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エネルギーを何に使って暮らしているか.3

今の自分を見つめる

ここまで時系列で書こうと思ったのはきっと、今の自分を見つめることが怖かったからだ。

「いい人をやっている」と聞いた時にゾッとして、そこを見ようとすると、もうどこまでが取り繕いなのかさえわからなくなって、崩壊しそうな気がした。

それでも、最近の自分を思い出してみる。


ここ最近の自分

振り返ると、パニック再発の前、ここ最近ずっと朝起きてから、夜寝るまで、私はなんとなく笑顔でいること、ニコニコしていること、無邪気でいること、みたいなことにエネルギーを注いでいたように思う。

それはきっと、関係性を良い状態に保っていたかったから。ギスギスすることが怖いから。相手に好かれたいから。相手がきっと求めているであろう自分が、それだと自分が思い込んでいたからだ。

よくひとりで散歩に出かけていたけれど、たまに「一緒に散歩しようと」と言ってみた。それでも「一人で行けないんだね」って言葉が返ってくることがあってものすごく悲しかったりした。

いやいや、一緒に散歩したいと思うことが行けないことなのか?って気持ちは押し込んで、「自分は自分で満たさないと」という去年から私たちの中で「正解」みたいになっているところを一生懸命やっていたのかもしれない。

結局、どんなものでも「正解」にすると苦しくなっていくんだな。やっぱり苦しかったんだなって、今は思う。


パニック再発後の自分

7月の下旬にパニックが再発して、それが起きた時がちょうどパートナーが出掛けていた時だったのもあって、「出かける=パニックが起きる」みたいな変な結びつきが起きてしまって、しばらく外に出てもらえなくなってしまった。

そんな状況では関係性もまた「自由を奪われる」とパートナーも昔の思いもあってモヤモヤしてくる。そんな中で必死に、「すぐ治ると思うから」「きっと大丈夫だから」って、病気にまでなってるのに、私は大丈夫だよってやり続けていた。

「病気が治らないとまた関係が悪くなる」って思って、一生懸命に「きっと大丈夫」とアピールし続けていたように思う。それは対話の場でもずっと、希望を持って前向きで、きっと大丈夫、昨日より大丈夫な気がする、これもきっと意味があるとか、ポジティブな言葉ばかり。

両親にもヘルプを出したので、来てもらったけど、後から思うと2人に対しても「いい子」で居ようとするから、もう本当にどうにもらならない。

実家に居る時も、両親のつなぎ役をやらないと2人の関係がギスギスしてしまう期間が結構あって、どちらの気持ちもわかるし、どうにかしようってやりすぎて分裂しそうになったなぁ。


そしてここ数日

結局、振り返れば「いい子、いい人」をやめられなかったんだな、「いい子、いい人」で居続けようとして崩壊したんだなってよくよく腑に落ちる。

パニックが起きると、身体がまるで自分の人生を阻む存在のようにさえ思えてしまうけど、身体は私の味方で、私という存在の言えないことを教えてくれるものなんだな。

振り返れるだけ振り返ると、自分が日々の中で何にエネルギーを使って生きていたかが感じられる。他人にばかり意識を向けて、いい人を続けるためのエネルギーを使い続けていた。

これでは、何もしていないようでずっとエネルギーを消費している。よちよち歩きだけどここ数日はじめてみたのは、「無表情でいる」こと。

それが当たり前の人もいるかもしれないけれど、自分には新鮮だった。そして、気を使おうとする自分に気づいては、少しずつぶっきらぼうでも、そのままの自分で過ごしてみている。


殺気を止めないでいてみる

そして、私の心に残っていた言葉として、「すべての人ではなくても、毒を出すところがあるから、人を殺さずに生きていけるんだよ」っていう言葉。

それをさらりと言ってくれる人の、すごさ。どれだけの経験をすると、重たい空気にもさせずに笑いも交えながらそんなことが言えるんだろうか。

時に、無差別殺傷などの事件をニュースで目にすることがあるけれど、それがすごく遠くで起きているように思えたことは無い。やっていることを肯定する気はないけれど、その個人だけを取り上げて「悪人」と言えるのか?という怒りも湧いてくる。

誰しも言いようのない怒りや、憤り、どこにぶつけていいかもわからないようなものを抱えていて、たまたま理解してくれる誰かが一人でもいたり、何か表現に落とし込めたり。そうやって生きているように思う。私は。

だから、遠くのことのようには思えない。自分の中にもそういうものがあると感じるから。

話はそれてしまったけど、そんな「すべての人ではなくても、毒を出すところがあるから、人を殺さずに生きていけるんだよ」という言葉が深く残って、自分には「殺気」というのか、そういうものが元々あったよなって思い出した。

東京に出てきた時に「全員ぶっとばしてやる」くらいの勢いで、なかば半ギレの顔で目つきも悪く、社会とか何かと闘っていたように思う。その後は、そういう自分の殺気みたいのものが、人との摩擦を起こすとか、妬まれるとか、色んな経験をして、生きやすいようにしまいこんでいったように思う。

あとはなんというか、自分の中の男っぽさ。口の悪さみたいな。そういう性質の部分。

だからなんというか、別に、家の中で一人でいるだけなんだから、そういう殺気みたいなのをちょっと外に出して、無表情で、むしろ何かを睨み付けるような顔でしばしすごしてみている。(パートナーにやっている訳ではない。笑)

まだよくわからないけど、この殺気みたいなものをずっと頑張って止め続けようっていう風にエネルギーを使ってきているようにも感じた。あるものを無いことにしないというのは、やっぱり何かホッとする。


自分はどう生きたいのか?

とにかく、毒気というか闇というか、怒りというか、言いようのない爆発的なものがこんなにあるんだな、あったんだよなっていうのを、ただただ、認識し続けている数日。

日々の中に出てくる違和感をキャッチしては、何が嫌なのかと、どうしたいのかと問うてみる数日。

やっぱり、私は私のエネルギーの片面だけを求めて、片面を抑え込むことはしたくない。自分のいのちの力強さ、エネルギーを、止めて生きたくない。

例え人に嫌われても、パートナーとうまくいかなくても、エネルギーを、自分を知り続けることに使っていきたい。そして芸術表現に昇華していけたらいい。

何より、何かのニュースに触れたり、映画でもなんでもいいのだけど、思うことはたくさんあっても、SNSで書くことはなんか気が引けた。なんかこう、危なすぎて、そのまま書けないような気がしたから。

だからなんとなく、何かに触れてこう感じたとか、そういうものもここに書いていけると思うと、楽しみでさえもある。どんな自分がここに出てくるのか。

とりあえず、今日はこのへんで。


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