稗田阿礼女性説

 断片です。ここにあげておけば忘れないので。
 
 神話論にとっての百済との文化的関係が重要なのは、なによりも『古事記』の編者、太安麻呂の氏族、多氏が百済系氏族と深い関係をもっていたためである。つまり前述の多神社注進状によれば太安麻呂の父、多品治の父、つまり安麻呂の祖父は多蒋敷(こもしき)であるが、その妹は百済太子余豊璋の妻となって、百済滅亡にさいし、余豊璋が倭国の援助を受けて百済王として送り出されたときに一緒に百済に渡っている(野村忠夫『諸君』一九七九年四月五月号)。彼女は時の大王、宝姫大王(斉明)に仕える宮人(女官)であったろう。その後、余豊璋は唐・新羅との戦争に敗北して高句麗に亡命したが、多氏はその前から百済王族・貴族と関係が深かったのであろう。彼らは百済滅亡の後に新たに倭国に亡命してきた百済貴族・文人とも深い関係を結んだに相違ない。安麻呂の『古事記』の編纂に関わるなどの特殊な地位はこのような百済王族・貴族とその文化との関係をその背景としていたのではないだろうか。
 また多氏が芸能に早くから深い関係をもっていた(参照西郷「稗田阿礼」『古事記研究』未来社一九七三年)。つまり九世紀の多自然麿の後は、舞楽の家として知られるようになり、舞楽の右方の長者となっている。そして舞楽の左方の楽人を束ねたのが韓系の狛氏であることを勘案すると、多氏も早くから百済系の芸能に深い関係をもっていたのではないか、安麻呂は、祖父、多蒋敷(こもしき)以来の百済王族との文化的雰囲気の中で東アジア芸能にも親しんでいたのではないかという想定である。
 このことは『古事記』の成立過程そのものと深く関係している。つまり『古事記』はその「序」にあるように天武の命をうけて稗田阿礼が「誦習」した口頭伝承をベースとして組み立てられた。『古事記』がそのような音声記憶と伝承の世界、さらには祝詞の世界に根づくものであることは本居が強調したところであり、またそれをうけて篤胤は「弘仁私記序」(『国史大系』8)に「稗田阿礼年廿八<天鈿女命の後也>」とあり、また『西宮記』の裏書に「猿女を貢ずるの事<弘仁四年十月廿八日、猿女公の女一人、縫殿寮に進む>。延喜廿年十月十四日、昨尚侍をして奏せしむ、縫殿寮申す稗田福貞子をもって稗田海子死闕の替となすを請うと云」とあることによって、稗田阿礼が天宇受売命の末裔を所為する猿女氏の一族であることを考証し、「天鈿女命の後也」として宮廷に出身している以上、阿礼は天宇受売命の芸をつぐ女であるとした(『古史徴開題記』)。『古事記』序が阿礼を「舎人」とすることについて、『延喜式』(中務省、女官季祿条)には「宮人<訓に比売刀禰と曰ふ>」とあるとして、「舎人」は「比売刀禰=宮人」(王宮につめる女性官人)のことであると論じたのは、そのまま依拠できないとはいえ、篤胤の考証能力を示している。これをうけて柳田は「阿礼」は神霊の出現を意味するアレの語からきたものであり、「神懸かりの女性」の名にふさわしいという重要な論拠をつけ加えた(『定本柳田国男集』筑摩書房⑨「稗田阿礼」(『妹の力』)。
 これに対して高木敏雄は、律令制の文明化の時代に「とくべつに諳誦者を求むる必要がありましょうか」「阿礼と云う者は学者であって、古い本であるとか、新しい本でも当時の漢文或は漢文と日本文と折衷したような難しい文章でもよく読んで、そうして此漢字は是は音で読むとか、是は訓で読むとか云うことをよく覚えて居った人間であったから、其事に携わったのであろう」とした(高木「古事記について」)。ここには近代化する国民国家の文明開化を律令国家にも読み込む「学者官僚」というほかない非歴史的な見方、さらに「知識=男」という偏見があるが、津田もそれを踏襲し、以降、この阿礼男官説が通説となっている(『日本古典の研究』上)。
 しかし、安麻呂が芸能にも造詣が深かったとすると、この阿礼の「誦習」の能力もなかば芸能的なものであったろう。西郷信綱は阿礼女性説に立って、稗田氏の本貫の稗田(大和郡山市)と多氏の本貫の多(田原本町)はすぐそばであるから、早い時期から二人は協力の関係にあったと論じた。阿礼は「天鈿女命の後」を称する猿女氏の一族として安麻呂とは芸能を通じての関係もあったのではないか。この芸能性は別に概略を述べたような百済系渡来人と奈良時代の芸能の関係に関わってくる(「『能』の形成と渡来民の芸能」(『能楽の源流を東アジアに問う』二〇二一)。これが内廷の宮人や巫女たちの女性的雰囲気と深く関係していることはいうまでもない。芸能論は神話の中で積極的に位置づけていく必要がある。
 また、木村紀子『古事記 声語りの記』は、天武は廿八歳の阿礼の「目を度れば口に誦(よ)み、耳に払るれば心に勒(しる)す」という誦習と記憶の力に注目したのであり、その能力は二八歳前から身につけていたと考えるべきで、それを男官に求めるのは無理でやはり女性とするほかないとした(二七頁)。稗田氏は天岩屋戸の前での天宇受売命の舞踏を受けた鎮魂祭での猿女の舞踏を職掌とする猿女氏の一族であり、その「誦習」の力が、猿女の俳優(わざおぎ)と呪芸の一環であったという阿礼女性説は依然として説得力をもっている。
 男官説の唯一の根拠は『古事記』序文に「時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年は廿八」とあって、「舎人」である以上、阿礼は男であるということである。しかし、もと「宮人(くにん)」(王宮につめる女性官人)とあったものが「舎人」と誤写されたり、あるいは「舎人」の誤りとされて訂された可能性もある。すでに九世紀の『日本書紀私記 弘仁私記序』に「舎人」とあり、史料の誤写を想定することは一般には避けなければならないが、「宮」と「舎」は字形が図にみるようにやや相似する場合があり(『草露貫珠』の「宮」と「舎」)、また昔も高木のように考える役人がいた可能性もあるだろう。太安麻呂の属した中務省が宮人の名帳を管理していたことも大事である。最近では太安麻呂と阿礼は実際に共同作業をしたのではなく、太安麻呂は阿礼が誦習した原稿をもとに『古事記』を編纂したという見解さえあるが(桑田訓也二〇二二「太安麻呂ー『古事記』と墓誌の古代官僚」『人物で学ぶ日本古代史』)、阿礼女性説は少なくとも仮説としては維持されるべきものである。
 ここは『古事記』論を展開するべき場所ではないが、これに関わって若干のことをのべれば、私は、第一に『古事記』は、私のいう母子王朝(斉明――天智・天武)の家系的経験が存在し、それが持統・元明・元正などの女帝と斉明以来の内廷の女性的世界を固有の基盤として成立したものと考えている。太安麻呂が『古事記』序において、『古事記』を元明天皇に捧げたことの意味をそこにみたい(保立「梅原猛氏の日本文化論批判と神話研究――歴史学の立場から」)。
 第二は『古事記』が強い道教思想の影響をうけていたことである。これは福永の指摘にもかかわらず、現在でもあまり強調されないが、これは「古代史学」が天武の道教思想への傾倒が国家思想と政治史においてもった意味を過小評価しているためである。私見では天文・陰陽道の重視、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師以下の八色の姓、明・浄・正・直・勤以下の爵位などはどれも天武が道教を基礎とした国家構想をもっていたことを示している。黒田俊雄は、福永の問題提起をうけて、そもそも「神道」という言葉が実際上は「道教」的信仰を意味しているとしているが、黒田説が成り立つ可能性は高い(「日本宗教史上の『神道』」)。それは天武の死によって中途で挫折したものの(新川登喜男『道教をめぐる攻防』)、日本神道の実質に大きな影響をあたえ、政治的にも単なる律令制に還元できない大きな意味をもち、長屋王の道教思想につながっていった。最初期の伊勢神宮に道教的性格が強いこともよく知られている。ここにはヤマト王権の国際的性格がよく現れている。

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