底辺雑魚モブ創作者の発想〜創作は楽しまなければならないのか2

前回店子が大家に文句言うようなnoteを書いたが、まあ大家としては質を問わず店子が増えりゃどうでもいいから無責任に雑魚モブ創作者擬きを増やしたいのだろうと了解している。

で、今回は前回書き漏らしたことを追記しようと思う。

まず「創作を楽しむ」の「楽しむ」が、「うれしい楽しいハッピー」状態という勘違いについてである。
私も以前のnoteで嫌いな絵師から盗んで負の感情にまみれて描くくらいなら好きな絵師から学んで「楽しく」描きなよと書いた。
しかしこの「楽しく」は「うれしい楽しいハッピー」の意味ではない。
正確には「正の感情」で描きなよ、と言いたかったのだが、「正の感情」ではピンとくる人がいなかろうと思ったので「楽しく」とわかりやすく表記したにすぎない。

ポジティブ感情はある特定の行動と結びついているものではなく,ポジティブ感情を経験することが創造的な思考活動や学習機会を増加させるといったように,人々の思考─行動レパートリーを広げ,さまざまなコーピングを可能にするという可能性が指摘されだしました。また,ポジティブ感情には,ネガティブ感情によって高められた,嫌な気分や心拍率,血圧などの自律神経系の亢進を,素早く元に戻す元通り効果(undoing effect, Fredrickson & Levenson, 1998)といった機能があることも示されています。つまり,人々が逆境やストレスに直面したとき,その中にポジティブな意味を見いだすことで,思考や行動のレパートリーが拡大し,さまざまなポジティブな資源を手に入れることを可能にし,それがさらにポジティブな感情, 経験への遭遇を増加させるといった上向きの螺旋を生み出し,結果としてウェル・ビーイングや健康の増進をもたらす(Fredrickson & Joiner, 2002)と考えられます。

ポジティブ感情はなぜ必要か?
https://psych.or.jp/interest/ff-01/


上のコラムによるとポジティブ感情(正の感情)が「創造的な思考活動や学習機会を増加させる」そうで、これ逆に言ったらネガティブ感情だと創造的でもなくなるし絵の技術とかの学習機会も減るってことにならない?
創造的活動で技術(絵なら画力)向上させたいならネガティブ感情では身に付かないってことになるよね。
まあ考えてみたら怒り(攻撃)や恐れ(逃走)とかの負の感情は本能的生き残り行動とか回避行動なんである。
そりゃ大脳新皮質で行う文化的な創作とは正反対だよねえ。

以前どの文学作家のインタビューだったかは失念してしまったのだが、作品を書く時の心境は「面白いが苦しい」という意味で「面苦しい」状態で書く方が出来がいい、というような内容の発言を見聞したことがある(うろ覚え)
私はこれは至言だと思う。

実際私が描いてて「後から」楽しかったなあと振り返る絵というのは、技術的に今まで手の届く範囲より少し遠くまで頑張って手を伸ばしてみて、「今までより少しでも多くのことができるようになったと実感した」ものである。
決して描いてる最中に「うれしい楽しいハッピー」と感じながら描いているわけではない。

むしろ理想通りに完成させられるかどうかの不安とのせめぎ合いの中、「あ、ちょっとわかってきた」「な、なんとかできそうな気がしてきたぞ」「あ、ここはこうだったのか!(目鱗)」とプレッシャーと戦いつつも新しい何かを発見するトレジャーハンティングのようなスリルと冒険心が込みなのである。

負の感情で描いているわけでは決してないのだが、いわゆる「うれしい楽しいハッピー」な状態ではない。
黙々と亀の歩みで積み上げていき、気がつくとちゃんと積み上がっていてほっと胸を撫で下ろす、といった感じで描き上げることが多い。
完成させられるかどうかの不安とのせめぎ合いをしてても、集中してしまうと不安のことを忘れて描いてしまう。
そういう意味では正の感情すらも忘れて「無」になれた瞬間がある絵が一番描いてて楽しかった絵、ということに結果的にはなる。
後から振り返ってみればね。

そういうわけで多分「創作を楽しむ」状態というのは、多分ちゃんと創作に打ち込めてる人とそうでない人ではイメージするものが恐らく違う、という話。
で、「楽しい」イメージで創作を薦めるのは安易だと思うという話。

次に、答えのはっきりしたものは好きだが自由に書けと言われたら困るので創作全般が苦手だったという人についてである。
その人はnoteというサービスのおかげで創作とは無縁の人生だったが今はnoteでの創作を楽しんでいるそうだ。
それ自体はいい話である。
いい話なんだけど、私にはある疑問が湧いたのだ。

「何も言いたいこと、表現したいことがない状態って、人生が幸せで満足してる状態じゃない?その時点で創作が必要ない人なのでは?」

ということだ。

前回も、それ以前にも書いたが私はモヤモヤが溜まったら絵を描いて吐き出していた。
病後で体力と時間が足りない今は代わりにnoteを書いている。

これも誰だったか著名作家が心にバイオリンの形の穴が空いている人はバイオリンを弾かずにはいられない、というような喩え話をしていたと記憶している。誰だっけ、チョー有名作家だった気がする。
心に穴が空いてない人に創作は必要ないのではないだろうか。
まあ、創作できないことがコンプレックスで挫折なのかもしれないけど…。

で、満たされてるが故に承認の欲求っていうマズローの欲求のピラミッドの4段目に進んだのかもなんだけど。
でも承認の対象が創作である必要は別になくて、誰かの役に立てるとか力になれるとかそんなでもいいはずなので、思いつかない人が創作をわざわざしようとする意味がちょっとわからなかったりする。

仮に創作ってカッコいいな、チヤホヤされて楽しそうだな、というのなら勘違いなのでやめた方がいいのではないかと思う。
むしろ一人黙々と求道する修行僧みたいなもんなのでインスタ映えを楽しむみなさんとはだいぶ様相が違うよ…と思う。

カッコいいな、チヤホヤされて楽しそうだな、を目指すと人と比べてしまい苦しむことになるということは前回も書いた。

そのパターンの直近での最悪の失敗例は「デザフェス食中毒マフィン事件」だと思う。
自分のキャパシティを超えてマフィンを売るためにごく基本的な食品衛生の概念もうっちゃって腐って糸引くマフィンを売った件だ。

元々カッコいいな、チヤホヤされて楽しそうだな、名前を売りたいな、とかの不純な動機で、本来一番大切な安全安心や美味しさは二の次だったのだろう。
不純な動機でなければ食品販売で一番大切な基本の安全衛生を無視するはずがないからだ。
簡単な「さんすう」と衛生観念がわかっていれば一人で3,000個のマフィンを防腐措置を一切取らずに作れるかはすぐに答えが出る。

そのすぐわかるはずのことがわからなかったのは有名になりたいという功名心と功利主義を最優先したからではないだろうか。
盛んにSNS(今は削除されてるけど)を更新し、LINEスタンプや他人のイラスト作品のパクリでチラシを作り、という行動パターンから考えればお手軽な方法で他者を凌駕して有名になりたい、という功名心からと考えられる。

功を焦らなければ自分一人のキャパ越えの量を大型冷蔵庫、冷凍庫もないのにクーラー点けただけの室温保存のマフィン売ろうとは思わないし、チラシにパクリカットを使うというグレー行為にも手を染めることはないだろう。
自分に可能な範囲で販売を行い、チラシのカットは権利者の了承を得て使用するか作品依頼をして使わせてもらうだろう。
手間と経費を最大限にケチること、つまり「無添加マフィンの大御所」としての名声と、最小限の元手(人件費1人分だけで宣伝チラシもパクリで宣伝費ケチり、大型冷蔵庫、冷凍庫にも投資しない)で最大限の利益を上げようとしたのだろう。
何より食品販売で一番無視してはいけない衛生面の配慮を怠るという、食品販売者のアイデンティティをぶっ壊すような行為も、身の丈に合わない功名心と功利主義がなければやらないのではなかろうか。

雑魚モブ創作者が全員ここまでの失敗をするわけでは勿論ないが、最悪このような事故に遭う可能性も否定できないという話である。
なので、動機の間違った創作及び活動は可能ならしない方がいいと思うのだ。
一体何のためにその活動を行うのか?を時々自己確認した方が変な風に脱線して事故る確率が減ると思う。

というわけで、今回は安易に擬きでもいいから創作を薦めることに対する疑問と、創作せずにいられない、気がついたらやってるという「以外の人」が創作をしたがる理由が理解できない、という話であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?