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もうひとつの3.11~双極性障害からの精神崩壊~

地震の話題ではないので、日付を変えて書いています。

僕は2004年に一度「うつ病」と診断され、"回復"したものの2007年に再びうつ病が疑われ、精神科を受診した結果「双極性障害」と診断されました。2009年頃からは安定期に入り、少しずつ平穏な生活を取り戻しつつありましたが、あの日、私の精神崩壊は始まったのでした。


3.11を機に始まった精神崩壊

2011年3月11日の14時46分は大宮の事務所の社員と電話し、その電話でまさに地震が起きていることを知りました。そして「宮城県北部震度7」の情報。実家は宮城県との県境にあり、1週間以上安否確認が取れないままさまざまな対応に追われました。そのときは極度の緊張感で疲れていることも忘れ、そして通院(心臓とか身体的な方も、精神のほうも)も忘れていました。

ある出来事(説明が長くなるので割愛)で、自分のやっていることに「バカバカしさ」を感じたときから、少しずつ仕事ぶりが変わっていきました。そもそも仕事自体も経験したことのない交渉事や手続きの連続でしたが。

そんな中、気軽に仲間に相談していたのを全部ひとりで抱え込むようになり、それがうまくいかなくなると責められました。そして、仕事の手順そのものがあべこべになり、だんだん周囲の風当たりも冷たくなり、自分のこころも苦しくなる一方でした。

居場所を失った僕は、自殺未遂をしました。これが2014年2月頭です。そして、4月から1年間の休職をしましたが、その間兄が末期がんで他界し、その後の家族のゴタゴタに巻き込まれ、復職は叶いませんでした


パートナーとの出逢い

2014年に、ひょんなきっかけから現在のパートナーと出会いました。人生で初めて、支えてくれる人ができました。出会った頃は兄の病状も思わしくなく、いつ最期を迎えるか、といったときでした。

兄が旅立った後待っていたのは前述の家族内のゴタゴタ。その火の粉は全て僕に降りかかりました。そのため、何度も自殺を考えましたが「行動」に移さなかったのはパートナーが全て受け止めてくれたからだと思います。

2015年に「躁転」した僕は行動がおかしくなり、軽い犯罪を犯しそうになりました。「入院」をして、パートナーと相談し、退院後に取り組むことを決めました。それが、今の「轟RADIO」の前身です。


「岩船ひろき」との出逢い

2018年の秋に、「岩船ひろき」さんというひとりのシンガーソングライターと出会いました。埼玉うらわ出身在住のシンガーソングライターであり、書家であり、ラジオパーソナリティーも務める多彩な人です。

なぜか分かりませんでした(最近、学生時代の話などを聴くとなんとなく察するものはありますが)とても親しく接してくれて、僕のツイキャスも聴いてくれていたそうです(ラジオによると「唯一見ているツイキャス」だったそう)。

このころの僕は多少の精神的な波はありましたが、やや躁よりでも安定して推移していて(これを「安定」と言えるかはさておき)、大きな問題はなかった思います。


奈落の底に突き落とされた「突発性難聴」

そんな中、2020年1月22日に突然左耳の状態がおかしくなり、めまいで部屋の中で倒れました。検査の結果、左耳は全く聴こえなくなっていて、付いた診断が「突発性難聴」。緊急入院となりました。

生活時間が不規則な仕事をしているパートナーは来れるときには必ず顔を出してくれました。そうでないときはLINEでのやりとり。

一方、Facebookで僕の状況を知った岩船さんからは、ラジオ番組を通じてエールをもらいました。そして、退院の日には直接メッセージも送ってくれました。

実は、「突発性難聴」になったときには比較的精神的に取り乱すようなことはありませんでした。もしかしたら、前年までの軽い躁状態がうまく作用してくれたのかもしれません(これを「うまく」と表現していいのかはわかりません)。

しかし、退院の直後、次は背中に大きな膿だまり(粉瘤?)ができ、3週間毎日のように通院し、処置をしてもらう日々が続きました。そんなことがあり、一度3月~4月にかけて精神的には「荒れました」。恐らく、躁とうつの両方が入り混じっている「混合状態」になったと思われます。

それで話は終わらず、4月には「橈骨神経麻痺」で右手が一時不自由になりました。もともと左指も中指から小指はあってないようなものなので、指2本の生活を強いられました。ここで、「とにかく何もしない」ということになりました。


フラッシュバックとの闘い

6月末に心臓の血管が細くなっていることから手術を受けることになりました。その入院中に、ふとしたことからこころの奥に蓋をしていた思い出したくない記憶が次々と頭をよぎるようになりました

そんな中、左耳の聴力の回復の見込みがないとの診断を受けました。それでフラッシュバックは一気に加速しました。

パートナーには暴言も吐き、ときに暴力をふるうときもありましたが、それでもパートナーは全部受け止めてくれました。そして、僕に気持ちが落ち着くまでそっと寄り添ってくれました。

いっぽう、岩船さんはコロナ禍で活動をツイキャス配信での応援グッズ販売に切り替えていましたが、僕はツイキャスをやっていた経験から岩船さんにアドバイスを送り、岩船さんは画面越しにエールを送ってくれるという関係になりました(時々、サプライズでお届け物が来ることもありました)。

フラッシュバックは2月上旬にようやくおさまりましたが、常にそばにいて寄り添ってくれたパートナー、SNSで僕の状況を知りそっとエールを送ってくれた岩船さん、両方に支えられてきたと思います。


「自殺の方法」を考えた時期も

昨年の12月初旬に精神状態が著しく悪くなり、「死にたい」から一歩踏み込み、「こうやって死のう」まで決めました。あとはいつ実行しようか、覚悟を決めようと思っていたときに、「(死ぬ方法も含め)俺は死ぬから、もっといい人見つけてね」と別れ話を切り出しました。

大丈夫、どうせやらないのは分かっているから別れないよ」との答え。そして、「僕がどうしても必要だ」、とも言ってくれました。

そのあと、(今もありますが)耳が過敏になり音楽を聴くのが辛くなる時があり(精神状態が悪いとなりやすい)、一度岩船さんの配信のお手伝いをあらかじめ連絡したうえでおやすみしたことがありました。

その時の岩船さんは、「僕がいつもはこれをコメントしてくれるのになぁ」と事あるごとに言いながら自らるんですよ。つまりこれは「これからも手伝ってほしい」というメッセージですよね。


10年目の3.11

こうして迎えた、2021年の3月11日。明日の勤務の都合で夕方までしか居られないパートナーと静かな時間を過ごしたあとは、岩船さんのツイキャス配信のお手伝い。いつもと変わらない日常がそこにはありました。

僕が10年目の3.11を迎えることができたのは、パートナーの存在と「岩船ひろき」の存在、この両方があってこそです。

新型コロナウイルスで社会状況が悪いのに「からだの機能を失う」というショックな出来事、そして精神的に追い込まれるフラッシュバックの連続。10年前より確実に状況が急激に悪化しいる中で、「自殺未遂」の手前で止まったのはふたりからそれぞれ違う形で僕をサポートしてもらったから。

なので、2人には感謝しかありません。普段から口にするようにはしていますが、改めて「命を繋いでくれてありがとうございます


今日は10年と1日目の3.11。別に「3.11」だけが特別な日じゃなく、僕の精神障害は日常的に続いていきます。10年前のあの日を境に生活が変わった人間としては、節目ではあっても何かが終わるのではなく、これからも続いていく生活の中の「通過点」でしかないのです。

それは、震災の被災者でも、今コロナ禍でたいへん苦しんでいる方にもこの先同じことが言えるんだと思います。

10年で変わったことは、「支えてくれる人がいること」。


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