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大地とつながり心を結ぶ

トイレのスリッパを履いたまま廊下に出てきてしまったり、熱い熱いと入りながら、そこは高音ゾーンだと知って爆笑したり。初めて行く場所のハプニングは他愛のないことでもドラマチックで笑いが絶えない。

もしも休憩場所に読みたかった漫画がおいてあったら、子供にとって最高な湯上がりとなろう。それにつられて私も珍しく漫画を手にしてみる。竜爪山の麓の龍泉荘で、私たちは久しぶりに3人揃って疲れを癒すことができた。


大地とつながるには温泉が一番だ。

静岡県は温泉に恵まれていて、平地でも気軽に楽しむことができる。ただ、源泉掛け流しというと話は別だ。さらに、加温も加水も必要ない適温で湧き出る温泉というと、ぐんと数が少なくなる。


向かう先は『平山温泉 龍泉荘』。こちらは加温の掛け流し。昭和33年開館。御殿乳母の湯(ごてんうばのゆ)」とも呼ばれている。この辺りは戦国時代、今川氏ゆかりの秘湯だったそうだ。

静清バイパスを瀬名で降り、竜爪山に向かって10分ほど車を走らせると、あっという間に道幅が狭くなる。車道脇の駐車場に停めて石の階段を下っていくと目的地にたどり着く。

下り道の途中で錆びたトタンが目に入り、一緒にいた中一娘は「行きたくない」と体を寄せて言い出す。知らない場所、今にも降り出しそうな曇り空に湿った空気。そんな気持ちになるのも仕方ない。どうしてこんなところに連れてこられたんだろう、と不服に思っているようだ。私も少し心配になってきて「行きたくないねえ」と口を合わせる。

台所の窓なのだろう、その横を通り過ぎる時に醤油出汁の香りがしてきて、「カヨさんちの匂いみたい(おばあちゃんの家)」と娘が言う。懐かしい香りに少し気持ちが緩む。「おじゃまします...」と、恐る恐る玄関に入ると、中から明るい返事が聞こえてホッとする。

大人一人1時間500円。滞在時間によって価格帯がいくつかあり、迷っていると、「いつでも延長できます、ゆるい感じなので」という言葉をかけてくれた。後継の娘さんだろうか、その可愛らしい笑顔にまた気持ちが和らぐ。

石けん、シャンプーの使用は禁止なのは、本来の泉質を楽しめなくなるからだ。温泉水は2リットルまで持ち帰りできるという。

浴槽はタイル製で、楕円の湯船は、低温、中温、高温の三分割にされている。区切りに段差ができていて、お湯が行き来することで、自然に湯温が三段階になる仕組みらしい。壁にはちゃんと、但し書きがあるのだ。私たちはそれを見落として、熱い熱いと我慢しながら高温ゾーンに足を入れていたのだから、目を合わせてクスクス笑ってしまった。

ここは、文字通り、ただ浸かるだけ、飲むだけ、の温泉。硫黄の香りがプンと漂う。肌にピタッと張り付くような感触を確かめる。温泉水を飲んでみる。卵アレルギーの娘が、「卵みたいな臭い、大丈夫?」と心配してきて私は目を丸くする。臭いは、硫黄元素と同じアミノ酸が卵に含まれるからなので当然アレルギー反応は出ないのだが、そんなことが感じられる娘に私は少し複雑な気持ちになる。娘が卵を少しだけ食べたのは、治療をしていたはるか昔、3歳頃のことでそれ以来食べていない。


帰り道、「ねえ、どうだった」と娘に確かめる。

「よかった」

年頃の娘は、最近口数が少なくなる時がある。でも、本音かどうかなんて、声の色やイントネーションを聞いていればすぐわかる。

私には、「すごくよかった。楽しかった」というように聞こえてきた。

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