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本当に今もそれは求められているのか?

どうしたいのか?という選択が暮らしの中で始まる

パートナーとの関わりにおいて、自分がどれほどまでにエネルギーを使っているのかに気づいて、気づいていくほどに、それがいかに不自然かと腑に落ちてきていた。

そこから、しばしの混乱(うまくいっていると思っていたものが無理の上に成り立っていたとか、リラックスしているつもりが緊張していたとか)が続いたけれど、

ここ2、3日は「じゃあどうしたいのか」というところの選択が少しずつ暮らしの中で始まってきている。


これをしている自分はどうなんだろうか?

セラピストの方から、パートナーとあまりに「いい人同士」で対話をしてしまっているから「悪人同士で話してみる練習」というアドバイスをもらったのだけれど、4〜5日は、お互いにプロセスの中に居て、話せるような状態ではなかった。

食事もそれぞれ別々にとって、会話は最低限。自分のことで精一杯。そんな中で私は、非公開のTwitterに噴出させたり、メモ帳に書き殴ったり、殺気を抑えないでいてみたり、noteに書き始めてみたり。

そうやって自分を見つめながら、私って元々どんなだったかな?とか、これが苦手だったよねとか、丁寧に感じていた。

実家の自分の部屋は、足の踏み場もなく物が積み上がっていって、ひとたび「片付けよう」と思うと徹夜して徹底的に片付けてしまう。物は無くなることの方が普通で、出した物はしまうことを忘れてしまったり、しまう必要が出てきた時にしまう。

細かいことだけど、一人でいたらそれなんだから、じゃあ今の自分ていったいなんなんだよ?って見るほどに怖くなってきた。ルーティーンで毎朝部屋の掃除から始めて、得意じゃない料理をして、苦手な片付けをして、洗濯をして、たたんで。

どれもが、私は◯なのに、頑張って□になろうとしているように思えて、家の中でここ最近を振り替えって呆然とした。


どうしてやっているのか?

じゃあ、なぜ◯なのに□をやってしまうのか。細かく日々感じていると、それがパートナーにとっての常識であると思っていて(昔散々言われたから)、それをしないと嫌な顔をされる、それが怖いからやっていたのだ。

パートナーが起きてくる音を聞くと身体がビクっとしてスイッチが切り替わるのを感じた。それに気づくたびに、そのスイッチを切るというのか、自分の思っている「相手の期待」に応えないでいること、というより自然でいることを大事にして過ごしてみた。

出しっぱなしのものを見ると落ち着かない、怖い。けれど、そのまま眺めてみたりした。いつもピッチリやっていたことを数日一旦やめてみた。不必要に笑顔でいすぎていることに気づいて、無表情でいてみた。

Kan.さんという方の本に「ただ立つ」ということがいかにできないか、「ただ立つ」ということは「ただ存在する」ことで、それがいかにすごいことなのか、と書かれていたけれど

不必要なものにエネルギーを注ぎ込まずにただ存在するということの難しさをよくよく感じていた。


久しぶりのパートナーとの対話

そんな自分との対話、自分を知ることを大切に過ごしていて、4〜5日経った頃に、「久しぶりに話す、聴くをやってみる?」ってパートナーが言ってきた。

自分がいい人をまたやってしまわないかも怖かったし、でも、正直でいることも同じくらい怖かった。けれどここ最近感じていたこと、昔のやり取りでずっとひっかかって恐れていること、嫌だったこと、色んなことを正直に出してみた。もっと正直に自然に関わりたいことも。

「我慢してしまう」とか「言いたいことが言えない」という話を私がした時、決まって「俺だってそうだよ」「俺だってずっと我慢してる」というのが前は返って来ていて、それを聞くと「私が最初、暴発を繰り返したから仕方ない」って自責の念が始まって・・・というループだった。

それほどまでに、パートナーの昔の私への恨みは「一生恨んだままかも」と言われてたほどだったから、どうしても自分が正直になることに引け目を感じていた。

けれど今回、パートナーからは「自分ももちろん言えないことはあるけど、それは、これは嫌だろうなっていう繊細な部分(性の部分とか)を言わないように遠慮しているだけで、今言えただけでなんか楽になったし、

自分で自分を大切にできないから恨みに変わると分かったから、今は自分を守ろうっていうのを続けてきているから、今は言いたいことがすごく言えてないとは感じて無いな」

(私が、特に家事等、色んなことを昔のイメージできっちりやらないととビクビクしてしまってるというシェアもしたので)「最初は本当にあれやってこれやってとか言ってたけど、今は前ほど気にならない。個性なのかなとか、これは自分でやったらいいなとか、そういう風にもなってる」と。


過去のイメージと今 - 本当にそれは求められているのか?

意外な話が返ってきて、長年のイメージと今とではやっぱり違うのだなと感じた。過去の贖罪とか、昔のイメージに生きていた私だったけれど、今ここで正直に伝えることで、リアルな今が返って来た。

世界への憤りとか、いいようない悲しさとか無力感や死についてなどは、パートナーにもシェアできるのだけど、それは私は、

同じような深度やエネルギーでそれを体験してきた人にシェアしたり、こうしてnoteに書いたりすることがやっぱり心地よくて、

その対話の中でも話たことだけど、パートナーとの関わりにおいては、もっともっと普通の部分、「あれを取って」とか「あれをして」とか「これは嫌だ」とか「こうしてほしい」とか、そういう本当に何気ないことを表現することが怖いので、それがしていきたいと話した。

パートナーから返ってきたのは「自分が前に思ったことを言えなかったのは、すごく感情的にわー!っと返されるのが嫌だったから、そして、その怒りで言われることで、強制されている気分になり、自分がやりたくないことを明け渡してやってしまってたから」と。

そして「前は自分はよく"一般的には"とか"普通は"とか、"みんなは"って言ってたけど、それは正解みたいにして押し付ける手段だった。でも今は"自分はそれが嫌だ"とか"自分が"っていうのを大事にしてる。だから、相手を操作しようとせずに"自分はこう思う"っていうのは、ぶつかってもいいからお互いに言うのが自然だよね」と話してくれた。

昔と今は違うし、相手も相手で変化していて、求められていると思い込んでいたものは、今は違ったりして。色んなものがハラハラと落ちていった。


同じ行為でも、意識の方向で違うように感じた

そんなこともあって、ちょっと世界を斜に見るような自分だったり、いつもより低い声が出てきたり、よくわからないけどなんかいつも何かに怒っているようなエネルギー感だったり、そういう自分が出てきては、「こんな自分もいたな」って味わっていた。

家事も一旦やめてみるっていうところから、「怒られたくないから」とか「正しいから」とかで自分を追いこんでやるんじゃなくて、「嫌いだし苦手だけどしょーがないからやるわ」という気分で、たまにタオルなんか机に投げつけたりしながら(笑)、やってみたりすると、なんか同じ「たたみもの」をしているでも、感覚が違うことを感じた。

同じ「行為」でも、誰かに意識を向けて、嫌われないようにやっているのか、自分に意識が向いていて、こんなん好きじゃないけどって知りながらやっているのかで、こんなにも違うんだなって思った。


私はそういうのが嫌いなんだよ、と言ってみた話

そんなことをしていたら昨日、とあるやり取りでフラストレーションを感じて、いつもなら縮こまって、焦って、相手の言ってることに応えるということをしていたものを保留して、

縮こまりそうなエネルギーを戻して解放して「私はそういう風に言われることがすごく嫌なんだよね!」「私はこうして欲しいんだよね」「これだと困るんだよね」と真っ直ぐに伝えられた。

返ってきたのは「俺はこれだと困るし、これがわかればそれでいい」とか、そういう相手の大事にしているポイントと、「自分は合ってて相手が間違ってるっていう、不毛な喧嘩に発展するのが嫌なだけで、それがなければこうやって言い合うのは何の問題もない」と言われた。

一瞬、空気はピリッとはするのだけど、それはそんなに悪いものじゃないこと、なにより自分の心に正直でいられたことに、私は全身でなんか嬉しさみたいなものを感じた。

今朝も、やれる範囲で自分のことをやって、「疲れたから一旦やめる」と言えたのだけど、「疲れたらやめるとか言われることは、なんにも嫌じゃないんだよね。何が嫌かっていうと、疲れたと言えなくて無理してやって、イライラして、そのイライラをぶつけられることが嫌なだけなんだよね」と。

少しずつ今に返ってきて、色んなことが因数分解されている。

一歩一歩、頭で考える「安定」ではなくて、違和感を排除せずに、正直でいることの自然さや身体の感覚を大切にしていきたい。



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