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いつか管理職になる私へ

#やさしさにふれて

やさしいのと甘いのは違う。どこかの作品で見た気がする言葉だが最近納得感が出てきた。

私はよくやさしいと言われるが、自分ではやさしくないと思う。単に甘いのだ。揉めごとを起こしたくないから、悪感情を向けられたくないから、単に自分の仕事に戻りたいから、その場では甘い顔をするが根本的な全体最適を考えたり相手のことを思って判断した訳ではないことが多い。目線が自分に常に向いている。最終的にはであった人たちに私のことを忘れてほしいと願っている。自分を知られるのが怖いのだ。

最近私も管理職へのチャンスをもらえるようになってきた。もらえるというのは打席に立つか打診される前の、選手登録されるくらいの話なのでまだ打席に立てるのかも結果を出せるのかもわからないが、まあこんなんはなんぼあってもいいですからね。ということでこの2年くらい部下を持つ練習もさせていただいていた。だが自分が何か根本的に変わったかどうかでいえば変わっていない。感情が揺れる、悪い感情にふれるということに根本的な耐性がない。だから2年前と特に変わらない自分が仕事をしている

やさしくならないといけないのだと思う。管理職の心得のような本も数冊読んだ。実践もできている。オープンマインドという言葉が管理職の適性の一つであるらしいが、これが私が思うやさしさに似ている。必要性があるから準備するほうが遥かに簡単だ。自分を変えるのはとても難しい。
心からやさしくありたいのかと聞かれればやさしくありたい。でもやさしいとはなんだろうか、相手のことを思いやるのがやさしさなのか、全体最適にあわせることが大切なのか、私にはまだわからない。わからないからこそ考えるべきだろう。だが私は考え抜くのが残念ながらそれほど得意ではない。やさしさそのものが考えられないならせめて対偶を切ろう、つまり甘さを無くそう。こういう思考になっている。甘さを無くすとはつまり、35年間生きてきた自分自身と向き合うことだ。蓋をして腰掛けてきた蓋を外すということだ。

はっきり言えば怖い。他人と向き合うよりも自分と向き合うのが一番怖い。自分が価値のない人間であることを明らかにされるとかそういうのでもなく、闇夜に感じる怖さに似ている。そうしないと甘さの根本は掴めない。だから沼で甘い匂いを放つ花の根本をのぞき込む作業を実施する。結果何が見えるのだろうか。沼のままでも育つなら良いし何かが成長を阻害してるなら変えないといけない。

自己分析という通過儀礼が就職活動のときにはある。深く分析するのがいいらしいが私はそれをしなかった。無意識に表層を遊んで終わった。していたら多分就職できなかっただろう、それを齢35でしようとしている。やさしさを探すため、甘さを殺すために私はもぐる。深くまでもぐる。いつの日かやさしくなれた私はどの景色を見ているのだろうか。35歳の自己分析は諦めと希望が程よくブレンドされている。いつでも立ち向かおう。自分だけは長いこと傍にいる存在なのだ。脳細胞が侵されるまでは

いつか管理職になる私へ、あなたは書いたものは読み返さないだろうので、自分宛の手紙が出てきてもきっと無視するでしょう。なので書いたことをせめて少しでも長く覚えていてほしい。一回目推敲しただけでも大したものだとほめてあげてほしい、部下には自分と同じ思いだけはさせないように

写真はやさしさの塊を選びました。やさしさは金で買える

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