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村松崇継へのロングインタビュー!「アーティストである村松崇継を忘れてはいけない」

映画やアニメなどの劇伴を手がける一方で、歌曲の提供やコンサート活動など、幅広い音楽活動を展開する作曲家、村松崇継。5歳からピアノを始め、高校在学中の1996年、ミディよりデビューアルバム『窓』をリリースしました。国立音楽大学作曲学科に進学後、角川映画『狗神』の劇伴を大学在学中に担当。以降、数多くの映画、TVドラマ、舞台、ミュージカル等の音楽を手掛けています。

村松氏は映画『64-ロクヨン-前編』『8年越しの花嫁 奇跡の実話』で、日本アカデミー賞優秀音楽賞を2年連続受賞。第45回日本アカデミー賞では、『護られなかった者たちへ』の劇伴音楽で自身3度目の優秀音楽賞を受賞しています。村松氏の活動は劇伴作家だけに留まらず、竹内まりやがNHK紅白歌合戦で披露した『いのちの歌』など、楽曲提供も行っています。さらに、スタジオジブリ作品やアニメ映画など、世界的な作品の音楽も手がけ、国内外で活躍しています。

村松氏は1996年から2004年にかけて、ミディよりオリジナルアルバム、サウンドトラック、カバーアルバムを合計7枚リリース。いずれも村松氏が作曲家としてのキャリアを開始し、確固たる地位を確立するまでの過程を語る上で、欠かせない作品となっています。

昨年10月、村松氏のミディ時代の全作品が配信開始されたのに合わせて、midizine編集部は村松氏へのロングインタビューを行いました。村松氏のデビュー時のエピソードや、師事していた矢野誠氏との思い出、各作品の制作秘話、さらにはアーティストとして創作し、ライブをやり続ける理由まで、幅広く語ってもらいました。

――1995年に、静岡県浜松市主催の音楽コンテスト「ジャパンオープン」で「浜松市民賞」を18歳で受賞されます。それをきっかけに翌年、MIDIからデビューアルバム『窓』をリリース。当時のプレスリリースを読むと「ピアノは7歳から自主的に始めたが、型にハマった練習はあまり好きじゃなかった」と書いてありました。小さい頃から練習曲をやるよりも、独創性を発揮して自分で音楽を作るのが好きだったのでしょうか?

「そうですね。最初はクラシックのピアノだったんですけど、だんだんコードとかが分かってきて...小学校高学年くらいからは練習曲をずっと演奏してるよりも、遊びで曲を作り変えたり、その日あったことを日記代わりに曲で表現したりしていました」

――このコンテストでは演奏技術というよりも、作曲能力にフォーカスしていたのでしょうか?

「はい、ジャパンオープンはジャンルの壁がなくて、バンドでもソロでもいいし、ハードロックでもシャンソンでもいいみたいな感じで、ジャンルもゴチャまぜでした。レコード会社の人たちもいたし、審査員も錚々たるメンバーで、各自が気持ちいいと思った音楽を選ぶっていうコンテストでした。僕はピアノソロで出て、グランプリは無理だったんですけど特別賞をいただいて、スカウトされました」

――これはご自身で応募しようと思ったのでしょうか?

「はい、僕の地元でもある浜松市は音楽でまちづくりをしていて、クラシックだと『浜松国際ピアノコンクール』がありますが、ポップスのコンテストが新しく開催される、というニュースを見かけて、申し込んだのがジャパンオープンです」

――それがある意味村松さんの音楽家としての人生を決定づけたと。

「そうですね。そこで応募していなかったら今がないですね。そこでミディの大藏さん(創業者)が目に留めてくださって。僕は坂本龍一さんや矢野顕子さんが大好きで、『音楽図鑑』とかも聴いていたので《ミディの方が僕の曲聴いてくれたの?!》ってびっくりしました。そこから週1回、打ち合わせをしに東京のミディのオフィスに行くようになって。大蔵さんは僕の親にも会って説明してくださり、東京でレッスンにも通うようになりました」

ーー作曲家という職業柄、音楽的な引き出しの多さも問われるかと思います。そして練習や勉強が必要なのはもちろん、直感や感性の鋭さも問われますよね。そうしたバランスは当時から意識されていたのでしょうか。

「いやいや、全然です。ずっと静岡でクラシックピアノだけを習って音大に行く勉強をしてたのですが、《果たしてこれで音楽家になれるのか?》とか《その後、仕事があるのか?》とか色々考えることもありました(笑)。ですが、ロックやフュージョンといったバンドサウンドや、映画のサントラも好きだったので、そういった音楽も作れるようになりたい、と中学生の頃くらいから思っていました。坂本龍一さんを知ったのも実は映画『ラストエンペラー』からで、そこから坂本さんのオリジナルアルバムを聴くようになりました」

――「音楽をやりたい」と思った原体験のようなものはありましたか?

「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をきっかけに映画音楽に興味を持ち、そこから『ラストエンペラー』の音楽を好きになりました。そして、ポップスとクラシックの隙間を埋めてくれたアーティストがデイヴィッド・フォスター(David Foster)です。彼はポップスのアーティストを数多くプロデュースしているんですが、『The Symphony Sessions』というインストのアルバムを出していて。それを聴いた時にクラシックとバンドサウンド、そしてポップスを合わせた世界を彼が作っているということを知りまた。こういうところを目指していきたいなっていうのは、高校生の頃から思っていました」

――村松さんのキャリアにおいて、映画音楽は大きな割合を占めてると思いますが、学生の頃から映画がお好きだったんですね。

「映画が大好きで大好きで…。中学校の頃から暇さえあれば映画館に行って、そこから映画のサントラを作りたいと思いました。ミディに来た時も、《いずれは映画音楽を作りたいんです》っていう話はしていました。『窓』(1996年)というピアノソロのデビューアルバムを出した後、《いつか映画音楽ができるように頑張っていこうね》と話したのを思い出しますね」

――『窓』のプロデュースが矢野誠さんということで、制作中に矢野さんがどういったディレクションをされたのか気になります。

「僕が地元で作っていた作品集があったんですが、それをそのまま出したのが『窓』です。矢野さんも一応ディレクションはしてくださったんですが、そんなに駄目出しはありませんでした。僕はその当時クラシックばかりやっていたので、リズム感が全くなく、矢野さんから基礎を習いました。そこからサリフ・ケイタ(Salif Keïta)というアフリカのアーティストなどを勧められ、《リズムに長けた人たちのサウンドを聴きなさい》と言われて、聴きまくりました。『窓』に収録されている『紙について思う僕のいくつかのこと』は唯一、矢野さんのレッスンに通う中で作った曲です。そこから、定期的に月1回くらい喋りながらピアノやリズム感を見てもらうレッスンをしていただいて、完成したのが2ndアルバム『東京』です。こちらは『窓』よりもどちらかというとポップスやジャズに徐々に移行しているアルバムです」

『窓』(1996年)
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――すごく奥が深いですね。プロデューサーとして作品をどうこうするより、レッスンの中で制作のヒントを与えてくださっていたんですね。

「矢野さんがいつも言ってたのが、《結局君と僕とはライバルだから、基礎で足りないところは教えるけど、作品作りには口は出さない》ってことです。《こういうの聴いたら?》とか《こういうの知ったら?》というアドバイスはしてくださるんですが、作品を作り変えるとか、手を加えることは基本しなかったです。《作品作りはお前がやれ》という感じで。そこがすごくいい経験だったし、作った曲に関して《こういう曲作るんだ面白いな》、《俺とは違う感性だ》みたいな感じで褒めてくださって。矢野さんに出会えたことは僕にとって、とても大きかったですね。いわゆる音楽大学では学べないことを教わったっていうか...《これを聴けばお前はもっと良くなる》という指導方法で、おすすめのアルバムを渡されるんですよ(笑)」

――『紙について思う僕のいくつかの事』は、今ではコンサートで毎回演奏する楽曲だと聞きました。

「そうですね、昨年1月にブルーノート東京での公演『村松崇継 "Piano Sings" at Blue Note Tokyo featuring 宮田大、宮本笑里 & 藤木大地』に出演した際、最後に本楽曲を演奏して…その時は矢野さんのエピソードとかもお話しして、会場もとても盛り上がりました。ずっと弾き続けたい曲の一つですね」

ーー2ndアルバム『東京』では、矢野さんがプロデューサーとして関わるだけでなく、ピアノでも参加されていて、カラフルで躍動感溢れる作品です。情報密度が高くて、ジャズを彷彿とさせるところもあります。東京に出てきて、環境の変化も反映されたアルバムなのでしょうか?

「そうですね。本当に田舎者だったので、雑踏というものを知ったり、色んなライブハウスに行って演奏もさせてもらったりする中で感じた『その時の東京』のイメージや、自分が行きたい場所を表現していますね」

『東京』(1999年)
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――その後、『狗神 オリジナル・サウンドトラック』(2001年)でキャリア初の映画サントラに挑戦されます。キャストも豪華でとても大きな仕事だったと思いますし、それまでのソロ作品ではなかったオーケストレーションも導入されて、雰囲気の異なる作品です。どのような気持ちで臨まれたのか伺いたいです。

「本当に全てがはじめてだったので、映画音楽みたいなサウンドは作ることはできたんですけど、絵を見ながら楽曲のタイムを合わせていく作業が難しかったですね。大変でしたけど、とてもやりがいがありました」

『狗神 オリジナル・サウンドトラック』(2001年)
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――その1ヶ月後にミディから本サントラのピアノバージョン『狗神 サウンドトラック ~ ピアノ・バージョン』がリリースされますが、それは村松さんの原点がピアノだったからでしょうか?

「映画のサントラを作る中で、アーティスト/ピアニストとしての村松崇継も消えちゃいけない、ということでリリースしました。坂本龍一さんも、サントラを作る一方で、ピアノ演奏を聴かせるアルバムも出されてますしね。制作時間は本当に限られていたんですけど、荻窪のスタジオでものすごい勢いで作ったのを覚えてますね(笑)それこそスタジオに泊まり込むぐらいで」

『狗神 サウンドトラック〜ピアノ・バージョン』(2001年)
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――サントラを制作する際も、楽曲の骨格はピアノで作られているのでしょうか?

「ピアノでは作ってないです。脚本を読んでいると、音が鳴ってくるので、それを色々な音色や編成で試す感じです」

――ご自身のスタジオにはピアノの他にも色々な楽器があるのでしょうか?

「いや、シンセサイザーのみですね。MIDIコントローラーでいろいろなサンプル音源を試せる状態にしているので」

――『狗神 オリジナル・サウンドトラック』が出た同じ年に、邦画の挿入歌をカバーした『brew』というインストゥルメンタルカバー集がリリースされます。大役を務めたすぐ後にカバーアルバムを出したその意図をお伺いしたいです。

「『狗神 オリジナル・サウンドトラック』の時のオーケストレーションが評価されたので、大藏さんが僕の音楽性や作曲家としての引き出しをもっとみんなに知ってもらった方がいい、と言ってくださり、あえてカバー曲のコンピレーションアルバムを作ることになりました。その当時は本当にお金がなかったので、これでちょっとギャラがもらえると思って(笑)アレンジ面でも評価されるきっかけになり、それが今に繋がってます」

『brew』(2001年)
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――大藏さんの発想はビジネスマン的ですね。村松さんにとって「良いプロモーションだから」という考えが面白いです。

「そうなんですよね。大藏さんはビジネスチャンスを譲ってくれる方でした。でも『brew』があったから、劇伴の仕事がその後増えたんです。本当にミディに今の僕の軸を作ってもらった感じですね」

――だから選曲もジブリのテーマソングとか、どちらかというとみんなが知っている楽曲が多いんですね。

「当時、みんなが知ってる楽曲を選びました。大蔵さんとも『いつかジブリの音楽をやれたらいいね』という話はしていて。その後、2014年に『思い出のマーニー』で本当にジブリの音楽を担当することになって、夢がかないました」

――本当に運命のような話ですね。元々ジブリはお好きで、観ていたのでしょうか?

「そうですね。ジブリ映画が好きだったので、いつか担当してみたいなと思っていました」

――本作は『狗神 オリジナル・サウンドトラック』とは雰囲気が全く違うので、そういった振れ幅の大きさも村松さんの魅力だと感じました。アーティストであることと、ニーズに応じて音楽を作る職業作曲家であることは、アプローチが異なるようにも感じます。他のアーティストへの楽曲提供や映画のサントラ制作では、他者に歩み寄る力も必要かと思いますが、そういった経験を通じて、音楽制作への姿勢や考え方は変わりましたか?

「そうですね。昨今こんなにいろいろなアーティストへの楽曲提供が増えたのは、やっぱり歳をとったからというか…(笑)。色んな人の縁の下の力持ちにもなれるようになりました。自分があえてプロデューサー側に回ることが今はすごく多いんですけど、《このアーティストはこうみせたらもっとみんなに届くだろう》というふうに、30代後半くらいから考えるようになってきて。それまでは自分のことだけ考えてて、《自分のアルバム》、《自分のライブ》しかやりたくなかったんですけど。プロデューサー側に回ることが増えて、予期せぬ化学反応が生まれることもあって、それはすごく楽しいんですよね。例えば《工藤静香さんが歌ったらこうなるだろうな》と思って書いた楽曲を、工藤さんが実際に歌うと、想像を超えるものがレコーディングできたりするので」

ーー『brew』の後に『Spiritual Of The Mind』(2004)がリリースされます。落ち着いた雰囲気で、村松さんの自然体な魅力が出ていると同時に、曲のバリエーションも豊かだと感じました。いろいろなお仕事をされていて忙しくなってきた中で、5年ぶりにオリジナルアルバムを出されたのはなぜでしょうか?

「『Spiritual Of The Mind』は僕にとって大事なアルバムです。当時は仕事が一番増えてきた時期だったんですけど、《アーティストである村松崇継を忘れてはいけない》という想いがあり…。そのような良い節目で出したアルバムです。『東京』の時は矢野さんがアレンジを担当してくださったんですが、本作は全て自分でプロデュース/アレンジを手掛けました」

『Spiritual Of The Mind』(2004年)
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――下積み時代を含めて苦労もされてきて、ようやくブレイクすると「仕事をもっと受けて稼ごう」という気持ちになってもおかしくないと思います。それでもアーティストとしての自分を大切にしたいからこそ、あえてオリジナルアルバムを出したということでしょうか?

「そうですね。オリジナルアルバムだと、特に僕の場合はインストゥルメンタルなので収益性が低い割に、手間と時間だけがかかるんです。それでも映画音楽だけを書く作曲家にはならず、18歳でのデビュー以来、頑張って続けてきたアーティストとしてのキャリアを途絶えさせたくなかったので…。今40代ですけど、これからも続けていきたいなと思っています」

――村松さんの人間性がどのように作品に反映されてるのかもお伺いしたいです。内省的な世界に潜り込んでいくアーティストもいる中で、村松さんの音楽は『冒険者たち』や『ニューフロンティア』といった楽曲名からも、外向きのポジティブさを感じます。村松さんご自身もアウトドアが好きだと伺いましたが、そういったご自身の性格も音楽に反映されていると思いますか?

「落ち込んだ時とかに曲を書いて、コンサートで演奏することもたまにありますが、基本的に僕のコンサートに来る方やファンの方は『元気をもらいました』とか『癒されました』と言ってくださる方が多くて。そう思ってもらうことが僕の使命だと思っています。僕も暗い時に内省的な曲を書くこともあるんですけど、結局は映画のサントラとかに使っちゃうんです。自分のオリジナルアルバムでは聴いた人が元気になれたり、希望を持てる音楽を奏でていきたいなと思っていて、なるべくハッピーになれるものを作るようにしています。アウトドアも好きで、天気などの自然環境からもインスピレーションを受けます。なので1人になりたい時は自然の豊かなところに行きます」

――アーティストによっては、時折実験的な作品を作ったり、必ずしも毎回ファンの期待に応える作品をリリースするわけではありません。村松さんのアーティストとしての本質や方向性は「みんなに元気を与える音楽」で定まっているのでしょうか?

「そうですね。実験的な音楽とかも趣味で聴くし、好きなんです。でも僕の曲ってインストゥルメンタルでも、《どこかに歌のようなメッセージがあるよね》ってよく言われてて、自分の曲は《歌詞はないけれど、ピアノで歌ってメッセージを届けてるな》と30代後半で気が付いて以来、ずっとそういう形でやっています。歌が上手かったら多分歌っていたと思うんですけどね。コンサートも『Piano Sings』というタイトルでやらせてもらっています」

――職業作曲家として外部の要望に応えつつも、アーティストとしての自分を見失わないために意識してることはありますか?

「すごく鋭い質問ですね(笑)。僕も一時期は職業作曲家だけでもいいかなと思ったことがあるんです。もちろんその方がお金もいいし、『別にいいじゃん』って思ったことはあるんですが...やっぱりアーティストの面を常に持っていないと、面白い作品を作れなくなる気がするんです。仕事で作曲していると、発注されないと曲ができない事とか、脚本がないとできない事があるんです。昔は暇な時間があれば自分で妄想して曲を作ったり、音を楽しんでいた自分がいたのに、今やフリーの日とかにあんまり音楽に触れたくないと思っちゃうんです。下手するとライブも行きたくなくなるとかね...。ただ波の音だけ聞きたいとか。こういう状態に陥るのを経験して、結構危険だなと思ったんです。昔はピアノに向かって、その日あったことを曲にしてたんですけど、音楽を仕事にして忙しくなったら、全く音楽で遊ばなくなっちゃったんです。《このままだと今後面白い曲が書けないな》と思ったので、村松崇継としてのコンサートもやり続けています。そこで会うファンや観客の方々は、やっぱりアーティストとしての僕の音楽が好きなんですよね。きっかけは映画音楽でも、『Spiritual Of The Mind』が好きな方とかもいるんです。そういう方々の前でちゃんと演奏して、自分を見失わないようにする。お金にはならないんだけど、音楽家としての人生を長く見た時に、すごく大事だなと思います。映画音楽の作曲家の方々と会うと、《なんでそんなやってるの?》とか《忙しいのにコンサートで地方まで回って...》とか言われることもあるんですけど(笑)。僕にとっては音楽家としてすごく大事なんです」

――すごくいい話ですね。仕事としての作曲だけだと、クリエイティブな面で長続きしないと。

「そうですね。1人でも僕の音楽が聴きたいという人がいれば、なるべくライブもやっていこうと思っています」

――今でも時間がある時は、日記のように作曲されるのでしょうか?

「東京にいると、なかなかそういう気持ちになれないですね。実家に戻ったり、軽井沢など自然の豊かな場所に行って、自分の音楽と向き合う時間を作っています」

――ミディからリリースされた作品の中で、一番思い入れがある作品を挙げるとしたらどれですか?

「矢野さんのレッスンを受けて作った『東京』ですね。音的にも若干尖っていて、若かりし頃の思い出です。『東京』、『Spiritual Of The Mind』を出した頃に、サニーデイ・サービスやリトルクリーチャーズといったミディのアーティストのライブを見させてもらった経験が、すごく今に活きてます」

――ミディがリリースするアーティストには1つのカラーがなくて、ジャンルもスタイルもバラバラ。けど、それこそがミディの良さでもあると思っています。

「《良いものを出す》という点には変わりはなく、そこに懐の深さを感じます。すごく良い音楽をやってるけど他のレコード会社が出してくれないからミディに行く、というのをよく聞きます(笑)」

――村松さんもそんなミディからデビューされたわけですが、そこにアイデンティティはありますか?

「ありますね。今思い出したんですけど、昔ハンバートハンバートのライブにゲスト出演させていただいたんです。あの当時は本当にお金がなかったので、必死でバイトしてチケットを売ったんですけど、それを企画してくれたのもミディだったんですよね。今じゃみんな大活躍で...。ミディは僕の原点となるレコード会社だなと思いますし、すごく誇りに思います」

ーー村松さんがアーティストとしての自分に向き合う理由は、デビューがミディだったからかもしれませんね。

「そうですね。『狗神』の時もそうでしたが、《これから売れっ子になって仕事が増えても、村松崇継というアーティストである事を忘れちゃいけないよ》と、大藏さんと矢野さんに言われたんですよ。それがどこかで自分の中に染み付いてるんだと思います。僕はジャンルの狭間にある音楽が作りたいんですけど、コンサートなどをやるとジャンル分けをしようとする方が沢山いるんです。僕の中ではクラシックとかジャズとか、明確なジャンル分けはなくて、《村松崇継というポップス》をやってるイメージなんです」

――昔からさまざまな音楽を聴かれていると思いますが、最近興味のある音楽だったり、気になるアーティストがいれば、教えていただきたいです。

「ちょっと古いですが、カントリーにハマっています。アメリカにおけるカントリーって日本でいう演歌みたいなものじゃないですか。そうしたカントリーミュージックのアーティストがその他のジャンルのアーティストとコラボして、カントリーの要素を失うことなく新たな楽曲を作る。そういうことをするアーティストが好きです。カラム・スコットさんはこの2、3年ずっと聴いてますね。あんまり言ってないんですけど、昔からカントリーとかケルト音楽が好きなんです」

――今後はどんな活動を予定されていますか?

「今後も映画音楽の作曲を続けて、フィルムコンサートをやりたいです。加えて、アーティストとしてアルバムも出せたらなと思っています。多分この2つの軸は変わらず、50代になっても同じことをやってると思います。また、今は日本がベースですが、海外のアーティストともコラボして、いい化学反応を生み出せていけたらなと思っています」

インタビュー・テキスト/midizine編集部

村松崇継(むらまつ・たかつぐ)
1978年生まれ、静岡県浜松市出身。
5歳からピアノを始め、オリジナルピアノソロアルバム「窓」でデビュー。 国立音楽大学作曲学科卒業。
角川映画『狗神』を大学在学中に担当したことを皮切りに、これまで数多くの映画、TVドラマ、舞台、ミュージカル等の音楽を手掛ける。映画『64-ロクヨン-前編』『8年越しの花嫁 奇跡の実話』では日本アカデミー賞優秀音楽賞を2年連続受賞、その後『護られなかった者たちへ』の劇伴音楽で、第45回日本アカデミー賞、自身3度目の優秀音楽賞を受賞。

劇伴作家だけではなく、活動は多岐に渡り、2019年NHK紅白歌合戦で竹内まりやが披露した『いのちの歌』やJosh Grobanに楽曲提供した『この先の道』、イギリスのボーイズコーラスグループ、リベラの『彼方の光』、手嶌葵の『ただいま』など歌曲の楽曲提供も多い。
また、スタジオジブリ作品『思い出のマーニー』をはじめ、『メアリと魔女の花』、2017年アヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリを受賞した『夜明け告げるルーのうた』や、劇場アニメ映画『漁港の肉子ちゃん』、IOCアニメーション作品『Tomorrow’s Leaves』、また、自身初の海外作品となり全世界で配信されている優酷(Youku)配信ドラマ『長安十二時辰』の音楽など活躍の場を世界に広げている。
近年は、『西本願寺音舞台』の音楽監督や、Blue Note Tokyoでのライブ公演など、舞台やコンサート活動にも精力的に取り組んでいる。

近年は、劇伴を担当したNetflix映画『クレイジークルーズ』の世界配信、アニメ映画『火の鳥 エデンの花』の劇場公開、『火の鳥 エデンの宙』のDisney Plus世界配信他、第90回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲『緑の虎』の作曲や、LIBERA、工藤静香、薬師丸ひろ子、山内惠介への楽曲提供など幅広く活躍している。

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