『老子』をどうみるか。本居宣長と平田篤胤の相違

 本居・平田の見解の相違は基本的に老荘思想への態度の問題である。まず本居は『老子』について、ある人から「神の道は、からくにの老荘が意にひとしきか」と問われたときに、「かの老荘がとも((輩))は儒者のさかしら((賢しら))をうるさみて、自然(おのづから)なるをたふと((尊))めば、おのづから似たることあり」と答えたが、しかし、結局、自然なりといっても儒学の「聖人の道」と同じことだとして神の道は人為を排するのだと論じた(『古事記伝』一巻九六葉)。東より子がいうように、本居の「漢心」否定の中では意外と老荘思想否定の位置は大きい。本居は儒学と老荘思想の両者を否定して、「もっと神秘的な存在」、いわば民族の神秘を求めたのである(東より子■■■)。これは契沖・荷田春満・賀茂真淵と続く国学の学統が基本的に老荘思想をベースとしていたことからの大変化であった。さらにいえば鎌倉時代、『老子』が伊勢神官の必携書であったように(「古老口実伝」)日本の神道自体が老荘思想(道教)の上に展開しており、それは神道の成立の時代までさかのぼるものである(参照福永光司『道教と日本文化』)。
 その意味では本居の立場は思想のレヴェルでいえば天御中主神道批判であるというよりも老荘思想批判だったというべきである。私見では、これは本居が学問の方法を学んだ荻生徂徠の儒学が、一面では老荘思想に近い側面をもっていたことに関わる。本居は、徂徠学の否定を通じて「漢心」のすべてを否定して、もっぱら『古事記』の和語の世界の言語学と注釈作業に集中したのである。あるいは本居は本来は『源氏物語』と和歌を中心とした日本文学の研究者として出発したから、物ごとの順序からいうと、逆に『古事記』の研究も言語学と注釈に絞り込み、それによって儒学と老荘思想の両方を排除するという研究方法を取ったというべきなのかもしれない。
 これに対して平田は本居が『老子』、老荘思想を排除することに対して明瞭に批判的であった。それは中国神話史を『老子』の各章によって概説した奇書『赤県太古伝』において、平田が「我が先師の比類なき大活眼なるすら、世儒と同じ様に老荘を混視して老子を甚く難られし説」を誤りだとし、「老子の伝へし玄道の本は、我が皇神たちの道」であると述べている。平田は本居とは違ってその学問を老荘思想から始め、終生、一貫して『老子』の研究を続けた。道教史の坂出祥伸が整理しているように、徳川時代の学者の中でもその老荘思想や道教の研究水準は突出しており、平田はこの老荘思想と道教についての知識を最大の支えとし、また儒教や仏教についても、さらにはキリスト教についてまでも学び、それらの神学的な知識によって神話の研究に挑んだのである。また平田がヨーロッパの天文学や地質学についても貪欲に情報を入手していたこともよく知られている。この意味では平田の方が本居よりも神学的であり、また合理的な研究方法をとっていたということもできる。つまり平田自身は神学を動員して対象としての神話の神秘を理解するという意味では、本居よりもむしろ合理的な人物であって、その神秘主義は神話を理解するための神秘主義という側面があったということができる。もちろん、そのような平田の学問の方法は『古事記伝』における本居の言語研究と注釈を前提として可能になったのであって、その意味では、本居と平田は絶妙な取り合わせであったのである。

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