底辺雑魚モブ創作者の発想〜創作は楽しまなければならないのか

創作する時に一番大事なことは、
「創作を楽しみ続けること」「発表を続けること」であるといういう説を目にした。

私はそのどちらもやってないので、では創作ができていないということになるのだろうか。

創作が苦手という人も見た。
答えのはっきりしたものは好きだったが自由に書けと言われたら困るので創作全般が苦手だったという。

そんなことがあるのか。

私にはちょっとしたカルチャーショックだった。

前にも書いたが私にとっては絵を描く=排泄である。
胸に形のはっきりしないもやもやが溜まれば形にして吐き出す、ただそれだけである。
気持ちよく吐き出すためには自分の美意識に沿えないとダメなので多少の修練は必要だが、自分の美意識にだけ忠実に描けばそこまで高い画力というものを必要とするわけではない。
他人と比較とかしなければね。

ただ自分の場合はダメ脳内補正の破壊は必須条件だけど。
他人と比べる必要はないけど、他人にもある程度通用する「客観的な点も備えた」美でなければ自分自身が納得できないので。

で最初の話に戻るのだが、「創作を楽しむ」の「楽しむ」が、「うれしい楽しいハッピー」状態と思ってる人が多くないだろうか。
最初の説の人もそんな雰囲気に思えた。
「短い文章、下手な文章、ラクガキ、そういったものを恐れて手をとめる必要は何もありません。楽しんで発表し続けてさえいれば、そのうちなんとかなるのです。」とも書いていた。

上の記述に疑問がいくつも浮かぶのだが。
「発表し続けてさえいれば」というのが特に引っかかる。
まず「創作=発表」なのだろうか。
本来そこは「創作し続けてさえいれば」ではなかろうか。
発表が目的化してないだろうか。
発表のためだけの創作に見えるのは気のせいだろうか。

私は「創作⊃発表」だと思う。

暴論に見えるかもしれないが「創作=発表」という発想では底辺雑魚モブ創作者にしかなれない。

なぜならその発想では洋画家がクロッキーもデッサンも全部作品として発表することになるし、日本画家は小下図、大下図も全部作品として発表することになるからだ。
そんなことはあり得ない。
創作=発表ではない。
発表するのは、表に出さない修練や下積みや試し書きの末にイメージを固めてゴーサインを出したいろんなイメージの凝集されたエッセンスだからだ。
「楽しんで発表し続けてさえいれば」というのは修練や下積みや試し書きも全部発表する前提になってしまう。

いや、百歩譲って発表すること自体は是としてもいい。
ただこの「短い文章、下手な文章、ラクガキ、そういったものを恐れて手をとめる必要は何もありません。楽しんで発表し続けてさえいれば、そのうちなんとかなるのです。」という記述は非常に無責任であると感じる。

「楽しんで発表し続けてさえいれば」という前提のみで「そのうちなんとかなる」。

「そのうち」っていつだ?
「なんとかなる」ってどうなれると言うんだ?
無責任にも程がないか?

「表現力もファンも、あとから十分ついてきます。」
表現力とファンを一緒に並べる意味がわからない。
「なんとかなる」の結果が「表現力もファンも、あとから十分ついてきます。」だとしたら大いなる勘違いをこの人物はしている。
「創作=ファンを作ること」だと思ってる。
違う。
「創作⊃ファンができる『可能性もある』」だ。
こういう些細なニュアンスを見分けられないところが雑魚モブ創作者なのだ。
創作者が人気稼業か何かだと思ってる。

人気稼業を目的とした創作はすぐに行き詰まる。
人気を目的にしたら他人と比較することが必然になるからだ。

他人と比較して平気でいられるのは「何を見ても壊れないほど強固なダメ脳内補正罹患者」くらいなので、人気稼業を目的としてしまったら大概の創作者は他人との比較で苦しむ羽目になる。
そしてどうあがいても「楽しんで発表し続け」られなくなる。
それに思い至らないのは雑魚モブ創作者=そういう過程を乗り越えて実力を蓄えてきた者ではないからである。
短絡的な発想で「創作=発表=人気稼業」と捉えている「何も乗り越えてきてない者」だからである。

私の実感からすると、例えば絵の場合、下書きからペン入れ、彩色などの過程をいちいちSNSにアップするのはかまってちゃんの雑魚モブ仕草としか見えない。
もうその時点で「創作がしたいのではなく、かまってほしいだけ」なのである。
そして、いちいち過程を見せることでフォロワーは彩色まで行く頃には見飽きてしまう。
そりゃ彩色されれば派手にはなるが、元のイメージは同じものなので彩色まで到達する前にフォロワーにとっては「もう既に知ってるイメージ」にしかならない。
そうすると、フォロワーは下書き、ペン入れ、と毎回感想を「述べてあげた」挙句、彩色を終えた頃には新鮮な感想など出てくるべくもなく、ゴマすりおべんちゃらかおざなりテンプレぐらいしか感想がなくなる。
フォロワーにそれを強いるのは私は酷だと思うし、描き手としては見苦しい乞食ムーブであると思う。

私は円滑な人間関係を保つためにどヘタクソな作品にお世辞を言うという行為は言う方にも言われる方にも不幸なことだと思う。
言う方には心にもない世辞を放り(ひり)出さねばならぬ心労がかかり、言われる方は自分の実力を勘違いするという側(はた)から見るとサムい裸の王様状態になるからだ。

SNSで「私の絵が性癖に刺さる人」みたいなタグ見たことあるけど(恥ずかしすぎて正視したことがないのでウロ)、上手い人で使ってる人見たことないんだよね。
というかはっきり言ってしまえば平均値をはるかに下回る真の底辺雑魚モブ絵師しか使ってなかったと思う(以前何かで偶然目にしてから恐ろしくて二度と見ないようにしているので今はどうか知らない)

なんでかというと「刺さる」以前に「客観的な美の一定基準」をクリアしてからでなければまず人目に留まらないからだ。
そういうタグを使ってしまう層は多分自分の絵をアピールすればどこかの誰かの好みに刺さると思っている。
単純なアピール不足だと。
そうじゃない。
単純な基礎画力不足だ。
人目に留まる以前の画力なのでスルーされてしまうだけなのだ。
好みが他人に刺さるのは「基礎画力を備えて以降」の話である。
そして基礎画力がないと描き手の物欲しげ乞食的心境がダダ漏れなので見た方も「ウワッ」とドン引きしてしまう(全員ではないだろうが少なくとも私はする)
それに気づかず「どこかの誰かに私の絵が性癖に刺されー刺されー」と呪い(まじない)の如く唱えてる図は私から見ればホラーでしかない。

厳しい指摘だとは自分でも思うが、これは絶対にどうあっても覆らない事実なので、基礎画力を備える前に「刺され」の呪いを唱えるのはやめた方がいい。
誰のためにもならない。
そして基礎画力が備わったら初めてある程度はどこかの層に刺さるようになるスタートラインに立てる。

そういうわけで「楽しんで発表し続けてさえいれば、そのうちなんとかなる」は雑魚モブ創作者の発想及び雑魚モブ創作者向けの甘言であり、無責任であると私は考えるのだ。

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