見出し画像

854/1096【シンプル超訳】””あるがままの自分で生きる””とは

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で854日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

854日目、この毎日投稿で、わたしはマラソンをしているのだと思う。完走が目的だけれど、完走できずともそのプロセスには意味があると思う。

マラソンは、大変であることと、ゴールがあることで成り立っている。大変でなければ意味がなくなってしまう。マラソンは大変だからやるのだ。大変だからこそ、挑戦だと言える。

地球人になにか超人的な体力がついて、われわれがどんなスピードで何キロ走ろうとも疲れない身体を得たとしたら、この世界からマラソンは消えるのだろう…

大変な日があるからこそ、完遂を目指すのだろうと思う。こう考えると、「大変でいい」と思える。大変でいいんだよ、って優しいな。

生きることも、大変でいい。
ちっとも、おかしくないのだと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は、あるがままの自分で生きるという感覚について、また書いてみようと思います。

『あるがままの自分で生きる』ということを、『あるがままの自分を認めたり許したり受け入れたり好きになる』ということだと考えなくていい、ということについて。そう、そんなこと、しなくていいのです。

『あるがままの自分で生きる』というのは、本当に文字通り額面通り『あるがまま』の自分で生きるということ。つまりは、今の自分が自分について受け入れられないところがあったり、許せないところがあったり、認められないところがあったり、好きじゃないところがある自分だとしても、そのままで生きる。ということです。

簡潔に表しそうとしてみると、『自分がどんな状態でも、それを自分として生きる』ということ。そのままの自分に諦める。そのままの自分に覚悟を持つ。今このときには、この今の自分以外の自分がいないと知る。ということですね。だって、いないのだもの。以上。という、超絶シンプルなことなのです。

極端に喩えてみると、例えばあなたの目の前に神さまが現れて、こう言ったとします。

「よく聴け我が子よ。お主は自分を受け入れよう、受け入れられるような自分に変わろう、として苦しんでおるな。けれどもお主に真実を伝えよう。お主は変わらないんじゃ。今のお主のまま生き、今のお主のまま死ぬんじゃよ。性格?ああ、変わらんぞ。お主は勝手に変化するのじゃ。そう創ってある。いいか、わしが完璧に創ったものじゃ。だから心配はいらぬぞ。別のお主にはなれぬ。お主がお主を変えて受け入れるための、いかなる努力も無駄じゃ。もう諦めて好きに生きるが良いぞ」

と言ったとします。あなたはどう思いますか。もう、じゃあ仕方がないな。この自分で生きよう。と思うことでしょう。

わたしは目の前に現れた神さまと会話したことはありませんが、神さまを信じています。神さまがわたしをこんなふうに創ったのだから、それでいいのでしょう。という超能天気でいるのです。わたしは自分の変化を楽しみながら、今の自分を味わって生きています。

だって、いきなり自分の目の前にドッペルゲンガー的な別の自分がいきなり現れて、わたしはあなたの欠点を克服したあなたです。その自分を捨てて、わたしになりますか?と言ってくることはないからです。
かつ、そんなことを言われても逃げます。その自分になったとき、わたしは自分を自分だと思えるのでしょうか。

わたしは、掃除を忘れがちです。
移動が苦手です。
すぐに道に迷います。
ギリギリまで攻めて失敗しがちです。
他者の立場を考えるのを忘れがちです。
他者の存在自体を忘れがちです。
うっかりミスが多すぎて引くレベルです。
嫌なことができないがために社会性が著しく低いです。
過集中が起こるため火の元や自転車の運転が危険です。
どこでも眠るためひとりで出歩くのが危険です。
どこかにお勤めをしてお仕事をすることができません。

ダメなところを書いていたのですが、びっくりするくらい書き終わらないので一旦やめました。こんな自分です。ひどいリストです。こんな人になったら、多くの人が悩まれることでございましょう。

でもわたしという人間は、こうした人物なのです。これが仕様です。なので、この人物として一生懸命に生きていくしかないのですよね。

自分を許せようと許せまいと、
受け入れようと受け入れまいと、
好こうが嫌おうが、

どっちにしろわたしはこの人物なのです。いかんせんこれです。そう考えると、許すも許さないも受け入れるも受け入れないもない、となりますよね。ないもんはない。

例えば無人島に漂着したときに、無人島なんて嫌だ!ここが都会じゃないのはなんでなの!と言っていても仕方がありません。今は無人島にいます。都会でないということに悩んでいても無駄中の無駄です。

とりあえず今は無人島で頑張るしかない。無人島にいることを、心で受け入れようとも受け入れまいとも、それとは関係なくとりあえず無人島で頑張るしかない。それしか道がありません。それがイコール、””都会に行くことを諦める””ということにはなりませんよね。まず一旦無人島で生き延び、方法を探るしかありません。普通に。

そこで、「今俺達は無人島にいるんだ。まずはここで生き延びる術を探そう」と言った人に、「アタシは嫌よ!それじゃあんた、無人島が好きってこと?!生涯無人島で生きることを受け入れたってこと?!わたしは嫌なの!都会がいいの!今すぐここを都会にすれば受け入れるわよ!!」と言っていても仕方がないのです。と言いますか、アホでしょう。別に無人島が好きなのではなくて、一生ここで生きようと受け入れたわけではなくて、たった今このとき、他に一切の選択肢がないのです。

もちろん、意識が本当に都会に行くことを設定しきれるのなら、わたしたちは本当に肉体ごとテレポーテーションするでしょう。けれどもそれをする能力を開くには、この一生では足りないかも知れません。また、その人の存在が無人島に居ることを完全に否定しきれるのなら、別の場所に瞬間移動することだってありえます。けれども、嫌だ嫌だと泣いているようではそれはまず起こりません。

だから、わたしは上記のようにダメなところが多いのですが、しかしまずは一旦今の自分で生きる術を見つけ、今のあるがままの自分で生きるしかありません。そこから頑張る。そこから希望を見る。そこから探る。今の自分という環境を使って、食料を得て、橋を渡し、筏をつくり、住まいを得て、楽しみを見つけ、ここにとどまるもよし、ここから出る方法を考えるもよし。それしかないですよね。スピ的に考えてどうのこうのではなくて、ふっっっっつうううーーーに、まっとうに考えて。

無人島は嫌!!無人島を都会に変えてくれたら無人島を受け入れるもん!!じゃねえ。いい加減目を覚ませと言われてしまいます。それと同じことだと思うんです。今の自分は受け入れられない。なぜなら嫌だから!変えられたら受け入れるもん!じゃなくて、どうでもいいから今の自分からやっていくのです。

だから、「自分が嫌なので今の自分が受け入れられなくて、それが辛いです」といつまでも言っている人は、一種の甘えがその人を邪魔しているような状態だと思うんです。嫌でも、それしかないじゃん。どうしても、それしかないじゃん。

無人島にいることを呪っていてもいい。
無人島の環境を厳しいと思っていてもいい。
好きじゃなくたって、受け入れていなくたっていい。
そこが、あなたのいるところ。
今はまずそこを見て、そこを知って、そこで生きる。

それと同じことだと思うんです。

自分であることを呪ってもいい。
自分の特徴を厳しいと思っていてもいい。
好きじゃなくたって、受け入れていなくたっていい。
それが、あなたという人。
今はまずその自分を見て、知って、その自分で生きる。
その、あるがままの自分で。

他に、やりようがありますか?ってことなんです。

それを、あるがまま生きるというのだと思います。
スピリチュアルな話でもなく、とてもとてもまっとうなまっすぐなこと。なんのひねりもないこと。そしてまた、これぞスピリチュアルな生き方だとも思います。

あるがままの自分を受け入れずにいれば、あるがままの自分ではない状態で生きられるのでしょうか。いいえ、違いますよね。その<あるがままの自分を受け入れていないあなた>が、今のあるがままのあなたです。

わたしたちは、いつだって、あるがままの自分を生きています。
つまり、『あるがままの自分で生きる』ことしかできません。あるがままの自分を生きていない、という人は、ではどんな自分を生きているのでしょうか。あるがままの自分ではない自分で生きるのは不可能なのです。

たとえば、「自分は本当は嫌だと思っているのに、嫌だと言えなかった」というようなときに、あるがままの自分を出せなかった。と表現する人がいますが、嫌だと言えなかった自分こそが、あるがままの自分です。嫌だと言えなかった自分を、ただのエラーだと思わないで。そこから生きればいいのです、それでいいのです。

弱気な自分。それで生きる。それを楽しんでいく。弱気を謳歌する。弱気バンザイ。なんなら、弱気全開になってみる。好きなだけ、遠慮なく、弱気。弱気の翼で空を飛ぶ。弱気を極めていこうとする。それでいいのです。

するとね、嘘のように、””弱気に飽きる””んです。そこで、””弱気””を使って遊ぶ時代があなたから過ぎ去って、次の遊びがやってきます。そうしたら、またそれで遊ぶ。全開で行く。謳歌していく。極めてみようとしてもいい。

無人島に、金属がなくて木しかなかったら、木を存分に使えばいい。
自分に、強気がなくて弱気しかなかったら、弱気を存分に使えばいい。
それしかないんだから、それを使うのです。

今あるものを使い倒す。あるがままの自分を使うんですね。自力というのは、出し惜しんでいないでさっさと使っちゃうんです。

木しかないから、木でシャベルを作って、木で土を掘ってみる。するとね、木だけを使う時代が終わって、土の中に金属を発見します。すると、今度は金属であれこれやってみる時代が来ます。ステージが変わる、現実がシフトする、と表現されるのはこのことなんです。

あなたが弱気を嘆いている間は、弱気を使えていません。弱気の面白さやありがたみをわかっていないときは、弱気をいっぱいに使ってみたあとに出てくるものを、まだ知らないのですね。
わたしにも、そんなところがまだまだいっぱいあります。

『あるがままの自分で生きる』とは、自分には今の自分しかいないことを知って、その自分を使って生きることを覚悟すること。それ以外はないのだから、それを使い倒そうとすること。あなたは直すべき恥ずべき存在なのではなくて、もっとそのままで堂々と遊んでいい存在です。あなたのいかなる特徴も欠点なのではありません。そのままで遊び道具なのです。

というわけで今日は、『あるがままの自分で生きる』ということについて、自分を好きになろうというふわふわした不毛なチャレンジのことではなくて、「今の自分でやっていく。他になにがあるっていうの?」という、まっとうでロジカルな、等身大の覚悟でしかないですよ、という感覚のシェアでございました。うおお…珍しく辛口ぎみになってしまいました。楽しめるお方がいてくださいますように!!

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)