「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【19回目】です。
前回に引き続き、ハイデガーの『存在と時間』を読んでいます。序論が終わって本論に入り、今回は第一篇の第一章・二章・三章を扱います。【世界内存在】という概念に触れつつ、道具存在と事物存在の在り方を見ながら、ハイデガーが考える存在論的な「世界」を感じていきます。
① ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 2』(2016年 光文社)
② ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 3』(2017年 光文社)
③ 貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)
④ 池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)
⑤ 高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)
⑥ 竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)
まず一般的なレビュー
今回は光文社版の『存在と時間』の2巻と、3巻の途中まで読みました。1巻よりも読みやすい印象でした。というのも、どうやら『存在と時間』の構成は、あまり詳しく説明せずに様々な論点を大雑把に読者に提示して、後からまた戻ってきて説明を付け足して、ということを繰り返す構成になっているようです。一つ一つ完全に分からせるように順序だてて説明するのではなく、複数提示されている議論を何度も巡りながら徐々に全体の理解を深めさせるような構成です。「ここについては後で詳しく論じられる」、みたいな注釈が多くみられます。たぶん、今回の内容もあとから説明が足されることでしょう。
それぞれの論点は互いに複雑に関係しあっているようなので、この構成が適した書き方なのかもしれないですが、導入部分で挫折する読者が多くなる理由もここにありそうです。『存在と時間』に挑戦する際は、はじめは精読せず、理解できなくても一通り読んで、二週目に詳しく読み込んでいくのが良さそうです。読者に要求される水準が高すぎる、、、
前回までのおさらい
存在について考えたいハイデガーは、存在者について現存在・道具存在・事物存在といった分類をするのでした(翻訳のゆらぎがあり、道具存在は手元存在・手許存在など、事物存在は手前存在・眼前存在などとも、表記されるようです)。
『存在と時間』では、まず現存在について分析することが重要であり、それはハイデガーの考えの基盤に、フッサールの現象学やニーチェの認識論があるからでした。現存在とは、常に自身や他者を気にかけ問題にしたり、研究したりする存在者で、つまるところ今こうして存在について考えている私たちひとりひとりのことです。存在について考えることのできる存在者は現存在だけということにしたので、現存在以外の存在者(道具存在・事物存在)は、現存在とどのように関わるか、ということで特徴づけられる存在者です。現象学の考え方は、無根拠な前提はなるべく退け、自分たち(=現存在)に確かに感じられていること(=現象)から考察を出発して、本質に至ろうとするものですから、現存在を起点にして他の存在者について考察します。
今日日の私たちは自身の在り方について、自分の意志や行動に依らずに成立している客体的な世界、ないしは宇宙空間の中に、ほかの事物と一緒に肩を並べて存在しているという印象をもつことが、一般的ではないでしょうか。しかしこれがまさにハイデガーが退けたい前提です。これは、現存在を事物存在のように把握してしまっている状況です。
では、現存在を起点にして考えた場合の、世界や、空間や、ほかの事物は、ハイデガーの存在論ではどのように説明されるのか、というのが今回の内容です。
世界内存在の考え方
ここからは、現存在の【世界内存在】という在り方が重要になります。
まず「世界」という言葉がどのように使われ得るか、確認した方が良さそうです。この言葉もなかなか多義的なものです。例を4つほど挙げてみます。
①「世界初」「世界の国々」「第二次世界大戦」などと言うときの世界は、地球上の諸国をひとまとめにした総称の表現で、「万国」に近しいですね。
②科学的な探究の対象となる「世界」は、実在する事物すべてを含む空間・時間とでもいった感じでしょうか。「宇宙」で換言できるかも。
③哲学には、もっと空想上の事物も含みうるような使い方がありそうで、「可能世界」(以前、分析哲学の本を読んだときに出てきました)という世界概念は②よりも広い意味をもってるように感じます。
④逆にもっと狭く、「趣味の世界」「二人だけの世界」「私とあの人では住んでる世界が違うのです」と言うときの、当事者たちの行為や慣習、道具、場の集まり、みたいな表現もありますよね。「界隈」に近いでしょうか。
世界内存在というときの「世界」は、おそらく上記のどれとも違っていて、強いて言えば④に近く、現存在と周囲の存在者たちが関わりあうとき起こっている物事の全体といったことのようです。②のような、三次元なり四次元なりで測量可能な空間としての世界がまず広がっていて、その内に現存在やほかの存在者が存在し、互いに関わり合っている、という図式は世界内存在とは異なる考え方です。
引用した掃除機の例えは、人間(現存在)が居なくても存在する、無意味で客体的な存在者を尤もらしく表しているように感じられます(似たような例え話で、誰も見ていないときも月は存在するか?というのも、よく聞きますね)。しかしこの人類が滅亡した世界には、現存在がいません。存在を考えることのできる現存在がいないのに、存在が認められることはありえません。掃除機の例え話は、客体的な存在を立証するものではなく、あくまで客体的な存在を想像している人(現存在)が、まさにいまその想像について語っているということでしかありません。
現存在とは、都度都度、瞬間瞬間、いま、存在と関わり考える存在者です。いま私という現存在は、人類が滅亡した世界にある掃除機を眺めて客体存在の仕方を確認したのではなく、「もし人類が滅亡しても掃除機はそれとして在りつづけそうだ」という例え話をした(もっと徹底すると、その例え話をnote記事に書き込んだ)のです。そしてあなたという現存在がしていることも、掃除機を眺めることでは無く、この文章を読むことです。それが、いままさに起こっている、現存在と存在者(この文章)との関わりです。現存在について考えるときは、このように常に今に切迫したものと考えるのが良いと思います。
このように、毎度、毎瞬間、いま、いま、その都度存在者たちと関わっている現存在の実存の様子が、ここで扱いたい「世界」です。現存在は常に他の存在者と何らかの交渉をしており、その交渉の在りようが「世界」です。そして現存在は、他の存在者と一切の関わりを持たずにただ独りで存在することはあり得ず、常に世界内という様態でしか存在しない。この事態を捉えた概念が、【世界内存在】ということのようです。
「思弁の最中にも世界から逃れられない」というのは良い表現ですね。何か客体的で本当の世界なるものを認識しようとするとき、まるで世界に主観が向き合って、隠されているものを暴こうとしているようです。しかしここで議論したい世界内存在の「世界」は、そのように「客体的な世界なるものを想像しながら事物と向き合う現存在が居る」という、この瞬間の全体を見取ったもののことなのであり、空想の客体世界の方ではないのです。
ここで言及されるハイデガーの存在論的「世界」は、その世界に住まう当の現存在からは、それを対象として捉えることができないものになりそうです。現存在が何らか存在者たちを対象化している、まさにその様態が「世界」ですから、「世界」はその内に在る当の現存在から対象化されるモノでは無いのです。
この世界概念は、ウィトゲンシュタインの「語りえないもの」との関連が深そうです。
自分の主観的な感覚・認識能力と、客観的な世界の事物の向き合いというイメージは根深いパラダイムのように思えます。なるべく主観的な考えと客観的な在り方を一致させることが誠実な態度であり、良いことであるように思えていたり。客観的な事物と主観的な価値観が交わることが、ものを認識することだと考えたり。こういった考えを、ハイデガーは退けることができる、というか存在について問うなら退けなければならない、と考えるのです。
ハイデガーが想定する世界はこのように、現存在が存在者と交渉しているからには必ずその背景にある前提(≒アプリオリなもの)とでもいうものです。そして世界には、有意味性という特徴があるとされます。
つまり、現存在が世界内存在であるということは、現存在は常に何らかの”意味”有る世界の内に在るということを表します。ここで言われる”意味”とは、「こんなことしていても意味がない」とか、「生きる意味を見つけたい」とか言われるときの、有意義性だったり、何かを正当化してくれる根拠だったりするものとしての、”意味”だと思われます。ハイデガーが存在論で扱いたい世界は、ここまで退け続けてきたように、客体的でそれ自体で存立するモノたちが、ただ無意味に空間内に配置されているだけ、というモノではありません。世界とは、何らかの意味を有してこそ世界なのです。
有意味な世界の一つとして、ハイデガーは道具連関としての世界について詳述します。
道具連関の世界
世界内存在の考え方を踏まえ、『存在と時間』では、いくつかの有意味な「世界」が分析されるようですが、はじめに詳しく考察されるのは、道具連関とよばれる与えられ方の世界です。これが最も私たちにとって身近で、常時体験されている日常的な世界です。
現存在を取り囲む道具連関を構成する存在者たちは【道具存在】(手許存在・手元存在とも)です。現存在が道具存在に関わることを、ハイデガーは「配慮的な気遣い」と表現します。
個々の道具存在が道具連関の中でどのような目的・手段をもって存在しているかは、都度都度、前提されている世界の”意味”に依ります。
道具存在は、何かの目的に向けて役立つ存在のことで、必ずしも人工的に製作されたツールだけではなく、自然の事物(風、波、太陽、鉱物、植物、動物…)も含まれ得ます。
現存在が無意味な事物をまず見つけて、それに役立て方や存在意味を見い出すのではありません。現存在が存在しているいまこの瞬間瞬間、現存在の周りの存在者は、必ず何か意味ある存在者として既に常に現れていて(無意味なものは、その時その世界に”存在しない”)、目的-手段の連関の内に位置を占めている。そういう在り方が、道具連関の世界です。
この世界は、生物学に馴染んだ人にとって受け入れやすいもののように思えます。というのも、この目的-手段の道具連関は、必ず現存在の存在に役立つことを最終目的とするからです。
進化論が浸透していることもあってか、生物学では各々の生物がもつ多様な特徴は、その生物を生かすために役立つものであるか、という観点で考察されることが多いと思います。肺は周囲の空気から、生きるために役立つ酸素を取り込みやすい構造をしているし、腸は身体を維持するために必要な栄養を吸収するのに十分な仕組みを備えているのでしょう。生きることを究極の目的として、様々な在り様を説明することは、実に生物学的です。呼吸や血流など、人の身体は自分以外の道具存在(酸素や栄養)を、自分を生かすために絶えず利用しつづけます。このことを、家を建てるとか、noteを書くとか、お金を稼ぐとかいった行為にまで拡張したものが、幸福を最終目的とする道具連関の世界と考えるとよいでしょう。
道具連関は、各々の道具存在が存在できるための前提となっており、前述で確認した世界の特徴を備えます。道具として使える存在がまずいくつかあって、それが連なって何らかの意味を生み出すのではなくて、はじめから、最終的には現存在の存在に役立つことになるという意味あるネットワークが前提されていて、そのネットワークの適した部分に配置されているものとして、道具存在は現存在から認められるのです。
以上で、現存在が関わっている存在者たちはすべて何らかの意味のもとに存在していることになりました。しかしそうは言っても、これまで退けてきた、現存在とは関わりなく無意味にただ在るだけ、という見方で存在者を認識することも、私たち現存在には出来ているのではないでしょうか。科学などは、まさにそうした認識を基盤とした現存在の活動だったのではないでしょうか。こうした見方で捉えられるとき、その存在者は事物存在(手前存在・眼前存在とも)であるといわれます。現存在が他の存在者を道具存在ではなく事物存在として認識できる条件はどんなものなのでしょうか。
事物存在が認識されるとき
現存在にとって有意味に現れてくることが、存在者にとって基本的で一般的なことなのだとしたら、存在者が無意味でただ在るだけのモノとして現れるには、相応の特殊な条件を要しそうです。
例えば道具連関の世界を構成する道具存在は、それが本来果たすべき機能を果たせない場合に、その道具に一体何が起きてしまったのか、その道具はそもそもどういう構造で機能していたのか、という特別な注目を浴びます。このとき、道具存在が事物存在として見られるチャンスが生じます。
壊れる以外にも、目的に向かう道具連関の世界の中で、この場にある道具だけでは目的の達成が難しいときや、当座の目的のためにはむしろそこにあることが邪魔になる道具があるとき、道具存在は事物存在としての性格を見せてきます。
しかし、現存在が事物存在と出会うのは、なにも道具連関の中で起こる欠如のシチュエーションだけでは無いですよね。以上の説明よりも、もっと現存在の方から能動的に、事物を道具ではなく「純粋に眼前に存在するもの」として見直す事態があるのではないでしょうか。例えば、目の前のリンゴは本当に実在するのだろうか?などと哲学的に考えるとき、リンゴのことを事物存在的に捉えてると思いますが、それは道具連関から落ちこぼれてしまったからというわけでも無いでしょう。ミドリムシは動物なのか、植物なのか、という思索も、ミドリムシを事物存在として眺めていると思いますが、道具連関とは始めから関係ない存在者だと思います。
道具的な現われ方をしていたはずの事物を、あえて、役に立たないもの、現存在にとって意味のないもの、現存在と関わらずとも自ら存在できるもの、である事物存在としてわざわざ見直す特殊な現存在の在り方がありそうです。
ハイデガーの空間論
世界の内で存在者は、現存在の存在を最終目的とする道具としての意味をもって、現存在に出会われるとのこと。そして事物存在としての存在者の在り方は、道具存在として現われたものを現存在があえて見直すことで出会われる。同様の存在論を、ハイデガーは「空間」に対しても展開しています。現存在にとって空間がどのように捉えられているかというと、やはりまずは、測量可能な三次元空間のような、科学的・数学的なものでは無い、とされます。
たしかに、人は歩くとき、毎歩毎歩、何m進むとか測量していないし、机の上に置いてあるスマホを手に取るときに、自分の正面から東に何度の角度の方向に何cm手を伸ばして取る、とか考えません。おそらく瞬時に距離や方角を算出して行為を成功させているのではなく、そういった算出無しに行為は遂行できるものなのです。ハイデガーによれば、現存在は存在者の「近さ」「方向」「方域」を捉えながら世界内存在しているのです。
まず「近さ」は、距離に関わるものですが、あくまで物理的・客観的な「長さ」のことではなくて、現存在の行為にとってそれぞれの存在者がどれくらい身近であるかということです。
都度都度の現存在が行為する世界には、「方向」の理解もあるはずです。現存在が人間なら、前、後ろ、右、左、上、下を捉える感覚がありますね。これはなにも、客観的な方角(東西南北や、重力の方向)を基準にしているものではなく、現存在が存在者と関わるときに把握されている、どちらに向けて交渉しているか、ということです。
ほかに現存在は、存在者のいる「方域」という空間性を把握できます。
友達に貸した本は、たぶん友達の家にあるわけですが、このとき理解されている「友達の家」は、自分を起点とした距離や方角の情報とは関係なく、ただその場所として把握されているはずで、これが「方域」です。
以上の空間論も、道具連関の世界が成立するために必要な性質でしょう。有意味な道具連関のネットワークでは、適する道具が適する近さ・方向・方域に配置されている必要があります。
空間なんて、現存在に関わらず存在できる、客観的世界そのものという感じがしますが、ハイデガーの存在論においては、空間さえも現存在にとって有意味な世界を構成する、世界内の性質として説明されるのですね。
おわりに
僕はミドリムシの分類の問題にとって、日常的な感覚と専門的・学術的な感覚の区別が重要だろうと睨んでいるのですが、ハイデガーの道具存在/事物存在の区別などは、大いに関連してきそうな考え方です。ギリシア哲学の前準備程度のつもりで読み始めたハイデガーですが、当初思っていたより有意義な読書になりそうです。
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