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自分でこさえた型が窮屈なら壊してみよう

今の自分に満足していますか?はーい、私満足してまーす!って胸を張って答えられる人はどのくらいいるのだろう。満足してまーす!な人はそのままGOー!でいいと思うけれど、そうでない場合、どこがどうなったら満足するのだろうか。今の私自身はまあ、おおむね満足しているけれど、もう一つ夢中になれるものが欲しいんだ。

これまで私は、世間に基準があって学校や会社に合わせて自分を見繕って生きてきた。その点では器用な方で、周りの求めるものにある程度合わせたりして生きてきた。余りにも適応できない状況でない限り、求められるものがあるのは意外と楽なものである。でももちろんその求められるものと自分の意思がぴったり同じなはずもなく、時には無理したりして合わせてきた。

母になってからは、理想の母像に自分を当てはめるべく、いいお母さんをやってきた。元来自分勝手で気ままな方なのに、それに輪をかけて自分勝手で気ままな夫は子育ての戦力外。私はどんどん孤立し、無理をし、苦しみぬいた。

その後、自分の中で自分の型が窮屈すぎることに嫌気がさし、私は夫と解散する!という宣言する形で私は自分の型を壊すことになった。夫を巻き込む形での自爆は家族の崩壊を招くかに思えた。けど実際はこれまで鬱積していた「あるべき型」みたいなものが吹き飛んで、今は私も夫も楽になったような気がする。

自爆ののち、私は元来の自分の気ままわがままな生活を貫くことにしている。お母さんとはこうあるべき、お母さんだから、云々的なものを捨てていった。自分がやらなきゃと思っていたことは家族の誰かがやるようになった。家族は崩壊することもなく、家族の体を成したまま、私の役割や立ち位置は変わっていった。もともと型なんてないのに自分で作ってそれに当てはまろうとしていただけだった。家族はアメーバのように関わり合いながら姿を変え進化していくってことを体感した。

自分を偽ってまで無理することは自分のためにならないだけでなく、周りに対しても無理することを求めることになる。心の赴くままに自然にいていいんだね。そんなことを実践して、今また新たな家族の形になっている。私たちは影響しあい変化しながら全体としてなっている。だから自分は心地よさを大事にして、周りを信頼してゆだねるだけでいいんだ。そんなゆるさの中に生きる自分に今は満足している。でも今また、もう少し夢中になれるものが欲しいなって思う自分がいる。またその自分を満たすために、目の前の興味あることをやっていったらいいのかな。答えなんてないんだし、心に従うことが答えなんだろう。

型がなくなるとオプションは無限になる。つまり私には無限の可能性があるってこと。自由でないときは自由になりたいと思うけれど、自由ですよさあどうぞと言われると、さてどうしようとなる矛盾。ある程度の制限は、むしろ方向性を定めるのに有り難かったりするもんだ。これまでの自分の積み重ねてきたものを壊すのもひっくり返すのもいいけれど、せっかく生きてきた足跡にはきっといろんな宝がつまっているはずだ。それをヒントにまた次のステップを踏み出していけたらいいな。

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