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849/1096 迷いを愛して見えるもの

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で849日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

849日目。このところまたもや、やりたいことが24時間ではやりきれない状態に陥っている。あれも、これも…!!と思うとついつい前のめりに…

でももうさすがに、自分のこの症状:やりたいことがありすぎる、手当たりしだいにやり始めて過集中を起こす、という特徴を持って生きることに慣れてきた。わたしはこういう人なのだから、これに対処して生きればいいと思う。自分を変えようとは思わない。変えようだなんて壇珠さんにも神さまにも失礼だと思うし、自分の手のかかるところに愛情を持って対処しながら生きるのは楽しいのだ。

毎日投稿もそうで、毎日三年書いてみたいと言うから一生懸命に手間暇をかけているのだけれど、これは自分への愛情だと思う。わたしは自分に感謝している。明日で850日。自分のわがままな思いつきに付き合って、こんなに書いてきてくれてありがたいと思う。わたしは壇珠さんの寿命のうち三年という大きなパーツをブログに注いでもらおうとしている。こうして、ひとりの人の運命を自分の自由にしているだなんて…!!
生きているのって、すごいことだと思う。

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わたしはたまに、他者から大きく誤解を受けていることを発見します。

誤解と言うとなにか嫌なことのようですが、わたしはそれによって特に嫌な気持ちになるようなことはありません。伺うと、いつも笑ってしまいます。

どういう誤解を受けやすいのかと言うと、ときどき読者さまなどから、わたしにはなんの恐れも迷いも苦悩も困ったことも嫌なことも辛いこともない、と思われてしまいがちなのです。申し訳ないくらい美化して見ていただいているので、今日はこのことについて書いてみようと思います。

まず、この毎日投稿。今日は849日目で、コンプリートまで残すところあと253日。ここまでの2年と4ヶ月を、ひたすらに強い信念をもって迷うことなく「絶対に書き通す」と思って書いてきたのではありません。もう、迷いに迷いに迷って書いてきています。迷いすぎて車酔いみたいになって、フラフラと酔拳の状態で書いていた日々よ…!!

ほんの100日ほど前まで、本当に最後まで続くのだろうか、もうあまりにやりたいことに溢れ過ぎたり大変になってきたりしたら、いっそのことやめてしまって別のことをしたほうがいいのではないか、などという迷いにしょっちゅう襲われていました。

みなさんにもそんな事がありませんか。わたしは自分で決めて勇ましく始めたことなのに、始めてすぐに怖気づいたり絶望したり逃げ出したくなったりしたことが何度もあります。くそっ…手を付けたはいいが、とても俺の手に負えるような代物じゃねえッッ…!!というパターンにハマりがちです。

この毎日投稿においても、まんまとそれに襲われて、なんとか今日まで乗り越えてきたという感じです。ときには執筆中に突然の狂声を発し、ときには謎にスッスッ・ハーと出産時の呼吸法を使い、時には突如として理由もなく喪黒福造の真似をして不敵な笑いを発するなどしてまで、なんとか書いた日もありました。(実話)

そうして、その迷いが早く消えてくれないかと願いながら800日近くまで書きましたが、やはり消えることはなく、ああこんなに書いても変わらないのだなァと、ある意味で感心すらしました。

そして800日を超えるころには、あまりにしつこく襲いにくるそいつと、もう友だちになっていました。「おう、いつでも遊びに来いや」ってな感覚になっていたと言いますか、「この迷いや心配があってこそ書き終えたときに感慨深いに違いない、だからこいつがいてくれたほうがいいや!」などと考えるようになったのです。

その友だちは、当然ですが自分です。自分とそいつとは一心同体なので、迷いこそ我なりと思うようになりました。ある意味で、自分との仲直り。心の平和協定です。もう自分は迷って酔拳でいくしかないので、迷走するのを自分の”スタンダード”だと思うことにする。それがわたしなのだという図々しい開き直りを発動するのです。それはちょうど、自分が迷うということを、自分が二本脚であることと同じように見るということです。『迷いのない自分』なんて幻想なのです。4本脚の超人になるのを望むようなこと。わたしは二本脚なので、二本脚でできることしかできないのです。

そうしたらなんと、寂しいことに、あいつはあまり遊びに来なくなってしまいました。今は迷いや不安もなく「淡々と書いていけばいいだけだ」と思うようになってしまいました。不安心配屋のあいつは、友だちが欲しかったのだと思います。自分に「いてもいいよ」「一緒に不安になったり心配になったりしよう」「普通普通!おかしくないよ」と受け入れてもらえたら、逆にもう出てこなくなってしまいました。

なんだか自分の中に出てきた幽霊が「心配だね、怖いんだね」とわかってもらったら、成仏してしまったみたいな感覚です。人の想念だもの、まさに幽霊みたいなものですね。

面白いことです。幻想を受け入れると幻想が破れるというのは、なんともドラマチックで面白い体験だと思うのです。

とにかくわたしたち地球人は、脳の構造上どうしても、不安や弱気が常に出動可能な状態なので仕方がないのですね。なによりも優先してリスクに目を向けてしまう生物です。それがあるからこそわれらはこうして死なずにいられるので、これは必要不可欠なものです。ですからその構造と戦ってもどうにもならないので、友だちになるのが吉(この表現もう古い??)だと思うのです。吉どころか大吉です。

自分が不安なら、不安なままでやっていく。
弱気なら、バリバリに弱気でやっていく。
他人軸なら、他人軸でジャンジャンバリバリいく。
迷ってしまうなら、迷ってしまう人としてどんどん好きにいく。

それらの自分を追い出そうとして戦わず、マブダチでいこうとしてみるのですね。自分の中での戦争を終わらせて、自分の中の弱者の居場所をつくり、自分の中を平和にする。迷いの多いわたしは、こう考えることで楽しくしています。それがきっと、「壇珠さんには迷いがないんだ」と見える要素なのかも知れません。迷いやら弱気やらは、”直す”ものではなく”味わう”ものだと思います!!

というわけで今日は、わたしには恐れや迷いもいっぱいやってきますが、自分がそれをどんな風に観察し、それらと共存しているのかをシェアしてみました。

こんな感覚が、あわよくばどなたかにも楽しんでもらえますように。

それではまた、明日ね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)