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Les Adieux チェンバロ再発見 No.1

この曲には1876年の記載があります。作曲年なのか?出版年なのか?表紙に「Clavecin」と書かれ、最も初期のチェンバロ作品と言えます。
この曲の成り立ちについて
チェンバロ(クラヴサン)の現代復活時期に関しては公には1889年のパリ万博でのLouis Diemerの演奏です。その時使用された楽器は偶然発見された、1769年製、パスカル・タスカン製作の楽器に間違いはありません。
この楽器は1882年にトマシー二によって修復されたという記載がされています。発見時期は不明です。
当時研究者やマニアの間では以前から初期(古楽器)の楽器に対する関心があり、 またパリ音楽院ではそのコレクションも当然ながら行っていたわけです。現にこの楽器を発見したのもパリ音楽院の学芸員であったシュケでした。奇遇にも当時オペラ・コミックのバリトン歌手だったエミール・アレクサンドル・タスカン(1853-1897)の一族が製作した楽器であったわけです。シュケは楽器が世に出る立役者の一人になりました。
発見者のシュケ(Gustave Chouquet(1819~1886)}について調べて見ると1871年から学芸員としてパリ音楽院楽器博物館に勤め、コレクションの注釈つきカタログを出版したとありますから、発見は1871年から1882年の間でしょう。
ということでこの曲[Les Adieux}]は1876年の記述なので1876年かそれ以前の作品なのでチェンバロのために書かれたものではないのかもしれません。
少なくとも当時「clavecin」と銘打って出版までして多くの人にがわかる時代でもないと思うのですが。





次に作曲者について調べました。
作曲者の記載は無く、du meme auteurーDoudou-polkaとある。
これはdoudou-polkaの作曲者と同一人物という意味です。
doudouという作品は単独ではありません。
「doudou」は幼児が肌身離さず持っているお人形や毛布のようなものをさすようです。そこから当時よく題材にされた「あやつり人形」を思い浮かべます。

「polka」については1830年頃チェコで生まれた民謡舞曲です。以外に新しい。

さて、どうつなぐ?題名から辿っていきましょう。


YoutubeにDoudouありました。
もちろん本文とは関係がありませんが。

さて、この曲の作曲者ですが、du meme auteurーDoudou-polkaの通り作者は不明です。
それ以前にこの曲の詳しい情報は

タイトル: Farewells: polka-mazurka / by harpsichord;[orn. by]バルビゼー
著者: チェンバロ(18..-18..?)。
出版社: V. & Ch. Gevaert & fils (Ghent)
発行日: 1876
寄稿者: Barbizet, J. (18..-18..? ; イラストレーター).イラストレーター
Contributeur : Barbizet, J. (18..-18..? ; illustrateur). Illustrateur
出典: フランス国立図書館、Département Musique、N-12056
デジタル保存: フランス国立図書館

寄稿者はBarbizet, J.、(barbizet jean)?
1860年代に楽譜の表紙を描いた イラストレーター。もう一人、楽譜カバーのイラストレーターとしても活動するBarbizet,A.がいる。
Barbizet, A.はEditorで楽譜の編集などをしていた1800年代に活躍した人物とだけ資料がある。
いずれにせよ、この楽譜はBarbizet, J.によって寄贈されたものとされる。

このスタイルのイラストレーションを多く残している。

さて、du meme auteurーDoudou-polka。
auteurーDoudou-polkaと同じ作曲家による、という箇所ですが、

ここからは確かな話ではないのですが、

Airs populaires du monde entier (Paris: Noël, ca.1859):という作品集を出版した作曲家がいました。世界中の人気のあるノエル集でベルギー、フランス、ポーランド、中国、スペイン、イタリアなどの24曲が収録されています。
No.2 (Belge:) C'est I'Doudou
No.22 (Polonais:) Adieu des fiancésが入っています。
この作品集は作曲番号外です。

これは同じ作曲者といえるのではないか?などと思っています。
Louis Messemaeckers (1809.3/8-1889,3/4)はベルギー・ブリュッセル生まれのピアニストで作曲家です。
1828年にパリに移り、フランツ・リストにピアノを、アントン・ライヒに作曲を学び、1841年からオランダに移り、その後、1862年、パリに移り長期滞在した後、ピアノ教師となり、1863年、殉教者通り23番地に居住。
Biographie universelle des musiciensによれば70作品を出版したと書かれています。 

父はMessemaeckers, Henri (1778, 11/15 — 1864, 12/25)でオペラやオペレッタの作曲をし、代々の音楽家だったようです。

Louis Messemaeckersの1859年に出版した作品集 Airs populaires du monde entier (Paris: Noël, ca.1859)のこの曲だとするとそれを土台に1876年頃に出版されたということは言えないであろうか?

24曲すべてでがなく、そこから曲を分けて出版するということはあり、その際、Louis Messemaeckersの元の曲集も編集したもので作曲者と書かなかった可能性はないであろうか?

さらに興味は師であるフランツ・リスト(1811~1886)はチェンバロを知っていただろうか?作品はないのか?
何度も書いていますが、チェンバロが発見され、修復されたのが1882年。お披露目される1889年万博までには間がありその時期にはリストはもうこの世にいませんが、晩年に少し希望が持てるかも・・・・・・などと
夢は広がります。




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