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ピアノ・レッスン

30年以上、趣味でピアノを弾いている。ピアノの音が好き、音が響いている中に身をおいていることも好き。

何かをコツコツ積み上げることが得意とは言えない私がなぜ、ピアノを弾くことだけ、こんなに続いているのか。それについてたまに考えると、必ず30年近く習っているO先生の存在にいきつく。この先生でなければ、レッスンもピアノを弾くことも続けていないと思う。

「色気が足りない」

「もっと泥を落としてきなさい」

「それがあなたのテンポよ」

「ちゃんと呼吸をして。飛び込まなくていいから」


これらは全部、今までのレッスンで自分の演奏に対してもらった言葉。音の出し方や演奏の速さなどに対して言われているのに、私はその時の自分の状態へのアドバイスとして受け取ることがある。
それはそれはしっくりくる言葉なのだ。

やめようと思ったことはたぶん何度かある。たぶん、というのは誰かにそれを止められて葛藤したというほどの「やめたい」ではないから。
レッスンより部活が楽しい、レッスンよりも遊びたい、進歩のない自分の演奏について分かっているけどできないことを指摘されるのが苦痛だ、などわりと一時的な「やめたい」はあったはず。

幸いにもレッスンが怖い、ピアノそのものが嫌いという状態になったことがないのだ。書きながらこのことに気づき、とてもありがたいことだと思った。

それでも、もうやめてもいいかな。趣味だし。などと思っているうちに、先生の言葉を人生訓のように受け取る日がまたやってくる。の繰り返しでここまできた。

O先生は当然、レッスンの日、その時間の私にしか会わないので、それ以外の時間の私を詳しくはご存じない。どれくらい練習してきたのか、最近何があったか、今忙しいのか、明日の大きな仕事に緊張しているのか。
それなのに、今の私のコンディションを整えるために必要と思われる言葉をとん、と置く。

レッスンを受けている私はその言葉から演奏とはまったく別のことについてー予定を詰めすぎているな、おしゃれがしたいけどよく分からないんです、自分なりの進み具合でいいのかな、などと思いながらいる。

自分の心身の状態が音に出ると捉えれば、それまでなのかもしれない。そういう話は耳にするし、確かにあると思う。でも、なんだかそれだけでは済ますことができなくて、しっくりくる言葉をもらったレッスンの帰り道でやっぱりO先生に習い続けたいなぁ。この暮らしは豊かだ、と何度も思っている。自転車で通っていた時はよくそんなひとりごとを言いながら帰っていた。

もちろん、指使いはこの方が弾きやすい、音の強弱はこのくらいなどいかにもレッスンという内容もあるけれど、私がレッスンで受け取っているものはそれだけではないなぁと思っている。


この先生についていこう。と強く意識したのは、就職を機に、住むところが変わった場合に通えなくなるかもしれないという話をした時だ。

それまで毎週通っていたレッスンをすっぱりやめることなど、その時は考えられなかった。一方でプロのピアニストでもないのに、就職という人生の大きなイベントと単なる趣味を並列で考えている自分は甘いのかなと思っていた。
迷いながら、どうしたら細々とでも続けられるのか、ピアノをやめたくはないのです、と話していたら

「ピアノをやめるって内臓がもぎとられてしまうみたいなものだものね」

と返してくれたことが忘れられない。

ピアノを弾くことをこのような言葉で表現してもらえたことに驚き、この感性をもつ先生にまだまだたくさん習いたいと思った。

結局、地元で就職し、O先生のもとでピアノを弾き続けている。

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