物にチラリと目をやる。体にフィットした服装は、体のラインが出たり、圧迫感を感じて着るのを苦手にしていた。そのため、体にフィットした乗馬用のウェアに魅力を感じることは無い。そう思っていたが、目の前の女性はそれを着こなしている。落ち着きや立ち姿から何となくベテランだろうと察した。乗馬用のウェアも、何となく高級そうな物を着用しているような気がする。

(早く馬に乗りたいとは思うけど、ここに居ていい存在なのか?服装…というより服の生地?それで分かる。明らかに住む世界が違う人だ。)

休憩室にいる人達の関係がギスギスして空気が悪い、とかそういうのでは無く、無駄に気まずさを感じていた僕は、人見知りしていた過去に身に付けた技を使う。休憩室にある掲示物、本日の騎乗予定が書かれたホワイトボード、ライセンス取得者の名前が並んだら物をただひたすら眺めていた。勿論、今日初めてここに来た僕が見ても何もわからない。

休憩室で自分勝手な気まずさと戦っていたせいで待ち時間は長く感じた。そしてついに、その気まずさとの戦いを終える。

「えーっと…森下さん?」

「あっ、はい。森下です。」
(競馬の影響で馬に乗る人は小柄なイメージあったけど、この先生、背ぇ高っ!)

「本日、レッスンの担当させていただきます、佐藤です。よろしくお願いします。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

休憩室の扉を出て、インストラクターに付いていく。インストラクター・佐藤さんの曳く馬はブラックダイヤモンドと言うらしい。若い頃は色々なレッスンに顔を出していた万能な馬だったようだが、今は年齢による体力の衰えもあり、性格的にも落ち着いてきたことで、ビジター会員を乗せることがメインになっているようだ。
埒で囲い、柔らかい砂で覆われたこのスペースを馬場と言う。馬場に入場し、インストラクターから乗馬・下馬方法を教わる。ビール瓶のケースをひっくり返して木の板を貼りつけただけの台に乗ってスタンバイ。乗馬は、その状態から左足を左側の鐙(鞍に付いている足を置くところ)に掛け、右足で地面(台)を蹴る。その時に馬の尻に右足が当たらないように跨ぎ、右足を右側の鐙に掛ける。これは難なくクリア。
そしてそのまま下馬の練習。右足を鐙から外し大きく後ろに引く、そして馬の尻を蹴らないように体を上手く捻りながら左足に寄せるように持ってくる。その後は、左足を鐙から外し、鞍から滑り降りるように地面に着地。鞍から滑るように下りるために、鞍に一度持たれるような体勢をとる時がぎこちなさを感じるが、この辺は慣れていくだろう。

「森下さん。身軽ですね!」

「えっ?」

インストラクターからのお褒めの言葉にキョトンとする。今、僕がした動作は馬に跨がっただけ、そしてそこから下りだけ。しかも地面から直接ではなく、台を使って乗馬してるし、下馬も鞍から滑り下りただけ。この時は何故これだけで高評価だったのかわからなかった。乗馬・下馬の練習は軽く終わってしまった。

「それじゃ、もう1回乗ってもらって少し歩いてみましょう!」

ついに歩く馬に乗る時間がやってきた。先ほど習った動作で馬に跨がりその時を待つ。5歳くらいの時に馬に憧れたこの場所で、16年越しの夢が叶う瞬間。それはとても予想外のものだった。

(!?…これ、落ちるかも!)

思いの外、動きの大きな馬の背中にバランスを崩す。小さな頃に助手席から騎手を見たとき、ただ馬に乗っているだけだと思っていた。だが、今味わっているものは明らかに違う。乗馬の動きを参考にしたダイエット器具があるが、正直、効果は無いだろうと思っていた。まさに今、体に伝わってくるこの大きな揺れは、気を引き締めていないと本当に落馬しそうだと感じた。

「ちなみに、高い所とかは大丈夫ですか?」

「まぁ、はい!大丈夫です!」

嘘だ。高いところ正直苦手だ。ただ、馬の背中くらいの高さならいける。それに、夢を叶えに来てるのに、ここでインストラクターに変な気を使わせるようなことをしたくなかった。このインストラクターが乗馬初体験の人にどのくらいのレベルのレッスンをしてるかわからなかったが、「これはもう少し軽めのレッスンの方がいいかもな。」と思われるかもしれないと思い強がった。

「馬が足を1歩前に出すとき、お腹の片側が凹むのがわかります?それに合わせて、凹んだお腹に自分の脚を添わせてあげる感じで乗ってみましょうか!」

「わかりました。」

言われたことを実行できるように、馬の腹の動きに集中する。確かに、右前肢が1歩前に出ると右側が、左前肢が前に出ると左側が凹んでいる。こんな添わせ方でいいのかわからないが、兎に角、馬の腹に脚を添わせることを意識する。

右、左、右、左…。

不器用な脚の動きをしてしまっている気がするが、落馬の心配が減った気がする。馬の動きに慣れたのか、脚を添える事に必死で落馬のことすら考える余裕がないからなのか。それとも、この添わせるという動き自体が安定性を生み出してるのか。この時の僕には当然理解はできていない。

「それじゃあ、一旦止まりまーす!全体停止。」

馬の動きが止まる。

「じゃあ、馬の首もとを撫でてあけで褒めてあげましょう!」

なるほど。競馬で一着をとった騎手が首もとを撫でたり軽く叩いていたりするのはこれなのか。たまに、結構強く叩いてるように見える騎手もいるが、あの人達はプロだから馬の喜ぶ加減を知っているのだろう。とりあえず、どのくらいの強さで叩くのがいいのかわからないので撫でるだけにしておく。確りとした首の筋肉と体毛の感触は犬や猫とはまた違う触り心地だ。

「普通に乗れてますね。ちなみに、今の歩き方を“常歩(なみあし)”と言います。」

初めての乗馬。初めての常歩。凹んだ方の腹に脚を添える。ただそれだけに必死で、周りを見る余裕もなかっただろう。それでもインストラクターの評価は『普通に乗れている』だった。

「あのぉ…その状態からその場で立つことってできます?」

立つ?最初は理解できなかった。いつも地面に立っているようにすればいいのだろうか?足下には鐙と言う名の狭い地面。障害物が無ければ無限の広さに感じる大地とは違う。それでも、僕は僕のイメージする“立つ”をした。足裏が触れる部分が少なくても、思っていたより普通に立つことができた。

「あっ、普通に立てますね。」

(あっ、これでよかったのか。)

理解しないまま行った動作は正解だったらしい。日頃から、こんな安定感のなさそうな所に立つ人は多くはいないだろうが、人間は意外とすんなりできてしまうものなんだな、と思った僕がいる。しかし、次にインストラクターから出た指示は一気にレベルアップしたものに感じた。

「じゃあ次は、馬が1歩歩く度に、その場で『立つ・座る・立つ・座る』を繰り返してみましょうか!」

たった今、馬の上で意外と簡単に立つことができたとは言え、「この人はいきなり何を言い出すんだ?」と思った僕がいた。常歩でさえ気を抜いたら落ちてしまうのではないだろうかと思っていたのに、動いている馬の上で『立つ・座る』を繰り返すなんてできるのか?でも、小さな頃からの夢を叶えている途中、逃げる・諦めるなんてことは考えられない。『結果的にできなくても挑戦すること』の大事さを、挑戦することすらできずに夢を打ち砕かれた僕は知っている。先ほどと同じように…いや、先ほどよりも強く集中した。

馬が動く。先ほどよりも軽やかに。下から突き上げてくる反動に体が飛ばされる。馬の動きが軽やかになった分、どのタイミングで立つのが正解なのかもわからず、馬の反動に抵抗できない僕の体は柔らかいぬいぐるみのようにぐらぐらと上下に動いていた。
馬の動きが一旦止まる。

「やっぱり難しいですか?」

「そうですねぇ。リズムに合わせて立とうとしても、最初からリズムが合ってないので、無理矢理合わせることもできませんでした。」

先ほどの『パッカ・パッカ・パッカ・パッカ』というゆったりとしたリズムの常歩と違い『トン・トン・トン・トン』と小気味好いリズムで動いた馬に合わせられずにいた。常歩なら少しリズムがずれても「次の波に合わせよう」と落ち着いてできたかもしれない。しかし今回のリズムは違った。次の波に合わせようとしても、すぐに下からの反動がきて体が浮く。“立ち上がるという動作をするには、座っていなければいけない”という当たり前を思い出した瞬間だった。

「最初は難しいですよねぇ。もしリズムが合わせにくいなら、最初は一旦座り続けて、自分のタイミングで『立つ・座る』をしてみてください!そうしたら、少しは乗りやすくなるかもしれません。無理に1歩目から立とうとしなくてもいいですよ!」

「わかりました!やってみます。」

言われたことを元に挑戦してみよう。今度は慌てずタイミングを見る。
馬が動きだした。小気味好い『トン・トン・トン・トン』というテンポ。下からの反動。無理に立たず敢えて飛ばされてみる。体の力みが消え、徐々に馬の反動に自分の体が馴染んできた。

-ここだ!-

僕の膝が伸びる。馬の突き上げてくる反動とタイミングが噛み合った。と、思った瞬間、すぐにバランスを崩して鞍(くら)に座り込む。一度立ち上がれたことで油断した。僕が立ち上がれたか立ち上がれなかったかに関係なく馬は動いているのに、それを忘れて立ったままの僕は次の反動に脚を崩された。指示された動作は『立つ』ではなく『立つ・座る』を繰り返すことだ。

「何とか立てましたね!」

「そうですね。ただ、それに満足して座ることを忘れてました。」

「でも、次は行けそうですね!もう1回やってみますか?」

「はい。お願いします!」

今度は油断しない。座ることを忘れるな。求められていることは『繰り返すこと』。

トン・トン・トン・トン…

-ここ!-

タイミングはバッチリ。そのまま今度はすかさず座る。そうしたらすぐ立つ。また座る。
出来ている。動いている馬の上で立つなんて考えられなかったのに、今ではそれが出来ている。常歩よりもテンポの良さを感じる鞍上で、落馬しないように必死になりながらも気持ちの良さを感じていた。
馬の動きが止まる。そのタイミングにつられるように、僕の体もガクンと落ちる。それでも、常歩では強く感じられなかった風を感じ僕の気持ちは高ぶっていた。

「普通に出来てますね。」

「…ありがとうございます!」

僅かな時間でも、馬の反動に合わせて動くというのが意外と“体にくる”ということを知った。勿論、落馬しないように集中していたことも僕の体に影響していたのだろう。

(乗馬って、馬の上で座るってるだけじゃないんだなぁ…。)

未来の僕が聞いたら呆れそうな言葉がふっと浮かぶ。今こうして乗馬を経験したことで、小さな頃に助手席で見た彼らの姿は努力の末に掴んだものなのだろうと確信した。

1日目のレッスンを終えると、最後は馬場を出て“お散歩”だ。もちろん、インストラクターが馬を引き、僕はそれに乗って歩くだけ。それでも、普段からあったその場所は、馬の上から見ると特別なものに感じた。馬に跨がったときの視点は約2.5メートルと言われているらしい。体の大きな馬に乗ったり、背の高い騎手であればもっと視点は高くなるだろう。仮に今の視点を2.5メートルとして僕の身長から考えると、いつもの視点から90センチくらい高くなっている計算になる。そんな1メートルに満たない違いが、景色の見え方の違いを教え、共に歩く馬が日常にない特別感を与えてくれる。

(これをあと数回味わえるんだな…。)

人生で初めての乗馬は、いままで遊びでしかできなかったどのスポーツでも味わえない満足感を感じながら終えようとしていた。
“お散歩”から帰ってきて習ったとおりに下馬をする。その時だった。

(…うっ。足が…重い…。)

僕たち生物は丸い地球に住んでいる。生物が丸い地球に住むことができるのは重力が存在しているからである。その重力が乗馬後に一気に強くなったかのような感覚には驚かされた。歩いたり走ったりしているのは馬なのに、僕の太股は静かに悲鳴をあげていた。

(宇宙飛行士が『宇宙から帰ってきたら寝たきりになる』って話を聞いたことがあるけど、何となく理解できた気がする…。)

足の怠さを抱えながら、5級ライセンス筆記試験の為の講義が始まる。とはいっても、学校で行われるような本格的な授業というよりわずか数分で基本的なことを教えるという感じだ。初日は馬体の名称。5級ライセンスの筆記試験では前肢の細かい名称が問題になることが多いようだ。
ついさっきまでこの馬に跨がっていたが、こうして細かく間近で馬を見るのは初めてかもしれない。生で馬の蹄の裏を見るなんて、乗馬未経験者や、馬と関わる仕事をしてない人は見ることもなく一生を終えることもあるだろう。馬体の中でも蹄だけは少し不思議な感覚で、ここだけが作り物のような…生物らしさの感じられない部分だった。

初日のレッスンと講義を終え帰る準備をする。レンタル用のブーツから普段使っている私物の靴に履き替え、貰ったテキストを鞄にしまい車に向かう。足の怠さはまだ抜けず足取りは重い。

(これ、いつも以上に運転気をつけないとな…)

アクセルとブレーキを思った通りに踏めるか心配になる帰り道。僕は無事に帰宅することかでき、楽しい1日を満喫した。
次回のレッスンは二週間後。少し期間が空いてしまう。僕は今日の感覚を忘れないように、家にあった脚立に跨がりスクワットをした。これは軽速歩のイメージ。脚の怠さは勿論残っている。でも、産まれて初めて夢に挑戦できていることが、僕の体を突き動かしていた。

二週間が経ちレッスンの日がやってきた。この日は前回とは違い、まとめて二回分のレッスンとなっている。レッスンは一回30分、それの二回分なので今日は一時間のレッスンだ。この乗馬クラブでは、5級ライセンスコースの連続レッスンは1日二回分までなら可能らしく、そうなると、計算上最短3日での5級ライセンスが取得可能と言うわけだ。
今日は初めて馬に乗った前回のレッスンとは違い、今回のインストラクターは妹尾さんが担当。この妹尾さんも背が高く、『乗馬(競馬)=小柄』のイメージがある僕には意外性を感じた。妹尾さんは前回のレッスン担当の佐藤さんからある程度の話を聞いているらしく、今日のレッスンは馬のウォーミングアップが済むと軽速歩の練習をメインに進めていく。

「乗れてますね。それなら曳き手を外して練習してみましょうか!」

「わかりました!」

わかりました、と言ったものの、曳き手を外すということは、自分のコントロール次第では馬がふらふらと何処かへ行ってしまう可能性があるということだ。埒に囲まれた馬場とはいえ、この馬場には他の馬もいる。確りと馬をコントロールできなければ、他の馬や騎手にも迷惑がかかるし、最悪接触や事故にも繋がりかねない。ただ、そんな緊張感の中にも、自由という魅力があった。
馬のリズムに合わせて立つ・座る・立つ・座る…。それにプラスして馬のコントロールをする。上空から見たときに常に同じくらいの大きさの円運動ができるようにイメージしながら行う軽速歩のレッスンに、呼吸することを忘れてしまうくらいの集中力を注ぐ。

「それでは手前を変えて軽速歩していきましょう。」

円の中に波を作るように手前を変える。今までとは逆回転の円運動ができるように誘導することに成功した。が、それが手前を変えることのゴールではない。

「森下さん、軽速歩は馬の外側の前肢が前に出た時に立っていないといけないので、手前をかえたら、自分が『立つ・座る』のリズムを変えることも忘れずに。」

「あっ、はい!わかりました!」

軽速歩は馬のリズムに合わせて『立つ・座る』を繰り返すだけではいけない。乗馬初心者を悩ませる第一関門である『手前合わせ』が重要になってくる。
『手前合わせ』というのは、軽速歩の場合、右手前(上空から見て時計回り)の運動の時は馬の左前肢が、左手前(上空から見て反時計回り)の運動の時は馬の右前肢が前に出たときに騎手は立っていなければいけない。軽速歩での『手前合わせ』は、運動の向きを変えるだけではないのだ。

「今まで馬のリズムに合わせて『立つ・座る』をやってきたと思うんですけど、軽速歩で手前を変える時は、あえて『二回座る』イメージでやるといいですよ!」

なるほど。二回座るのか。
そのイメージを残し再度挑戦する。まずは右手前で順調に軽速歩をだす。そのリズムに合わせて乗る。そして手前変え。

(この時に『二回座る』!そして後はそのまま軽速歩を出せば…。)

ぎこちなさをだしながら馬は左手前に運動を変える。ここら辺のコントロールはできるようになってきた。後は軽速歩を継続しながら自分自身が正しい手前で乗り続けること。右手前だろうが左手前だろうがリズムは同じ。多少強引にでも『立つ・座る』を繰り返し、馬の軽速歩を続くようにする。その甲斐あってか馬の軽速歩に勢いがつき、よりリズミカルな軽速歩になっていった。

(よし!ちょっとぎこちないけど、これは上手くいったんじゃないか!)

と思った矢先、

「森下さん、二回座って!手前合わせましょうか!」

(えっ?)

どうやら手前があってなかったようだ。手前変えの時に二回座ったように思えたがどこで間違えたのだろう。
そう考えていると、すぐにインストラクターの妹尾さんが言う。

「手前合わせようとはしてたんですけど、手前変えの時に三回座っちゃいましたね…。」

どうやら今度は座りすぎ。なかなか上手くいかない。馬の反動が思ったよりも大きく、強引に座ろうとすればバランスを崩す。落馬しないように体勢を整えようとしている間に座りすぎてタイミングを逃しているようだ。直線運動中に『二回座って』と言われれば簡単にできるのだが、馬の手前変換しながら二回座ることが今の僕には大きな壁になっている。
その後もレッスンは続き、手前変換も何度か練習した。しかし、成功率は5回中に1回とかのレベル。これで試験は合格できるのだろうか…。

前回のレッスンから更に二週間が経過した。前回と同様に、今回も二回分の連続レッスン。なので実質、4回目・5回目のレッスンが今日にあたるため、次回はいよいよ乗馬ライセンス5級の試験になる。
筆記試験の勉強も進んでおり、凡ミス等がなければ100点満点で合格できるだろう。ただ実技試験の方は前回苦戦した『手前合わせ』が気になるところ。5級ライセンスは軽速歩ができなければいけない。ということは、間違った手前の軽速歩は減点対象とみられるだろう。そうなると、ここの理解をしていないといけないし、理解していてもできなければ意味がない。

(今日のレッスンで手前変換の理解を高めないと…。)

鞍上からちらりと馬の前肢をチェックする。外方脚が前に出たタイミングで立つ。

「手前合わせましょうかー!」

今日のインストラクターは、初乗馬の時に指導してくれた佐藤さんが担当。佐藤さんの声に「はい。」と返事をして二回座る。そしてまた馬の前肢をチェック。

(やっぱり違和感があるな…。次の手前変換の時に試してみるか。)

そしてその時がきた。

「じゃあ、もう一度手前変換して右手前で軽速歩進めー!」

今度は先程とはあえて逆のことをする。馬の前肢をチェックして、内方脚が前に出たところを狙って立つ。あとはリズムに合わせて『立つ・座る』の繰り返し。絵に描いたような綺麗な白い雲が浮かぶ青空の下、一歩一歩土を踏みしめるタイミングに合わせて漏れる馬の息の音がはっきり聞こえる。インストラクター・佐藤さんからの指摘が無い。

「今、手前あってますか?」

「手前あってますよー!そのままもう少し軽速歩していきましょう!」

(やっぱり逆だ。もしかして間違えて覚えたのか…?)

そのままリズミカルに軽速歩を数周続けて一度馬を休ませる。質問するならこのタイミングが丁度いい。

「軽速歩って、外方脚が前に出たときに騎手が立った状態にならないといけないんですよね?」

「そうですよー!それであってます!」

「馬の上から前肢の動き見て合わせたつもりだったんですが…なんかイメージ逆で…」

「あー!それで!そう見て合わせてしまうと手前逆になってしまう事が多いんですよー!」

どういうことだ?
目で見てタイミングを合わせると逆になることが多い?
新たな謎が生まれてキョトンとする僕に佐藤さんは続ける。

「馬の外方脚が前に出たときに立っていないといけない、というのは正解です。ただ、それを『馬の前肢を目で見て合わせる』と何で逆になりやすいのか。それは、『その情報を得た時にはもう遅い』からです!」

「『その時にはもう遅い』から…ですか?」

「はい!例えば、『今、馬の外方脚が前に来てる』とします。この時に騎手は『立った状態を完成させていなければならない』んですよ。なので、『馬の外方脚が前に来てるから今から立とう!』ではもう遅いんですよ。人間の目から脳に情報を伝えて、そこから体に『立つ』という指令を与える時には、もう馬の内方脚が前に向かって動きだしています。そうなると、結果的に『内方脚が前に出た時に立っている、という手前逆の状態』ができてましまうという訳です!」

「…なるほど。なんとなくわかってきた気がします!もし目で見て立つタイミングを合わせる時は『あえて内方脚が前に見える時』を狙って合わせてみます!」

「理想は馬の反動なんかで『今、手前あってるな・逆だな』って言うのがわかるといいんですが、軽速歩の反動では慣れた人じゃないと難しいと思いますからね!最初のうちは自分の目で見て合わせるのも良いと思います!勿論、見すぎは駄目ですよ!」

そういうことだったのか。
今回の説明で、目で見て合わせても手前が逆になる理由がすべて理解できた。ここは5級ライセンス実技試験の内容では一番気にしていたところだっただけに、この問題解決は精神的にも非常に大きい。
(今、手前あってるよね?)という曖昧な自信から(こうすれば手前が合う!)という強い自信に変わった。
その後は、手前が逆になっているという指摘を受けることなくレッスンは進んでいった。試験前最後のレッスン、明らかに成長した自分を実感して終えられるのは気持ちがいい。
軽やかなリズムに合わせて蹄から弾け飛ぶ砂が消え、今度はゆったりとしたテンポで砂埃が脚元を舞う。のっそのっそとした常歩はあまり良くないものではあるが、クールダウンとしてみればそこまで悪いものではない。
そのままいつものように施設の周りをインストラクターによる引馬で“お散歩”をし、筆記試験の講義に入る。
乗馬クラブには二週間に一回のペースで来ているので、次の騎乗まで間隔が空く。その為、乗馬クラブに来ない日の空いた時間に、自習したり、家でできるトレーニングなんかもしてきた。自習はネットで調べた過去問を解いたり、乗馬クラブから貰ったテキストの試験範囲を何度も読み、ノートに自分の字で書き写すなどをした。トレーニングの方は試行錯誤し、脚立を跨いで軽速歩の動きをイメージしたフォーム重視のスクワットをするなどの下半身強化を軸に行った。
たかが5級ライセンスにそこまですることはないだろう、と多くの人は思うだろう。しかし、元々スポーツが好きだった僕にとってはその程度のトレーニングは苦にならなかったし、なによりも『夢に挑めている』という事実が僕を突き動かしていた。
今回の講義は自習を既に済ませた内容だったこともあり、内容がすんなり頭に入ってくる。
今日の内容は『馬の手入れ』についての講義。ここも予習はしていたのだが、文字だけではイメージも着かず満足な理解ができてないポイントだ。だからこそ、目の前で実践してくれるこの講義は楽しみにしていた。
まずは『蹄の手入れ』から。馬や動物に詳しくない人でも蹄と言われればどこのことか分かる人は多いだろう。簡単に言えば足の先端の固い部分。個人的に、馬体の中で唯一作り物っぽさを感じる部分だ。
蹄は足の先端にあるだけに、地面に接する部分になる。その為、馬場の土や馬房の大鋸粉(おがこ)が馬の蹄に溜まることは日常茶飯事だ。理由は単純なもので蹄の裏にはV字の溝があり、そこに入り込んでしまうからだ。乾燥して湿気がなければさらりと落ちるので、蹄の裏に「少し付いてるかな?」という程度でおさまるが、雨などで水分を含んだ馬場で運動をした時や、蹄の裏に湿気がある状態で馬房に戻った時、大鋸粉が尿などの水分を含んでしまっている時に蹄の裏に溜まってしまったりすることもある。その溜まったゴミから蹄の病気に発展することもあるだけに、蹄を含めた『馬の手入れ』は確りと身につけておく必要がある。

さて、いよいよインストラクターによる実践だ。

「まず、馬の蹄を手入れするときは、馬の左前肢のやや後方・少しお尻側に立ちます。その時、人は馬のお尻側に体の前面が来る向きで立ちましょう!」

インストラクターの佐藤さんが説明しながらその位置に立つ。佐藤さんは説明通り、馬の尻側に体の前面を向けて立っているので、馬の左前肢付近に佐藤さんの左肩が触れるような状態になっている。

「今、僕の左肩が馬の方にありますよね?この状態で、馬の左前肢のやや後方を人の左肩で少し押してあげます。」

佐藤さんは馬体に左肩を寄り添わせ、馬体をゆっくりとした動作で押していく。押されたことで微かに馬が右に傾く。勿論、傾くとは言っても本当に微かに傾いただけなので、四本脚は全て地面に接している程度の傾きだ。

「馬って四本脚で『ビタッ!』と立ってますよね?でも、今人の力で押したことによって、四本脚にかかる体重のバランスが、右側、右脚の方に偏るんですよ。」

実際、先程馬が少し傾いたのは自分の目でも確認できた。上体が少し傾くくらいの微かな傾きでも重心はずれる。その重心がずれたことで…。

「右脚の方に重心が偏ったことで、馬が左前肢を上げやすくなるんですよ。そのタイミングで左前肢を自分の体に引き寄せる感じで手前に引いてあげると、左脚を上げてくれます。そして、左肩から手まで…腕全体使って、左前肢から蹄あたりを持ってあげると、蹄の手入れがしやすくなります。まぁ、馬によってはここまでしなくても、『蹄の手入れだ』って理解して、自然と脚を上げてくれる子もいますけどね!」

佐藤さんは簡単に馬の左前肢を持ち上げて固定すると、右手に持った『裏掘り』という道具を使って蹄の裏に詰まった土などを掻き出す。
この掻き出し方にも気をつけなければいけない部分も勿論ある。佐藤さんは解説をはさみながら裏掘りを続ける。

「裏掘りをする時は、ここ!V字のような形をした溝がありますよね?ここ『蹄叉側溝(ていさそっこう)』って言うんですけど、この溝の上から(アルファベットの“V”の字で言う上から)下に向けて裏掘りしてください!」

「分かりました!上から下に向けてですね!」

「そうですね!これを逆に、下から上に向けてやってしまうと、爪に対して逆向きで裏掘りの固い部分が当たってしまうので、馬からすると気持ち悪かったり、くすぐったいというイメージになったりして嫌がることもあります。人間で例えるなら、爪と指先の間に固いものを突っ込まれてるイメージですね!」

あぁ…イメージしやすい例えだな…。
たまに、指の爪に入った小さい物を取り除こうとして、細い物を爪と指先の間に入れて取り除いたりするけど、ちょっとくすぐったかったり、状況によっては変な痛みをかんじたりする事がある。裏掘りを逆向きでやるということは、そういう不快感を馬に感じさせるということなのだろう。相手は動物。人間みたいに言葉によるコミュニケーションができるわけではないから、馬の為に行っていることでも馬に不快感を与えて暴れられたりする可能性もあり得る。そうならないためにも、正しい手入れは確り頭に入れておかなければならない。
佐藤さんは左前肢の裏掘りを終えると、その後は右前肢、左後肢、右後肢と順番に裏掘りを進めていく。勿論、これはライセンスに備えた講義でもあるため、この手入れは全て解説付きで行われる。
裏掘りを終えると今度は馬体の丸洗いだ。何年か前からやや暑い5月、“馬の丸洗い”には丁度いい時期かもしれない。とは言え、講義中に丸洗いまでしてしまうとかなりの時間を使ってしまうため、丸洗いの仕方は説明のみで行われ、僕は休憩所で待つように指示された。
少し遅れて佐藤さんが僕の元に来た。手にはいつものレッスン等に関するアンケート用紙を持っていたが、今日はいつもより紙が多い。それを見ただけで僕はこの後の展開を察した。
乗馬ライセンス5級コースは、新規会員を増員を狙って行っている乗馬クラブが多い。日本で乗馬は、趣味やスポーツにしようとするとハードルが高い。いきなり入会しようとすると事前に調べた事だけではイメージの掴めない事も多いだろうし、『お金持ちの嗜み』というイメージも強いため入会金・会費・騎乗料を含めた費用も気になるところが多いだろう。その為、5級ライセンスコースというものを設けることで、少しでも乗馬というスポーツに触れやすい環境をつくり、それを経験した“ゲスト”に営業をしやすくする目的もある。
例えば、街中で行き交う人にチラシを配って営業するのと、乗馬クラブに直接5級ライセンスコースや体験レッスンに来た人に営業するのだと、どちらがハードル低いだろうか?それは後者だろう。勿論、知名度を上げるために街中でのチラシ配りなども大切だが、本格的な営業となると、少しでも乗馬に足を突っ込んだ人の方が仕掛けやすい。なので5級ライセンスコースは、営業のために設けているという乗馬クラブも多い。勿論、わざわざそれを口に出すことはしないだろうが。
そして今、僕はその営業の対象になっている。これは5級ライセンスコースを受講する前から下調べしていた情報に入っていたため、どこかのタイミングで営業されるだろうとは思っていた。この先の展開が読めてしまうことを敢えて言うが、この時は「5級ライセンスを取るだけ」にするつもりだった。アンケート用紙を提出した後、正式な会員になる時・なった後にかかる費用などがかかれた見積書や、会員になったらできることなどが書かれた用紙の説明が行われた。正直、説明を聞いている間に気にしていたことは一点だけだった。そのため、他の説明は適度な相槌をうっていただけなので、インストラクターの佐藤さんは、この営業に手応えを感じていなかったらしい。その営業は多分20分程度で終わったと思う。ある程度の説明は理解できたし、後は僕自身が決めることだ。

その夜、僕は外出していた。行き先は地元のスポーツバー。一年以上通っている場所だ。趣味を通して知り合った人から誘われて初めてスポーツバーに通い、そのお店の雰囲気が良かったことでスポーツバーには通うようになったのだが、そのスポーツバーに通うには公共交通機関をいくつか使わなくてはいけなかった。そこで、地元にスポーツバーが無いのかネットで探してみたところ、近場で1ヶ所見つけることができた。今、僕が居る外出先がそのスポーツバーだ。

「あっ、たける君じゃーん!いらっしゃーい!」

カウンターの向こうからマスターの声が響く。お酒が出てくるお店で定番の明るい声に迎えられるのはやはり気分がいい。僕は「おつかれっす!」っと言いながら、迷わずカウンター席の左端に座る。左利きの習性だ。
真っ暗な外とは対照的に暖かみを感じるオレンジ色の空間。8席程並んだカウンター席の他に6卓のテーブル席がL字にあり、他にはダーツも設置されている。スポーツバーということもあり、テレビも小型・大型合わせて4台程設置さていた。

「はい、カシスソーダでーす」

ビール系の酒が苦手な僕はカクテルを嗜む。1杯目に選ぶのはだいたい安定のカシスソーダだ。

「あざっす!マスターもビール行きますぅ!?」

「えっ!?いいんですか!?じゃ、頂きます!!」

これも安定の流れだ。このお店には一人で通うことも多かった。理由は、わざわざ友達を連れていかなくても、お店の人とも楽しく話せるからだ。僕がお店に到着する時間はお店が賑わいだすのには少し早い時間であることが多く、目の前のテレビに映し出されたスポーツ中継を観ながらマスターと喋ることが多かった。

「今日は何か予定あったの?」

マスターは一口飲んだビールをカウンターに置いてからトークを始める。今日は土曜日。仕事も休みだった僕と話すには定番のトークだ。野球中継が映し出されているテレビ画面から目線を切り、マスターの方に目を向ける。左手にカシスソーダの入ったグラスを持ちながら話した。

「今日は昼に馬乗ってきましたよ!前話してたコースの3日目です!」

「あー!あれまだ続いてたんだ!」

「そうですね!元々6回分レッスンがあるんですけど、1日で2回分連続レッスンができるみたいなんで、次が最後になるんですけどね!」

「へぇー!なるほどー!」

「次がライセンスの試験になるんで、それに合格できたらそれで一旦終了かな、と。」

「なるほどね!それって、ライセンスに合格したら何かあるの?」

「顔写真付きのライセンスカードみたいなのが貰えます。車の免許証みたいな感じですね!まぁ、5級なので大したことはないと思いますが…。」

「へぇー!まぁ、でも凄いよね!そもそも馬に乗れる人が少ないし!」

実際、馬に乗ったことがある人に出会ったことはない。けど、乗馬・馬術というスポーツが手軽にできて、日本で身近なスポーツだとしたらどうだろうか。そうだとしたら、僕が挑戦している5級ライセンスなんて低レベルだろう。『凄い』と言われても『凄いこと』をしてるようには思えない。これが乗馬・馬術を語るうえでの難しいところなのかもしれない。
土曜日の夜が深くなっていく。僕の以外のお客さんも増えてきて、カウンター席には常連さん達の顔が並び始める。一つ空席を挟んだ僕の隣の席に1世代くらい上の男性が座った。その男性も常連さんで、過去に何回も話したことがある山口さんという方だ。『若い頃はスポーツやってました!』と言わんばかりの恵まれた体格に、『モテてたんだろうな…』と思う若々しいルックスを持った山口さんは、自分の家庭も持っていて、僕の中ではリア充という言葉が似合いそうな人だ。そんな山口さんが僕に話しかけてきた。

「たける君、おつかれー!今日は一人?」

「おつかれっす!僕はけっこう一人でここに来ますよ!」

「えー!前、誰か連れてきてなかったっけ?ほらぁ、彼女とかはー?」

山口さんはお酒の力も入って語尾がやや伸びはじめている。声やリアクションは相変わらず大きめであるが…山口さんがシラフの時に会ったことがないから普段との違いはわからない。

「彼女いないですよー!出会いもなかなかないですからねー。」

「嘘ぉー!じゃあ、彼女とかじゃなく、遊びに行く友達は?女の子の。」

「それもいないですよ。僕の知ってる連絡先、家族とか親戚以外で女の子がいるかも怪しいのに…」

恋人が欲しい気持ちは僕もある。ただ、こういう会話も嫌いじゃないので、ヘラヘラと笑いながら山口さんとの会話が続く。お世辞なのか会話の中での適当なやりとりなのかわからないが、僕は何故か彼女がいないことを驚かれることが多い。山口さんが『嘘ぉー!』とリアクションした通り、信じない人が多いのだ。

(そんなモテそうな見た目も持ってないし、会話とかも上手くないんだけどなぁ…)

最近よく言われはじめているのが、僕は“とある歌手”に似ているらしい。正直、自分ではわからない。「似てるよね!」って言われて(うわぁ~、この人に似てるのかぁ…)とか思うような見た目をしてるわけでもないので、“とある歌手”に似てると言われてもショックだから認めていないという訳でもない。ただ、その人に似てると言われることが意外なだけ。まぁ、話が遠回りした気がするが、簡単に言えば『自分はモテそうな見た目をしてないよ』ってことだ。

「えっ、たける君は結婚とかしたいの?」

「そうですね~、できれば20代前半とかにしたいなっ!て願望はありますけど…」

「あっ、ホントぉ!珍しいね!そんな早めに結婚したいって思うなんて!」

「ああ…。たしかに色んな人に言われますね!『もっと色々楽しんでから結婚した方が良くない?』って。」

「あー!それね!でも、それは実際あるよ!」

山口さんとの会話が続く。行きつけのスポーツバーで知り合ったお客さん同士の恋愛・結婚に関する会話。この会話が僕の背中を押すことになるとは思ってもいなかった。

初めての乗馬から約1ヶ月。この日も僕は乗馬クラブにいた。しかし今日は馬に乗る予定はない。この日、乗馬クラブでは、年に2回開催される『クラブ内競技会』が行われており、今日はレッスンの予約が取れなかったのだ。この『クラブ内競技会』は無料で観ることができ、インストラクターの佐藤さんからも「もしよかったら、観てみて下さい!」との話があったので午前中だけ見学に来た。
綺麗な青空に浮かぶくっきりとした白い雲。何もない青空よりもこの空の方が僕は好きだ。そしてその下では体にフィットした白いズボンを履き、黒いスーツの様な服を着た騎手が馬を操る。この白いズボンは、白キュロと言われることが多く、馬術の競技会で使われる試合用キュロットで、黒いスーツの様な服はジャケットと言われる服で、黒やネイビーが基本だ。世界的にみれば赤いジャケットを着ている選手もいるが、趣味で乗馬してる人ではまず見れないだろう。いつもはカジュアルな乗馬ウェアを着ている人しかいないこの乗馬クラブも、今日だけはビシッとした格好をしている人が多く見える。出番が遠い人はジャケットを着ずに上下白で揃ったウェアで他の騎手の演技を観たり、馬の手入れの手伝いをしたりなどしていた。

(みんな、かっこいいなぁ…)

元々細身で筋肉もたいしたことない僕としては、体にフィットする乗馬のウェアが苦手だった。これを言うと嫌味と言われるが、元々細身の人も細身が故に悩むことだってある。僕は過去に「宇宙人みたい」と言われた脚の細さから、それを隠すための少しダボついたズボンを好んで履くことが多かった。そのため、体にフィットしたウェアを着る乗馬には、服装面で少し気がひける部分もある。しかし、そんな感情を持つ僕からでも競技用ウェアに身を包む彼らは憧れの存在になっていた。
馬場で演技をしていた馬が中央やや手前で停止する。馬の停止から一呼吸置いて騎手が右腕を水平方向へ伸ばした。これが馬術の“敬礼”。剣道や柔道のように『礼に始まり礼に終わる』と言われるスポーツがある。馬術もそれと同じように、『敬礼に始まり敬礼に終わる』と言ったところだ。騎手が敬礼をし、少し表情を緩ませて馬の首を軽く叩く。レース後の競馬でもよく見る光景で、馬を褒めたりする時によく使われる動作だ。

(あの人は満足の行く演技ができたのかな?)

つい最近馬に乗ったばかりの僕には、馬場馬術のことはサッパリわからない。競技用ウェアを着て、馬場を縦横無尽に駈ける彼らの姿はどれも美しく見えてしまう。ここら辺がわかるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
拍手の中、演技をしていた馬が馬場を退場し、次の出番を待っていた馬が入場する。そして中央で騎手は敬礼をし、また演技が始まる。上手い人の演技はどういうものなのか、何をすれば高得点なのか、減点なのか、それすらもわからない状態だが、僕の視線は騎手と馬に向けられる。
ゴールデンウィークを終えて少し日を数えた日曜日。空の青、馬場の砂色、馬場の外にある茂みの緑、この他の全ての色を置き去りにして1人の騎手と1頭の馬が鮮明に映る。小さい頃、助手席から見た『憧れ』が、競技中の彼らの姿に変わっていく。

(僕はあそこに行けるだろうか…)

競技者としてあそこに入るにはどれくらいの練習が必要なんだろうか、どれくらいの時間が必要なのだろうか、そして、どれくらいの“お金”が必要なのだろうか。小さい頃、母が言っていた“お金持ちのスポーツ”で貧乏人が競技者を目指すことができるのか、否、目指すことはできる、だが、そこに辿り着く前に経済的な問題で挫折しているかもしれない。

「あそこに競技者として立つには、ただ乗るだけじゃ駄目だな。」

一つの答えに辿り着いた僕は、その人の演技を観終えると、乗馬クラブを立ち去った。

「それじゃ、ゆっくり歩いて行きましょう!」

競技会から一週間が経った。あの日と同じで今日も綺麗な空をしている。雲量は3くらいだろうか。晴れ空が続いた春。馬場の土は乾燥しており、馬が1歩歩くごとに土埃が舞う。乗馬に限らず、外で何かをするのに絶好の日和だ。
インストラクターの指示があるまで歩き続ける1人と1頭。時々、手前変換は行うものの常歩は変わらない。ウォーミングアップはじっくり行われた。

「それじゃ軽速歩入れましょう!軽速歩進めー!」

来た。大事なのはここだ。今日の相方はノエル。二日目のレッスンで乗った馬になる。この子は初日に乗ったブラックダイヤモンドより体の動きが小さく、常歩中はどちら側のお腹が凹んでいるのかも分かりにくい。ただ、軽速歩はブラックダイヤモンドよりも軽快で、尚且つ、上下の反動が小さく騎手の体が弾き飛ばされにくい為、『立つ・座る』は比較的しやすい。合図に対する反応も良いので僕の様な初心者に合った馬だろう。
インストラクターの指示に合わせて合図を出す。ノエルは合図に合わせて歩様を変えた。1歩1歩確りと踏みしめてきた歩みからテンポの上がった細かい歩みになり、先程より低い土埃が頻度を上げて舞う。

(反応は良い。ただもう少し元気よく走って欲しいかな…。)

また合図を入れる。今度は少し強めに。ノエルの動きがやや活発になり、目線も少し上に上がった気がする。

(ごめんよ。今日は最後にライセンスの試験なんだ。だから前より無茶させちゃうかもだけど、導いてくれよ…!)

乗馬ライセンス5級コースの最終日。インストラクターの話によると、まずはウォーミングアップ、その後は軽くレッスン、そして実技試験をして、最後に筆記試験へと移る流れらしい。
今まで実技試験がある資格なんて自動車免許くらいしか取ってない。イメージとしては自動車免許の“卒検”と同じイメージでいいんだろうか。

(あぁ…集中しないといけないのに、色々頭に湧いてくるなぁ…。)

ノエルはそれなりに順調。欲を言えばやっぱりもう少し元気がほしい。でも、合図には確り反応してるし、後は僕次第だろう。最終日のインストラクターは佐藤さん。その佐藤さんの口数が今日は少し少ない気がするが、表情は前回とそんなに変わらない気もする。色々なことを考えながら、淡々とレッスンは進んでいく。さらに少し時間が経ち、佐藤さんが馬場の入口付近に移動した。そして…

「普通に行けそうですね。そろそろ試験始めましょうか!」

遂に来た。試験の時間だ。今の調子で行ければ大丈夫だろう。佐藤さんの今の声質、表情、口数の少なさから何となく察したことがある。
佐藤さんの口数少なかった理由。それは恐らく…。

(『この人は普通に合格するだろう』だから、今更言うこともなく、口数が自然と少なくなったんだろうな…)

その考えが正解なのかは本人に聞かないとわからないが、その勝手なイメージのおかけで僕はリラックスできていた。そうなると、後は“普通に乗る”だけだ。
ほぼ二週間に1回のペースで乗馬をしに来て今日は四日目。先週がクラブ内競技会の為馬に乗れず、今回だけ三週間と間が空いてしまったが、今は思ったよりも不安がない。

「それじゃ、行きますよー!その手前のまま軽速歩進めー!」

僕は小さく開いた両足を、振り子のようにして2回閉じる。馬の腹に踵が軽く当たると合図に反応して歩様が変わる。―タッ、タッ、タッ、タッ…―と、まだまだ元気が足りないイメージはあるがリズミカルな足取り。斜対歩と言われる斜めの脚が対になって動く(例えば右前肢と左後肢が同時に前に進み、その後、左前肢と右後肢が同時に前に進む)歩様の特徴だ。

(合図の反応は良し。)

軽速歩が出たことで緊張が増す。乗馬ライセンス5級は合格率がかなり高いが、この試験で一番厄介だと思ったポイントが軽速歩の中に存在する。それが“手前合わせ”だ。手前を合わせるコツは覚えている。確り頭に入っている。『目で確認してから立ち始めるでは遅れる。だから敢えて逆のタイミングで立ち始める。』ということ。理解していても心を不安が侵しはじめる。

(試験で敢えて逆をする勇気…。)

目線が下がる。現在、馬の手前は右手前。外方脚(左前肢)が前に出ている時に“立っている状態”でなければならない。ので…。

(右前肢が前に出た!今だ!)

下からの反動に弾かれるように膝を伸ばす。やや猫背ではあるが真っ直ぐに伸びた僕の体は、外方脚が前に出た時に完成した。そしてすぐに座り、また立つを繰り返す。馬の動きが遅くなったと思ったら、座ったタイミングで脚を当てて気を緩ませない。軽速歩中に入れる脚は、日常生活ではまず使わないような動作になる為、無理矢理だした合図は、馬の腹に踵が当たる合図になってしまったが、今の僕の実力ではこれが精一杯だ。

「それじゃ手前を変えて行きまーす!軽速歩のまま手前を変えー!」

右手綱を引く力を今までより強めにし、馬の頭をより内側に向ける。これで僕から馬の左目は完全に見えない位置に来た。さらに、自分の腰を右に捻り、馬がより小さく右回りの円運動をするように両足で壁を作る。そしたらすぐに手前を変える動きに移る。今までは『立つ・座る』を繰り返していたが、ここで『座る・座る』のリズムを入れ、左手前のリズムにし、両足の壁と左手綱のコントロールで左回りの円運動へ。上空から見た時、今まで描いていた円形の足跡の中に、波形の足跡が描かれた。
左手前の軽速歩に入ると僕は再び目線を落とす。手前合わせのチェックだ。何度も繰り返しになるが、騎手の目線からだと『内方脚(左手前だと左前肢)が前に出ているとき時に立ち始めると、外方脚が前に出た時に立つ姿勢が完成する』ため、そのタイミングで『立つ・座る』が出来ているかのチェックだ。今のところ問題なくできている。後はこれを継続し、試験を終えるまで何事もなく乗り続けること。それが出来れば実技試験は恐らく合格だろう。
馬の動き、スピードに気をつけながらも、佐藤さんの声にも集中する。外で馬に乗っていると、意外と言葉がはっきり聞こえない時がある。佐藤さんは大きめの声で指示を出すので聞き取りやすいものの、周りには埒と茂みくらいしかないので、音は広がってしまうし、風の音が少し邪魔をしたりもする。おまけに今はレッスンではなく試験だ。軽速歩が始まってからは、試験が始まったばかりの時の精神状態とは違う。ここまで順調に進んでいる気がしているのに、ヒューマンエラーなんてことは避けたい。
佐藤さんは指示意外は何も言わず僕らを見ている。今、佐藤さんの目に僕らはどう映っているんだろうか。物凄く気になるが気を向けるべき相手はそこじゃない。春にしては強い日差し、埒の外にある茂み、そこら辺を歩く猫、空いたスペースでレッスンしている別の馬と騎手…馬に乗る以上、気にしなくてはいけないものは色々あるが、今の僕が気を向けるべき相手は、僕の足元にいるノエルだ。ノエルは本当によく合図に反応してくれている。『元気良く出せてない』のは僕の未熟さだろう。

「それじゃ、歩いて行きまーす!常歩進めー!」

あっ、終わる。-僕はできるだけ丁寧に軽速歩の動きを止める。それでも、ガクンとスピードを落とし、常歩を始めたノエルの様子から見ると丁寧な移行は出来てなかったのだろう。

(難しい…。結果的に常歩が出てはいるけど…。)

小さい頃に車の助手席から見た憧れや、先週のクラブ内競技会で見た憧れは、こんなガクついた移行ではなかっただろう。
-あそこの領域に、僕は辿り着けるのだろうか。-
そんな事を思いながらも試験は終了。実技試験の合格を伝えられ、馬を洗い場に戻す。馬の手入れは代わりの方がしてくれるとのことで、僕は筆記試験へと案内された。休憩所の奥にある小さなスペースのテーブルに座り待っていると、事務室から出てきた佐藤さんが試験用紙を持ってきた。

「筆記試験は選択式になってます。5級なら合格率も高いので、普通に勉強してればまず受かります!」

「わかりました。」

「今までで筆記落ちた人、1人くらいしか見てないので。選択式なので、解答欄のズレだけはよく確認することをオススメします!」

「わかりました!ありがとうございます!」

それでは試験が終わったらまた声をかけて下さい-と言い、佐藤さんは事務室へ戻る。
問題はもう何年も変わっていないと言われていたが本当にそうらしい。どんな感じで出題されているのか気になった僕は、ネットを使いダメ元で『乗馬ライセンス5級 過去問』と調べたことがあった。その時に見たものと全部一緒だったと思う。
乗馬ライセンス5級筆記試験のポイントは、馬体の名称、馬の手入れ、乗馬の取り扱い、馬の性格と本質になってくる。馬体の名称は主に前肢に関することを覚えておけば何とかなる。馬の手入れは蹄の手入れ方法や、手入れによる効果などで、講義で実演を確り見ていれば文字で出題されてもイメージしやすいだろう。後、馬の取り扱いと馬の性格と本質の部分だが、ここは馬の性格と本質をマークして勉強すればいいと思う。とは言っても、ここら辺は当たり前のようなことが出題される。初めて過去問を見たときは当たり前過ぎて困惑した程の問題だった。
解答時間は大してかからなかった。一番時間を使ったのは確認の時間。やはり選択式の問題で変な凡ミスは勿体ない。3回くらいは全解答の確認をした。

(ふぅ…。流石にこれだけ確認すれば…)

事務室の扉が開く。僕が確認に時間をかなりかけたからか、たまたま別の仕事が終わったからなのか佐藤さんが出てきた。

「もう、大丈夫そうですか?」

「はい!これだけ確認すれば大丈夫だと思います!」

「わかりました!それじゃ、採点してきますねー!」

そう言って佐藤さんは再び事務室へと消える。これで後は願うだけ。やれることはやった。試験が終わったという安心感と凡ミスしてないかの緊張感が混じり合う中、気持ちが落ち着くよりも早く佐藤さんが戻ってくる。

「森下さん、おめでとうございます!合格です!満点でした!」

合格率の高い5級ライセンス。だとしても、これで何もない自分から“1つ”でも夢を叶えた自分になれた。凄く浅い夢を、目標を達成した瞬間だ。嬉しさは今は無い、強い安心感がある。今はそれでいい。嬉しさは落ち着いた時に来ればいい。
-でも、本当の夢は“ここから”なんだ-

「ちなみになんですけど、前回のレッスンの後の話なんですが…どうですか?」

対面に座った佐藤さんが切り出した。僕の答えはこの瞬間決まった。

「入会します!」

5級ライセンスコースが勧誘の第1歩に利用されていることは既に知ってる。だからこそ、最初は凄く迷っていた。でも、スポーツバーでの山口さんとの会話がこの決断の後押しをした。

(あんな酒の入った会話が、こんな勇気になるとは…)


「えっ、たける君は結婚とかしたいの?」

「そうですね~、できれば20代前半とかにしたいなっ!て願望はありますけど…」

「あっ、ホントぉ!珍しいね!そんな早めに結婚したいって思うなんて!」

「ああ…。たしかに色んな人に言われますね!『もっと色々楽しんでから結婚した方が良くない?』って。」

「あー!それね!でも、それは実際あるよ!」

山口さんが、右手に持ったビールを少し飲んで更に続ける。

「皆分かってることだと思うけど、結婚したら『嫁のため、子供がいたら子供のため』って1人だった時より我慢が必要な時が必ず来るんだよ。」

「家族サービスとか、色々ありますからねー!」

「そうそう!それで家族が喜んだり楽しんでる姿を見れたらそれはそれで好きな時間になる。けれど、それが上手く家族の心に刺さらなかった時、『あぁ、嫁や子供が求めてたのはこれじゃなかったかぁ…』って悩んだりすることもある。」

山口さんがビールのグラスに一旦目を落とし、少し間を置いて更に続けた。

「でも、『まっ、若い頃に色々遊んで来たし、家族のことが落ち着くまでは、家族のために頑張ろう!』って思える。けど、若い頃から先のことだけ見すぎて、色々我慢して貯金とかして、いざ『家族ができました!』って時にまた夫・親としての責任がくる。そこで我慢が必要になった時、『俺の人生、我慢ばっかじゃん…』ってなるかもしれない。」

「うーん、それは一理ありますねぇ…。」

「勿論、将来の為に貯金とかしておくのも大事だと思う。けど、それで我慢我慢の日常を送るくらいなら、少しはやりたいこと、今のうちにやっててもいいんじゃない?今、たける君は彼女もいないフリーなんでしょ?それなら自分のために遊んでみたら?何かを楽しんでる人は輝いて見えるっていうし、そこからたける君に魅力に気づく人も出来るかもよ!」

入会手続きは進んだ。今日は5月の中旬ということもあり、「月の中途半端なタイミングでの入会だから」ということで、乗馬クラブの社長は1ヶ月分の会費をサービスしてくれた。これからは正式な会員としてレッスンを受けにくることになるため、必要な物の説明なども受ける。今まで貸出用の物を使わせてもらっていたヘルメットやブーツは勿論、貸出ができないキュロットなんかも必要になってくる。入会金だけで10万円、それと必要な物を合わせると15万円近い出費だ。

(入会金はこの1回だけ。あと毎月の会費と騎乗料は今の生活的になんとでもなる。貯金もできるくらいだ。)

僕の人生で最大の決断をした日。生活に必要な物ではなく、習い事に対してこの額の投資は初めてだ。

(親に話したらまたグダグダ言われそうだ。落ち着くまで黙っていよう。)

二十歳を越えてるからこそ、こういう決断は本人の意思次第であると思うが、僕の親は『自分の考え=絶対正解』と思っていそうなタイプなので面倒なのだ。調べもしない『井の中の蛙』のクセに批判だけは一丁前。大きな決断をする時は、こんな感じで親の影が毎回の様に邪魔をする。

(最初で最後の夢への決断くらい、スッキリした気持ちで終わらせてくれよ、マジで…。)

複雑な気持ちを強い意志で捩じ伏せ、入会手続きを終わらせる。ヘルメットやブーツは、乗馬クラブで取り扱っている比較的コスパの良い物を紹介してもらえたので、そこら辺はすぐに購入。キュロットやチャップスは、ネットショッピングでポチり。鞍や頭絡などは乗馬クラブが貸し出しているので、これで最低限の装備は揃えることができた。
こうして、21歳の春、終活という名の思い出作りが幕を開けることになる。

-第1部 完-

























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