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エゴについてジョシィ・ヴァリチェリーが教えてくれたシンプルなこと

ヨガのクラスを普段行っていると、「エゴとは何なのか?」ということについてご質問を受けることが多く、実際に僕もそれについて悩んだことがありました。それをシンプルな体験で教えてくれた先生との個人的なエピソードがあるので、それを共有したいと思います。

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2009年にヨガジャヤでティーチャートレーニングを終えた僕は、翌年からヨガジャヤで講師として教え始めることになった。

その時の僕は、

「こんな僕がヨガを教えていいんだろうか?」

と思っていた。

そんな時に、インドのケララで生まれ育ち日本在住だったジョシィ・ヴァリチェリーという先生に出会った。

彼と最初に出会ったのはヨガジャヤで開催されたワークショップ。

ジョシィは登場するなり、

「今から外に出て、そこの駐車場で太陽礼拝をするぞ」

と、予測不能なクラスをする人でとてもワクワクした。

彼は、僕が一番密接に学んだ先生であるヨガジャヤのパトリック・オアンシアの先生の一人でもあったので、

「ジョシイはどこかで定期的に教えたりしているの?」

と、パトに尋ねたら、

「経堂南地区会館で定期的に教えているよ」

と教えてくれた。

「10年くらい前のジョシィのクラスはヨガマットを持っていくと怒られたりしたよ。炎のような人だったよ」

など、ジョシィのクラスに過去に参加した、当時の僕の先生たちの何人かから聞いていたので、多少びびりながら、僕もマットを持たずに彼のクラスに参加しに行ってみた。

ジョシィのクラスは、「これからクラスを始めます」といったガイドはなく、突然マントラを唱え始め、始まり、その時その時で何を練習するかわからないから最初はそれに戸惑ったけど、噂で聞いていたような怖い感じはなかった。

何度か参加するうち、僕しか生徒が来ていない日があった。

「ジョシィと1対1のクラスかぁ!どうなっちゃうんだろう」

と、なぜかそのときの僕はとても緊張していた。

部屋に入り座って待っていると、ジョシィがやってきて僕らから数メートル離れた正面にあたる場所に座った。

座って僕は彼の目を見る。
そして彼も僕の目を見る。

二人ともお互いへの視線を外さず黙って座り続ける状態が恐らく20分くらいが経過。

すると、

「今日お前は何をしにここに来たんだ?」

ジョシィが言った。

(ヨガの練習をしに来たと思うけど、う〜ん、確かに僕は何をしにここに来たんだろう?)

となぜか考えてしまい、すぐに言葉にして口に出すことができず、15分くらい経過し、

「う〜んと、これからヨガをYogaJayaで教えることになったのですが、僕はまだとてもエゴを沢山持っていると思うのですが、そんな僕がヨガを教えてもいいんですか?」

彼に僕はそう答えていた。

お互いへの視線を外さず黙って座り続ける状態がまた続き、その間、僕は心臓の鼓動の音が大きく聞こえていた。

「じゃあ、そのエゴってやつを今ここで見せてみて」

ジョシィにそう言われ、僕はまた黙って考えこんだ。

(エゴを見せるってどうやるんだろう?)

しばらく考え込んだ後、

「すいません、わかりません。エゴの見せ方がわかりません。」

そう僕は答えた。

「そうなんだよ。お前は元々エゴなんて持ってないんだよ。そう思ったこと、それ自体がエゴなんだよ。だから、自分がエゴを沢山持ってる人間だなんて思わなくていいんだよ。それはエゴという言葉に囚われている。勝手に作り上げたもの。それだと自分自身がゼロになってしまう。いいんだよ。ゼロにならなくて。自分というものがあってもいいんだよ。エゴを見せてと言った時、君は何もしなかったじゃないか。」

僕はそう言われハッとし、

(なるほど!そっかぁ。確かに。)

と、それを理解した感覚や、実際には僕は涙を流していなかったけど、喜びの涙みたいなものが流れているような感覚があった。

そしてまた、お互いへの視線を外さず黙って座り続ける状態になったあと、

「ヨガとは愛だ」

と、ジョシィは一言そう言った。

(ヨガとは愛??)

その時の僕にはその意味がさっぱりわからなかった。

「自分を愛すること。自分以外を愛すること。自分を愛してあげられなかったら自分以外を愛することはできない。なぜなら、自分以外の生命の中にも自分はいるだから。お前には自信が必要だ。今それが見える。自分自身に光を照らして暗闇から抜け出そう。」

この話をしている時、表情は全く同じなんだけどなぜかジョシィの目から涙が流れ始めていた。それはさっき言った僕の涙に見えた。ジョシィは鏡になっていたのだ。

「あなたは自分が嫌いと思っている人がいる。だから相手もあなたを嫌いになる。自分が愛しているものを他の人にも与えてあげればいい。自分がいらないものを他人に与えるのではなくて、自分が愛するものを。それがヨガを教えることだったり、服を作ることだったり、蝋燭を作ることだったり、野菜を作ることだったり、何でもいい。同じこと。今は、ヨガというものが何か表面的なもので流行しているけれどその流行が終わったら、いわゆるヨガのポーズや表面的なものだけを教えている先生はどうなる?皿洗いもできなくなるんじゃないか?蝋燭を作る会社にいるというのは君にとって、いいことじゃないか?」

「毎秒、毎秒、一瞬も無駄な時間なんてない。同じ時なんてない。その瞬間瞬間が現実。」

「自分のヨガクラスに誰かが受けにきてくれてもくれなくても、何も変わらない。同じ瞬間、同じ時なんてないんだから。ただただ、自分の愛を表現するだけ。その愛は必ず繋がっている。」

ジョシィの言葉を耳にしていると、ジョシィの境界線はなくなって光に包まれていた。Alex Greyの絵みたいに。

そして、僕とジョシィの境界線もなくなっていった。

すると、ジョシィの涙もいつの間にか止まっていて、笑顔になっていて、会話をし始めて、いつの間にかクラスは終わっていて

「さ、帰ろう〜」

と言われ、その後、二人で自転車を漕いで話しながら帰った。

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ヨガや瞑想の練習、哲学を勉強すればするほど、言葉の迷路に入っていきがちになります。僕はそういう経験が多々あるから、今、生徒さんと向き合っていても、その気持ちはよくわかります。

例えば「サマーディとは何?」とか考えちゃいますよね。でも言葉に囚われすぎて考えれば考えるほどわからなくなります。なぜなら今度は「サマーディとは何?と考えている状態」を生み出してくからです。

そもそも「サマーディ」については言葉では表現できない状態、感覚のことを表している言葉だったります。しかしヨガでは、言葉では表現できないその状態、感覚のことを、どこまでも言葉で説明しようとするという一見矛盾めいた性質があります。ま、それはヨガだけではないのですが。

だから、どうか言葉の迷路に迷い込んで苦しくならないでくださいね。

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