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子どもを産んではいけないと思った話

子どもを産むということへの拒否反応

元々、結婚して子供を産んで・・というイメージも湧くことがあまりなかったし、それよりも自分自身の「やりたいこと」をやることで精一杯、自分を生きることで精一杯だったから、そういうことに意識が向かわなかった。

そんな話を何度か人にしたこともあるけれど、スピリチュアルな世界に入っていくと「今世は実際に産むということじゃなくて、色んな人(子)に関わっていくということかもしれないね」と言われることもあった。

もちろん、それもそうだなって思っていたし、女性だからこうしないとというものでもないし、自由なのだけれど、子どもを産むということへの拒否反応みたいなものがあるよなぁとも気になっていた。


子どもを産んではいけないと思った瞬間

20代の前半ば頃は特にヒステリックで波の激しい時期で、前のパートナーとも激しいぶつかり合いもあったし、何かあれば激しく落ち込んでは、また自分を奮い立たせて頑張る日々。

コップを落として割ってしまっただけでも大声を上げて泣いてしまうくらいに、いつもパツンパツンに張り詰めて生きていた。何かあると(コップが割れたりしても)よく叫んでいたのは「邪魔するなーーー!!!!!なんで私の邪魔をするんだー!!!!」って。

邪魔ってなんだ?部屋には自分しかいない。そしてコップを割ったのも自分なのに。いつもいつも、何かと闘い続けていたのかもしれない。

そんな頃に、近くに住んでいる人が保護した猫を飼わないかという話が出て、飼うことになった。すごく可愛くて可愛くて、一緒に暮らせることが嬉しかった。けれど、ある時「自分にとって困ること」が起きた時に、怒りにまかせて猫を殴ってしまった。ハッっと浮かんだのは、母の姿だった。

あんなに嫌だと思ったことを、私は猫にしてしまったのだ。私は子どもなんて産んでしまったら、殺してしまうかもしれない。母と同じことをしてしまうかもしれない。絶対に絶対に、私みたいな人間は不幸な子どもをつくるだけ。絶対に産んではいけないんだと思った。


子どもを産んだ妹も苦しんでいた

そんな私とは違う道を歩んだのは妹だったけれど、子どもを叩いてしまったとか、ものすごく怒ってしまったとか、わんわん泣いて電話がくることがあった。やってしまう気持ち、そしてそんな自分を恐ろしく思う気持ち、痛いほど分かるだけに、なんとも言えない気持ちだった。

今はそこから長い月日も経って子どもたちも大きくなり、自分なりに息の抜き方みたいなのも見つけられたのか、不安定ではありつつも落ち着いてはきているみたいだけど。

母もきっと苦しかったんだろうと思う。そう思うと、「親子関係」だけにスポットを当てる気持ちにもなれなかった。だって、母はまたその母に、その母ままたその母に、そのようにされてきただろうから。この苦しみの連鎖を終えられるのは、今のこの時代なのかもしれない。


いい人でいなくてもいい場所をつくりたい

家の中でもいい人、いい母親を頑張って、職場でも頑張って、SNSでもそういう面だけを見せて。そんなことをしていたら誰もが壊れてしまう。

そういう「いい人間でいないと」という、社会全体に流れてきた「正解」みたいなものに、一生懸命真面目に応えようとする人ほど壊れていく。そのしわよせが虐待であったり、DVであったり、依存症であったりするんだろう。

私もそれをここまで一生懸命に続けて苦しんできたからこそ、いい人でいなくてもいい場所を求めている。もう限界の限界まで頑張っていて、もう限界だからこそ症状に現れてくる。「悪いことだ、恥ずかしいことだ」なんて本人が一番自分を責めている。

だから私は、「変わらなきゃ変わらなきゃ」といつも自分に刃を向けている人に「変わらなくていいよ」と言ってあげられる人になりたい。いい人でいなくてもいい場所をつくりたいんだ。


生きて生きて生きた先に

こうして日々、私が私のことをジャッジしないこと、色んな面を排除しないでみていること、そうしていった先にきっと、愛とか喜びだけを良しとするような表面的なものではなく、色々まるごとひっくるめた人間というものに対するあたたかい眼差しが育まれていくんじゃないか。

最初から知識だけで「そうあろう」とすると、型を真似するだけになって、変な正解をつくり聖人風になっていく。だから焦らずに、一気に変わろうなんてせずに、癖に気づいて、生きて生きて生きて、生きた先にストンと体感できる日がいつか来たらいいなというくらいで、ゆっくりやっていこう。



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