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M021. 【哲学・本】存在と時間 その2

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【19回目】です。

 前回に引き続き、ハイデガーの『存在と時間』を読んでいます。序論が終わって本論に入り、今回は第一篇の第一章・二章・三章を扱います。【世界内存在】という概念に触れつつ、道具存在と事物存在の在り方を見ながら、ハイデガーが考える存在論的な「世界」を感じていきます。

① ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)
② ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 3』(2017年 光文社)
③ 貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)
④ 池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)
⑤ 高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)
⑥ 竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

まず一般的なレビュー

 今回は光文社版の『存在と時間』の2巻と、3巻の途中まで読みました。1巻よりも読みやすい印象でした。というのも、どうやら『存在と時間』の構成は、あまり詳しく説明せずに様々な論点を大雑把に読者に提示して、後からまた戻ってきて説明を付け足して、ということを繰り返す構成になっているようです。一つ一つ完全に分からせるように順序だてて説明するのではなく、複数提示されている議論を何度も巡りながら徐々に全体の理解を深めさせるような構成です。「ここについては後で詳しく論じられる」、みたいな注釈が多くみられます。たぶん、今回の内容もあとから説明が足されることでしょう。
 それぞれの論点は互いに複雑に関係しあっているようなので、この構成が適した書き方なのかもしれないですが、導入部分で挫折する読者が多くなる理由もここにありそうです。『存在と時間』に挑戦する際は、はじめは精読せず、理解できなくても一通り読んで、二週目に詳しく読み込んでいくのが良さそうです。読者に要求される水準が高すぎる、、、

前回までのおさらい

 存在について考えたいハイデガーは、存在者について現存在道具存在事物存在といった分類をするのでした(翻訳のゆらぎがあり、道具存在は手元存在・手許存在など、事物存在は手前存在・眼前存在などとも、表記されるようです)。

 『存在と時間』では、まず●●現存在について分析することが重要であり、それはハイデガーの考えの基盤に、フッサールの現象学やニーチェの認識論があるからでした。現存在とは、常に自身や他者を気にかけ問題にしたり、研究したりする存在者で、つまるところ今こうして存在について考えている私たちひとりひとりのことです。存在について考えることのできる存在者は現存在だけということにしたので、現存在以外の存在者(道具存在・事物存在)は、現存在とどのように関わるか、ということで特徴づけられる存在者です。現象学の考え方は、無根拠な前提はなるべく退け、自分たち(=現存在)に確かに感じられていること(=現象)から考察を出発して、本質に至ろうとするものですから、現存在を起点にして他の存在者について考察します。

 今日日の私たちは自身の在り方について、自分の意志や行動に依らずに成立している客体的な世界、ないしは宇宙空間の中に、ほかの事物と一緒に肩を並べて存在しているという印象をもつことが、一般的ではないでしょうか。しかしこれがまさにハイデガーが退けたい前提です。これは、現存在を事物存在のように把握してしまっている状況です。

 では、現存在を起点にして考えた場合の、世界や、空間や、ほかの事物は、ハイデガーの存在論ではどのように説明されるのか、というのが今回の内容です。

世界内存在の考え方

 ここからは、現存在の【世界内存在】という在り方が重要になります。

 では、人間は「世界内存在」であるとはどういうことか。
人間は「世界の内に●●存在する」とか「世界全体と深く関係している」という意味で受け取るなら、それは典型的な誤解。「世界内存在」は、実存論的観点から見られたときの●●●●●●●●●●●●●●●「人間」と「世界」の関係本質を示す言葉なのである。
 人間は、他人や他の事物と一緒に、「世界の内に●●存在する」。これはむしろ客観主義的な世界の見方。実存論的な世界の見方は、「世界とは個々の人間によって現に生きられているその世界●●●●●●●●●●●●●である」という感じになる。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

まず「世界」という言葉がどのように使われ得るか、確認した方が良さそうです。この言葉もなかなか多義的なものです。例を4つほど挙げてみます。

①「世界初」「世界の国々」「第二次世界大戦」などと言うときの世界は、地球上の諸国をひとまとめにした総称の表現で、「万国」に近しいですね。

②科学的な探究の対象となる「世界」は、実在する事物すべてを含む空間・時間とでもいった感じでしょうか。「宇宙」で換言できるかも。

③哲学には、もっと空想上の事物も含みうるような使い方がありそうで、「可能世界」(以前、分析哲学の本を読んだときに出てきました)という世界概念は②よりも広い意味をもってるように感じます。

④逆にもっと狭く、「趣味の世界」「二人だけの世界」「私とあの人では住んでる世界が違うのです」と言うときの、当事者たちの行為や慣習、道具、場の集まり、みたいな表現もありますよね。「界隈」に近いでしょうか。

 世界内存在というときの「世界」は、おそらく上記のどれとも違っていて、強いて言えば④に近く、現存在と周囲の存在者たちが関わりあうとき起こっている物事の全体といったことのようです。②のような、三次元なり四次元なりで測量可能な空間としての世界がまず広がっていて、その内に現存在やほかの存在者が存在し、互いに関わり合っている、という図式は世界内存在とは異なる考え方です。

ハイデガーは、私たちから独立に、初めから(世界に)存在していた存在者と、あるとき私たちが突然かかわりを持ったり、持たなかったりする、という描像には問題があると考えている。二つのバラバラに存在している個体、例えば人間と客体が、ときどき関係したり、関係しなくなったりする、という発想を採用していないのである。私たちが日常生活において出会っている存在者たちは、いわば初めから「手に馴染んでいる」。
―(中略)―
ここでハイデガーが退けている発想は、それ自体で世界に存在する物理的な対象(object:客体)を主観(subject:主体)が認識し、場合によっては何らかの価値をそれに後付けで付与するという、そういった発想である。例えば、掃除機はそれ自体ではモーターを備えた大きなプラスチックの塊であり、それ自体には「掃除ができる」とか「ごみを吸うのに役立つ」などの価値は内在していないように見える。実際、人類が滅亡した世界においても、掃除機は存在しうる。それに価値を見出す人間がいないのだから、その掃除機を有用なアイテムとして理解する人間はもはやおらず、それはもはや「掃除ができる」ものという意味や、価値をもたなくなっているだろうが、それでも、何らかの電気系統を備えたプラスチックの塊は、存在している。人間がそれをどう使うか、それにどのような価値を与えるかとは独立に、物体はそれ自体でそこに存在しているのである。こうした発想、つまり、ものの価値は物体自身の内にはなく、人間が後からそれに「付与」するものだという発想は、直観的に受け入れやすい。
 しかしハイデガーは、そうした描像を採用しない。
世界の中にあるものは初めから「手許のもの」であり、行為者の行為に適合的なものとして、それ自体ですでに意味を持って存在していると主張するのである。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 引用した掃除機の例えは、人間(現存在)が居なくても存在する、無意味で客体的な存在者を尤もらしく表しているように感じられます(似たような例え話で、誰も見ていないときも月は存在するか?というのも、よく聞きますね)。しかしこの人類が滅亡した世界には、現存在がいません。存在を考えることのできる現存在がいないのに、存在が認められることはありえません。掃除機の例え話は、客体的な存在を立証するものではなく、あくまで客体的な存在を想像している人●●●●●●●(現存在)が、まさにいまその想像について語っているということでしかありません。
 現存在とは、都度都度、瞬間瞬間、いま、存在と関わり考える存在者です。いま私という現存在は、人類が滅亡した世界にある掃除機を眺めて客体存在の仕方を確認したのではなく、「もし人類が滅亡しても掃除機はそれとして在りつづけそうだ」という例え話をした(もっと徹底すると、その例え話をnote記事に書き込んだ)のです。そしてあなたという現存在がしていることも、掃除機を眺めることでは無く、この文章を読むことです。それが、いままさに起こっている、現存在と存在者(この文章)との関わりです。現存在について考えるときは、このように常に今に切迫したものと考えるのが良いと思います。

事物が「存在」するとは一体どういうことか。それは根源的には、「存在者」が、個々の「生」にとって、つまり「いまここ」にあるこの実存の意識にとって有意味な存在として現われ出る、ということなのである。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

このように、毎度、毎瞬間、いま、いま、その都度存在者たちと関わっている現存在の実存の様子が、ここで扱いたい「世界」です。現存在は常に他の存在者と何らかの交渉をしており、その交渉の在りようが「世界」です。そして現存在は、他の存在者と一切の関わりを持たずにただ独りで存在することはあり得ず、常に世界内という様態でしか存在しない。この事態を捉えた概念が、【世界内存在】ということのようです。

 おそらくあなたはこの本の表紙が存在することに今、疑いをもってはいないだろう。けれども、角度を変えれば表紙の色合いは変化するし、暗闇になれば表紙自体が見えなくなる。こうしたことを指摘されると、少し不安になってくるだろう。ひょっとすると、私が見ているものは世界のそのままの状態だと思っていたのは素朴すぎたのかもしれない。私には単に表紙がそう見えているだけであって、それが、表紙が本当に存在する仕方と一致しているかはわからない。考えてみれば一事が万事この調子であって、世界が実在しているかどうかだってわからない、と――。
―(中略)―
 事実はこうだ。あなたはあくまでさっきから継続してこの本のもとにおり、そこで(哲学者たちにおそらくは煽られて)体を動かしてこの表紙を別の角度から眺めたり、手にとってひっくり返してみたり、あるいは、本のそばでほとんど身動きせずに熟考したりしている。そして、思弁に飽きてくれば、移動するなり投げ捨てるなりして、この本から離れられる。世界は到達不可能な外部にあるのではなく、あなたはすでに世界に出てしまっている。いやむしろ、世界からの撤退は不可能であり、思弁の最中にも世界から逃れられない。
―(中略)―
 このようなあり方は、現存在の最も基本的なあり方であり、ハイデガーが「世界内存在」と呼ぶものだ。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

思弁の最中にも世界から逃れられない」というのは良い表現ですね。何か客体的で本当の世界なるものを認識しようとするとき、まるで世界に主観が向き合って、隠されているものを暴こうとしているようです。しかしここで議論したい世界内存在の「世界」は、そのように「客体的な世界なるものを想像しながら●●●●●●事物と向き合う現存在が居る」という、この瞬間の全体を見取ったもののことなのであり、空想の客体世界の方ではないのです。

 このようにハイデガーは、世界とは人間を取り巻く環境世界のようなものとして存在しているものであること、そして人間が環境世界を「もつ」ことはなく、環境世界とは人間がそのうちで生きている場であることを主張する。世界を現存在から切り離して抽象的に、人間を取り囲む生物学的な「環境」のようなものとして理解することはできないし、その反対に現存在を、現存在が現に存在し、生きている世界から切り離して抽象的に理解することもできないのである。
世界とはこのように現存在の存在様態と密接に結びついているものであるために、そしてそれだけに世界について理解することは困難であり、この理解がつねに誤解や歪曲をもたらすのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

存在論的にみるかぎり、「世界」はその本質からして、現存在ではない●●●●存在者についての規定ではなく、現存在そのものの性格なのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 この世界内存在という構造は、現存在を解釈するためには「アプリオリな」性格のものであり、この構造はさまざまな規定をたんに寄せ集めたものではなく、根源的で、しかも恒常的にそなわる全体的な構造である。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 ここで言及されるハイデガーの存在論的「世界」は、その世界に住まう当の現存在からは、それを対象として捉えることができないものになりそうです。現存在が何らか存在者たちを対象化している、まさにその様態が「世界」ですから、「世界」はその内に在る当の現存在から対象化されるモノでは無いのです。

世界は、存在者ではないという仕方で与えられる●●●●●●●●●●●●●●●●●●のである。
 ただし、このように言うことは、世界とは虚構か幻想に過ぎない、といった懐疑的主張をすることではない。ここに注意が必要だ。「世界が存在するか」という問いは無意味だと言うとき、ハイデガーは、「世界内存在としての現存在が立てる問いとしては」という限定を加えていた。たしかに、世界は、触れたり観察したりできる存在者として<存在する>のではない。だから、世界の色や形を言うことはできない。しかし、世界内存在にとって、世界は存在者と出会いうる条件として、存在者が存在する限り、すでに前提されている。ペンであれハンマーであれ、存在者と出会うたびに、その出会いを通じて世界はすでに<与えられている>。「あるのは存在者だけだ」と言うことは正しいが、だからといって、世界は虚構だと結論する必要はなく、むしろ、世界が存在者とは異なる仕方で<与えられて>いるその仕方を問うことができるのである。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 この世界概念は、ウィトゲンシュタインの「語りえないもの」との関連が深そうです。

 これについては、ヴィトゲンシュタインが、人間は自分の眼を見ることができないと指摘したことを考えあわせてみよう。ヴィトゲンシュタインはまず、「世界は生と一つである」ことを確認している。生と別に世界というものがあるのではなく、生きることがそのまま世界のうちにあることなのである。そしてヴィトゲンシュタインは、世界とは別に世界を認識する「形而上学的な主体」のようなものが存在すると考えるのは、間違いであることを指摘する。
 それを彼は眼の比喩で語る。「現実には君は眼を見ない」。人間の眼は見るための器官であり、その機能をはたすために眼が存在している。そして人間には自分の二つの眼のほかには見るための機能をはたすものがないために、人間は自分の眼によって眼そのものを見ることはできない。この眼と世界の関係は、ハイデガーが現存在にとって世界と世界内存在を理解することが困難であると考える理由を、考えるために役立つだろう。現存在である人間にとっては、生きることはすなわち世界のうちにあることであるために、自分が生きている世界を、自分とは別のものとして理解することが困難になるのである。
―(中略)―
現存在にとって世界がこれほどに自分にとって親しく、生きることと同じようにすでにあらわになっているものであるだけに、それについて説明しようとすると、それを自分でないものの側から説明するしかないことにある。ヴィトゲンシュタインが語るように、「世界は生と一つである」のであり。生は世界そのものと区別できない。しかし世界を語ろうとすると、それを認識し、理解する<わたし>は別のものとして語るしかない。
 もしもわたしたちが自分の眼について説明しようとするならば、それをあたかもどこかで見てきた器官ででもあるかのように説明するしかないだろう。眼は眼を見ることができないのだから、わたしたちは自分の眼を見ることができないのに、眼を何か見えるもののように説明するしかないだろう。それと同じように世界と世界内存在のありかたを説明しようとすると、存在論的には「自分ではない存在者」であるかのように、「みずからの世界の<内部で>出会うところのまさにその●●●●●存在者」であるかのように語るしかないだろう。こうして生と世界の一体性は否定されて失われ、わたしたちは世界があたかも自己とは別の他なるものであるかのように語るしかないのである。
―(中略)―
 世界はこのように捉えるとき、認識する<わたし>が認識の「主観」とみなされ、世界は認識されるべき「客観」とみなされることになるだろう。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 自分の主観的な感覚・認識能力と、客観的な世界の事物の向き合いというイメージは根深いパラダイムのように思えます。なるべく主観的な考えと客観的な在り方を一致●●させることが誠実な態度であり、良いことであるように思えていたり。客観的な事物と主観的な価値観が交わることが、ものを認識することだと考えたり。こういった考えを、ハイデガーは退けることができる、というか存在について問うなら退けなければならない、と考えるのです。

 世界の解決における第一の誤謬は、現存在は世界のうちで生きているが、その生のありかたをそのものとして解釈し、把握しようとするのではなく、それを「認識しよう」とする伝統的な哲学の傾向である。認識するということは、対象をあるものとして把握し、それを言語化することである。
―(中略)―
こうした構えでは、現存在が世界と向き合ったとき、現存在はあたかも世界の外にある<眼>と化すかのようであり、世界を認識する<まなざし>の主観となったかのようである。
 この視点からみると、現存在は客観である世界からいかなる影響もうけない主観であるか、あるいは外部の世界を宙吊りにすることのできる純粋自我であり、こうした主観や自我から世界を認識することができるとみなされることになる。
―(中略)―
 そのように考えるならば、世界のうちで生きる現存在のありかた、すなわち「世界内存在そのものは把握されなくなってしまう」ことだろう。これは認識論的な誤謬と呼ぶことができるだろう。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 ハイデガーは、現存在の分析論の「最初の課題の一つ」が、主観性の哲学を批判することにあることを指摘している。「まず自我や主観ズプイェクトのようなものがあらかじめ与えられていると考えて、これを考察の出発点とするならば、それは現存在の現象的な事態を根本から捉え損なうものであることを証明する」ことが、重要な課題となるのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

リチャード・ローティ(一九三一ー二〇〇七)とともに言えば、私たちは、自分自身を、物事が表象される劇場として、ないしは自然(世界)を映し出す「鏡」として事物的にイメージすることをやめるべきである。部屋に置かれた鏡はその光景を映し出すが、私たちはその部屋の住民である。私たちは世界を映し出すのではなく、世界に住んでいる。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 ハイデガーが想定する世界はこのように、現存在が存在者と交渉しているからには必ずその背景にある前提(≒アプリオリなもの)とでもいうものです。そして世界には、有意味性という特徴があるとされます。

その一般形式を「アプリオリなもの」と呼んでもいる。アプリオリなものとは、経験によって知られる(アポステリオリ)のではなく、むしろ経験によって知られるもの(存在者)に先立っている●●●●●●、などという意味で、哲学で使われる用語だ。
―(中略)―
この先行形式は、ハイデガーによって、最終的に「有意味性」というネットワークのはたらき方として特定されることになる。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 つまり、現存在が世界内存在であるということは、現存在は常に何らかの”意味”有る世界の内に在るということを表します。ここで言われる”意味”とは、「こんなことしていても意味がない」とか、「生きる意味を見つけたい」とか言われるときの、有意義性だったり、何かを正当化してくれる根拠だったりするものとしての、”意味”だと思われます。ハイデガーが存在論で扱いたい世界は、ここまで退け続けてきたように、客体的でそれ自体で存立するモノたちが、ただ無意味に空間内に配置されているだけ、というモノではありません。世界とは、何らかの意味を有してこそ世界なのです。
 有意味な世界の一つとして、ハイデガーは道具連関としての世界について詳述します。

道具連関の世界

 世界内存在の考え方を踏まえ、『存在と時間』では、いくつかの有意味な「世界」が分析されるようですが、はじめに詳しく考察されるのは、道具連関とよばれる与えられ方の世界です。これが最も私たちにとって身近で、常時体験されている日常的な世界です。

 ハイデガーによれば、われわれの日常とは、いつでもどこでもなにをしていても、かならずなんらかの道具を用いて何かをすることからなる。
―(中略)―
 まず、われわれの活動や生活は道具なしには成り立たないが、その際に用いられる道具はどれも、けっして単独では機能しない。包丁、まな板、鍋、フライパン、皿などの調理用具、ノコギリ、金槌、釘、鉋などの大工道具など、すべてが相互に関連しあっている。しかも、それぞれは、ただ「調理用具」「大工道具」などと一括され、関連しあっているだけではない。まな板は包丁を思う存分使うため、包丁で食材を切るのは鍋やフライパンで火を通しやすくするため、鍋やフライパンは、食材が消化しやすくなり、味がしみこむため、といった仕方で、それぞれの道具は、それぞれ他の道具での作業を行うことを目的とし、それが達成されるための手段として役立っている。それは大工道具の場合にも変わらない。すなわち、道具は、それぞれ一定の、目的と手段のネットワークに属している。
―(中略)―
こうしたネットワークのことをハイデガーはまた、「道具連関」とよぶ。

出典:貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)

われわれは、気づいたときにはすでに現実に存在していたが、それは同時に、道具連関としての世界のなかにおける存在である。現存在は、生まれてから死ぬときまで道具連関のなかにいる。しかも、現存在は、こうして道具連関としての世界のなかに存在する以前に、どこか世界とは異なる場所に存在していたわけではないし、また、いつかは世界の外部に存在するようになるわけでもない。世界のなかに存在するより他のあり方を、現存在はとれないのである。それゆえ、ハイデガーは、現存在のことを「世界‐内‐存在(In-der-Welt-Sein)」とよぶ。

出典:貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)

 現存在を取り囲む道具連関を構成する存在者たちは【道具存在】(手許存在・手元存在とも)です。現存在が道具存在に関わることを、ハイデガーは「配慮的な気遣い」と表現します。

ハイデガーは、現存在が「配慮的な気遣いで出会う存在者を道具●●(ツォイク)と名づける」。
―(中略)―
現存在は灯台のように、サーチする光を四方に放ってさまざまな事物を知覚し、認識して生きている存在者ではない。さまざまな事物を自分の望む用途に使い、操作している存在者なのである。世界の中の事物との交渉関係を考察するためには、何らかの目的のために、自分の好む用途で、さまざまな事物を使うという現存在の生活の存在様式に注目すべきなのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 個々の道具存在が道具連関の中でどのような目的・手段をもって存在しているかは、都度都度、前提されている世界の”意味”に依ります。

この部屋にあるテレビは、客観的な「存在」としては、「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」ということになる。さらにそれは、その機種、機能、値段、等々が一般的に記述されうる。だが、「配慮的な気遣い」から見られたテレビは、あるときは、映りが悪くて見にくいテレビであったり、部屋の割に大きすぎてうっとうしい調度だったりする。それだけではない。
 今真夜中で、<私>が寝ていると怪しい物音がして、どう考えても賊が忍び込んでいる気配がする。このとき<私>はとっさに回りを見まわして、何か武器になるようなものを探す。部屋に目ぼしいものが何もなければ、<私>はこのテレビを、適当な重さをもち、投げつけることで相手にダメージを与えうるためのもの(=道具)として“認知“するかも知れない。テレビはここで、身を守るための武器、という「存在意味」を露わにする。このようなとき、この「武器」としてのテレビは、まさしく<私>の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、<私>の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである。
 要するに、身の回りの事物の「存在」が「道具存在」であると言うとき、それは、それぞれの事物の一般的●●●客観的●●●な「何であるか」(→ハンマーである、テレビである、机である、等々)ではなく、そのつどの実存の場面から捉えられたそのものの「存在意味」を指しているのである。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

工房にあるハンマーは役に立つ道具だが、リビングにあるハンマーは不衛生な障害物である。ここでは、ある存在者がどんな世界にあるのかということが、その存在者の意味を決めている。そして、その世界がどんな世界であるのかは、そこで私たちが誰として存在している/存在しようとしているかによって決まっている。私たちは世界内存在として、つねに何らかの世界の内を生きている。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 道具存在は、何かの目的に向けて役立つ存在のことで、必ずしも人工的に製作されたツールだけではなく、自然の事物(風、波、太陽、鉱物、植物、動物…)も含まれ得ます。
 現存在が無意味な事物をまず見つけて、それに役立て方や存在意味を見い出すのではありません。現存在が存在しているいまこの瞬間瞬間、現存在の周りの存在者は、必ず何か意味ある存在者として既に常に現れていて(無意味なものは、その時その世界●●●●に”存在しない”)、目的-手段の連関の内に位置を占めている。そういう在り方が、道具連関の世界です。
 この世界は、生物学に馴染んだ人にとって受け入れやすいもののように思えます。というのも、この目的-手段の道具連関は、必ず現存在の存在に役立つことを最終目的とするからです。

ハイデガーはこの最後の答えとなる目的のことを、「そのための目的ヴォルムヴィレン」という用語で示す
―(中略)―
この<そのための目的ヴォルムヴィレン>は、道具が使われる目的の連関には、一つの究極的な目的があることを示すものである。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、人間のすべての行為には、一つの究極の目的があること、そしてこの究極の目的は幸福であることを指摘していた。
 ハンマーは本棚を作るため、本棚は本を整理するため、本を整理するのは住みやすくするためである。そして目的連関の問いはここで停止する。住みやすくすることそのものが目的なのである。この究極の目的を概念的に表現するならば、アリストテレスにならって「幸福に生きること」と言うことができるだろう。
 「幸福こそは、究極的で自足的なあるものであり、われわれの行うところのあらゆることがらの目的であるとみられる」のである。これが人間のすべての行為が目指す究極の「そのため」なのであり、それ以上さらに目的を問うことには意味がないのである。
―(中略)―
 この究極の目的をアリストテレスは「幸福」という言葉で示したが、ハイデガーはそれを存在論的に現存在であると表現する。
―(中略)―
現存在は本来的で唯一の<そのための目的ヴォルムヴィレン>なのである」。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 3』(2017年 光文社)

現存在はこれら世界のすべての事物を、みずからの目的のために利用することを心得ている。家屋も樹木も都市も、自然の事物を含めた周囲のすべてが、現存在「のために」存在している。すべてのものは現存在という究極の目的、<そのための目的ヴォルムヴィレン>のために存在している。そしてすでに現存在のための用途において使われているものもまた、それを作り直して、現存在の別の用途のために利用することができる。世界のうちに世界内部的に存在するすべてのものは、現存在からみると一つの手段であり、適材適所性をそなえているのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 3』(2017年 光文社)

「これのために」と訳した語(Worum-willen)にはさまざまな訳語があるが、細谷貞雄の「主旨」は特に注目に値する。自らの存在が問題だという実存のあり方は、自らが存在理由のネットワークの主旨(主眼、眼目)となって世界と関わる、ということだ。この訳語は、ハイデガーが、現存在の存在を、存在理由のネットワーク上の機能から規定している点を明確にしている点で優れていると思う。この機能的な把握は、別の角度から言うと、現存在の存在が最終的な理由にならなければ、世界はバラバラに崩れてしまう、という世界の脆さを浮き彫りにしてもいる。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 進化論が浸透していることもあってか、生物学では各々の生物がもつ多様な特徴は、その生物を生かすために役立つものであるか、という観点で考察されることが多いと思います。肺は周囲の空気から、生きるために役立つ酸素を取り込みやすい構造をしているし、腸は身体を維持するために必要な栄養を吸収するのに十分な仕組みを備えているのでしょう。生きることを究極の目的として、様々な在り様を説明することは、実に生物学的です。呼吸や血流など、人の身体は自分以外の道具存在(酸素や栄養)を、自分を生かすために絶えず利用しつづけます。このことを、家を建てるとか、noteを書くとか、お金を稼ぐとかいった行為にまで拡張したものが、幸福を最終目的とする道具連関の世界と考えるとよいでしょう。

 道具連関は、各々の道具存在が存在できるための前提となっており、前述で確認した世界の特徴を備えます。道具として使える存在がまずいくつかあって、それが連なって何らかの意味を生み出すのではなくて、はじめから、最終的には現存在の存在に役立つことになるという意味あるネットワークが前提されていて、そのネットワークの適した部分に配置されているものとして、道具存在は現存在から認められるのです。

何かが道具的存在者として出会われるためには、それが何をするためのものなのかが理解されていなくてはならない。色や形を知覚していても、何のためにあるのか、という存在理由がわからないのであれば、それは得体のしれない物体に過ぎず、道具的に存在していない。
―(中略)―
 存在理由のネットワークを介して道具がそれ以外の存在者たちに関連づけられることを、ハイデガーは、道具的存在者の「適所性」という言い方で表現している。道具的存在者が存在するとは、それ以外の存在者へと指示され、「~するため」の存在理由のネットワーク上の位置価をもつ(適所を得る)ことにほかならない。
―(中略)―
私たちは、これは「何からできているのか」とか、「誰が作ったのか」あるいは「誰のものなのか」といったことも問う。こうした問いも合流して、存在者から存在者への指示はますます展開し、歴史的・公共的な側面も含んだ全体的連関を成している。
―(中略)―
存在理由、由来、帰属先などの理解を通じて存在者たちが取り集められてはじめて●●●●、個々の存在者は充実した内容をもって存在しうる。ハイデガーは、最終的に、指示のこのような関連づけのはたらきを「有意味化」と一括する。そして、この有意味化の全体としての「有意味性」が世界の世界性(形式)だと結論づけている。
―(中略)―
この有意味化するはたらきは、ペンであれ、自転車であれ、スプーンであれ、つまり存在者の中身が何であれ、存在者と出会うときには、どこでも常にすでに●●●●●作動している理解の一般形式であることが実感されないだろうか。<何のため―どこから―どうやって―誰のもの>などの理解を介した存在者間の連関づけ(ネットワーク化)が、一般形式としての世界の世界性である。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 以上で、現存在が関わっている存在者たちはすべて何らかの意味のもとに存在していることになりました。しかしそうは言っても、これまで退けてきた、現存在とは関わりなく無意味にただ在るだけ、という見方で存在者を認識することも、私たち現存在には出来ているのではないでしょうか。科学などは、まさにそうした認識を基盤とした現存在の活動だったのではないでしょうか。こうした見方で捉えられるとき、その存在者は事物存在(手前存在・眼前存在とも)であるといわれます。現存在が他の存在者を道具存在ではなく事物存在として認識できる条件はどんなものなのでしょうか。

事物存在が認識されるとき

 現存在にとって有意味に現れてくることが、存在者にとって基本的で一般的なことなのだとしたら、存在者が無意味でただ在るだけのモノとして現れるには、相応の特殊な条件を要しそうです。

 例えば道具連関の世界を構成する道具存在は、それが本来果たすべき機能を果たせない場合に、その道具に一体何が起きてしまったのか、その道具はそもそもどういう構造で機能していたのか、という特別な注目を浴びます。このとき、道具存在が事物存在として見られるチャンスが生じます。

道具を用いてなにかを行っているとき、われわれは各道具をしげしげと観察したり、それに注意を払ったりすることはない。パソコンで文章を書いているとき、われわれが注意を向けているのは、書いている途中の文章であり、あるいは文章にしなければならない情報や自分の考えである。パソコン本体やそのワープロソフト、キーボードに注意を向けている状態、あるいは注意を向けなければならない状況では、遅滞なく作業を進めることはできない。逆に、こうした道具に注意を向けなければならないのは、道具がうまく機能しなかったり、壊れてしまったりした場合だ。そのときわれわれは、文章を書く作業を一時中断して、ワープロソフトの設定を見直したり、キーボードを修理しようとしたりするだろう。通常、注意の対象にならない道具は、それが機能しなくなったときに、注意の対象となる。

出典:貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)

 ハイデガーはすでにこれについて、「認識作用が、眼前的な存在者を考察しつつ規定するという営みとして可能となるためには、それに先立って、配慮的に気遣いながら世界と関係をもつことが、あらかじめ欠如している●●●●●●ことが必要になる」ことを指摘していた。「何かを制作するとか、何かを操作するなどのすべての営みをみずから控える」ことによって初めて実現される「ただ~のもとにまだとどまっている」という存在様態が、認識を可能にするのである。
 しかしすでに手元存在の考察で示されたように、自動車も時計も家具も、何よりもまず使用されるべきもの、操作されるべきものである。それらは道具として世界に存在しているのである。こうした道具を使うとき、現存在は自然を、「純粋に眼前的に存在するものをひたすら眺めている」という存在様態とはかけはなれた状態にあるのである。
 もちろんわたしたちは自動車や時計や家具を使うときにも操作するときにも、それを「認識」している。しかしそれらは道具として、「手元存在者」の有用性と機能性において認識されているのであり、「眼前存在者」として認識されているわけではない。それが眼前存在者として「認識」されるのは、その道具が道具として本来の機能を喪失したときなのである。自動車が運転できなくなったとき、時計がとまってしまったとき、四本の脚で立っていたテーブルの脚が欠けて三本になったとき、わたしたちはそれらを道具としてではなく、道具の機能を喪失した「事物」として認識するようになり、それをゴミとして廃棄することを考えるのである。「認識の営みは、配慮的な気遣いのうちにある手元存在者を超えた●●●ときに初めて、たんに眼前存在するにすぎないものをあらわに示すのである」。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 壊れる以外にも、目的に向かう道具連関の世界の中で、この場にある道具だけでは目的の達成が難しいときや、当座の目的のためにはむしろそこにあることが邪魔になる道具があるとき、道具存在は事物存在としての性格を見せてきます。

 このように手元存在者もまた、それがもともとは眼前存在者であったことを明らかにすることがある。それは壊れて使用できなくなったときほかの道具の必要性を催促するとき邪魔になって煩わしいものとなり、片づけられることを求めるときなどである。これらの欠如の存在様態は、手元存在者である道具が、眼前存在者となる様態である。ただしこのように手元存在者が眼前存在者になったとしても、それは完全に眼前存在者になってしまったわけではなく、つねにそれが道具であることをわたしたちに告げつづけている。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)

 しかし、現存在が事物存在と出会うのは、なにも道具連関の中で起こる欠如のシチュエーションだけでは無いですよね。以上の説明よりも、もっと現存在の方から能動的に、事物を道具ではなく「純粋に眼前に存在するもの」として見直す事態があるのではないでしょうか。例えば、目の前のリンゴは本当に実在するのだろうか?などと哲学的に考えるとき、リンゴのことを事物存在的に捉えてると思いますが、それは道具連関から落ちこぼれてしまったからというわけでも無いでしょう。ミドリムシは動物なのか、植物なのか、という思索も、ミドリムシを事物存在として眺めていると思いますが、道具連関とは始めから関係ない存在者だと思います。
 道具的な現われ方をしていたはずの事物を、あえて●●●、役に立たないもの、現存在にとって意味のないもの、現存在と関わらずとも自ら存在できるもの、である事物存在としてわざわざ見直す特殊な現存在の在り方がありそうです。

科学的に認識された世界は、科学者から独立に「外部世界」として実在するというイメージを好む哲学者も少なくないが、ハイデガーはこの見方を拒否する。「認識することは世界内存在の一つの存在様態●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●」であり「事物的に存在するものを考察しつつ規定することとしての認識」が可能であるのは、「世界と配慮しつつ関わり合うことが欠損していること●●●●●●●●」を条件とする。科学者は、世界を外部から(神の目のごとく)観察しているのではなく、日常性から見れば、故障した状況にとどまるという特殊な仕方で世界内存在している。物理的自然として事物の総体を問題にするには、存在者を配慮的に気遣うことから事物的存在者を理論的に発見することへと、世界内存在のモードの切り替えが科学者に起らなくてはならない。
―(中略)―
こうした「科学の実存論的概念●●●●●●●●●」によれば、事物の総体として世界が存在するという観念は、歴史的に卓越した科学者の実存の獲得物なのである。
 実践的関心から離れられない日常性の立場からすれば、世界は存在しない。この立場から行うべきなのは、事物の総体として世界が存在する、といった(日常性の身の丈には合わない)観念を何となく(世界のデフォルトの実像かのように)抱くことではなく、このような法外な世界概念を獲得するに至った科学者の偉大さをきちんと認めることなのである。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

ハイデガーの空間論

 世界の内で存在者は、現存在の存在を最終目的とする道具としての意味をもって、現存在に出会われるとのこと。そして事物存在としての存在者の在り方は、道具存在として現われたものを現存在があえて●●●見直すことで出会われる。同様の存在論を、ハイデガーは「空間」に対しても展開しています。現存在にとって空間がどのように捉えられているかというと、やはりまずは、測量可能な三次元空間のような、科学的・数学的なものでは無い、とされます。

さまざまな存在者がとりうる位置が三次元的に多様なものとしてまず与えられていて、眼前的に存在する事物がこうした多様な位置を占めると考えてはならない。このような空間の三次元性は、手元的に存在するものの空間性のうちにあって、まだ隠されたままである。
「上の方」とは「天井のところに」ということである。「下の方」とは「床のところに」ということである。「背後に」というのは、「ドアのところに」ということである。これらの<ところにヴォー>はすべて、日常的な交渉の行き来によって露呈され、<目配り>によって解釈されているのである。これらは、観察するまなざしが空間を測定することで確認され、記録されるようなものではないのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 3』(2017年 光文社)

 たしかに、人は歩くとき、毎歩毎歩、何m進むとか測量していないし、机の上に置いてあるスマホを手に取るときに、自分の正面から東に何度の角度の方向に何cm手を伸ばして取る、とか考えません。おそらく瞬時に距離や方角を算出して行為を成功させているのではなく、そういった算出無しに行為は遂行できるものなのです。ハイデガーによれば、現存在は存在者の「近さ」「方向」「方域」を捉えながら世界内存在しているのです。

 まず「近さ」は、距離に関わるものですが、あくまで物理的・客観的な「長さ」のことではなくて、現存在の行為にとってそれぞれの存在者がどれくらい身近であるかということです。

 ある手許のものが「近さ」に見出されるとは、単に行為者の身体の近くにあるということではない。あるいは同じことだが、そのようにして対象とのあいだの物理的な距離をなくすことが「距離をなくすこと」なのではない。そうではなく、あるものが「近さ」に見出されるとは、行為者にとって今にも着手できそうなものとして、また今にも利用可能なものとして、もしくは今にも準備万端なものとして、あるものがそのしかるべき「場所」に見出されている、ということである。
 例えば、工具箱からハンマーを取り出す行為者は、右手の棚に手を伸ばせばハンマーを握ることができるということを分かっている。だからこそ、難なくハンマーを手に取ることができる。作業台に向かうときも、積んである資材を回りこめば作業台に到達する、ということを理解しているからこそ、スムーズに作業台にたどり着くことができる。このように、私たちはある手許のもの(ここではハンマーや作業台)と実際に交渉する以前に、どうすればそれに適切に到達できるのか●●●●●●●●●●●●●●●●●●を捉えている。
―(中略)―
 ハイデガーが「近く」にあるものと呼んでいるのは、物理的に行為者の近くにあるものではない。いくらそれが身体の近くにあるとしても、足元に危険な釘が大量に散らかっており、何をどうすれば作業台での作業を始められるのかがすぐには分からないような状況では、作業台は「近く」にはない。そうではなく、手を伸ばせば届くだろうとか、右に少し進めば到達できるだろうとか、隣の部屋に行けばすぐにとりに行けるとか、そうした仕方で「どうすればそれに適切にアクセスできるか」が容易に見積もられ、今にもそれを手に取ったり、使ったりする準備が整っているとき、それらは「近く」にある。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 都度都度の現存在が行為する世界には、「方向」の理解もあるはずです。現存在が人間なら、前、後ろ、右、左、上、下を捉える感覚がありますね。これはなにも、客観的な方角(東西南北や、重力の方向)を基準にしているものではなく、現存在が存在者と関わるときに把握されている、どちらに向けて交渉しているか、ということです。

私たちが手許のものが「どこ」にあるのかを理解するとき、私たちが行っているのは「それが自分から見てどちらにあるか」を理解することではない。
―(中略)―
右手に確かに見えている東京タワーへの行き方が分からないときがあるように、私たちに必要な「方向」の理解は、どちらに向けて何をどのようにすればよいのか、ということに含まれた「どちらに向けて」の理解のなかに実現する。これが、ハイデガーが「方向をとること」と呼んでいるものの実相である。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 ほかに現存在は、存在者のいる「方域」という空間性を把握できます。

これは、「近さ」と「方向」とは明らかに異なる、「手許のもの」の空間的性質である。というのも、「近さ」と「方向」を共に理解する働きが、いつも「自分がいまどこにいるか」という点から出発し、「ここからどこにどうすればよいのか」を理解するものであるのに対して、問題になっている「方域」の理解は「そもそもこれらの存在者の間にはどのような関係が成り立っているのか」そして「問題の存在者はどこにあるか」を理解する働きであり、狭義の一人称的な視点を要請しない、一種の地図のようなものがそこでは参照されているからである。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 友達に貸した本は、たぶん友達の家にあるわけですが、このとき理解されている「友達の家」は、自分を起点とした距離や方角の情報とは関係なく、ただその場所として把握されているはずで、これが「方域」です。
 以上の空間論も、道具連関の世界が成立するために必要な性質でしょう。有意味な道具連関のネットワークでは、適する道具が適する近さ・方向・方域に配置されている必要があります。
 空間なんて、現存在に関わらず存在できる、客観的世界そのものという感じがしますが、ハイデガーの存在論においては、空間さえも現存在にとって有意味な世界を構成する、世界内の性質として説明されるのですね。

おわりに

 僕はミドリムシの分類の問題にとって、日常的な感覚と専門的・学術的な感覚の区別が重要だろうと睨んでいるのですが、ハイデガーの道具存在/事物存在の区別などは、大いに関連してきそうな考え方です。ギリシア哲学の前準備程度のつもりで読み始めたハイデガーですが、当初思っていたより有意義な読書になりそうです。

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