見出し画像

学生の終わりに


先日地元の同窓会に行ってきた。
メンバーは小学校の友だちだ。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

あの頃ポテチと一緒にコーラを飲んでいた私たちは、地元の居酒屋に集合してビールやレモンサワーを飲んだ。
思い出話をするのかな、なんて思っていたけど出てくる話は
「彼氏と同棲を始めて、家事の分担で揉めている」だとか
「会社のお局がしんどい」だとか
今や近い未来の話がほとんどで。現在進行形の悩みを話し合える関係性が嬉しいと共に、かつて同じ教室で過ごし、話に出てくる登場人物は全員知り合いだった友だちが、知らない彼氏や知らない職場の話をするんだなと思った。

小学生の頃、私たちは稀にみる仲の良い代だった。
成人式の後、私は行けなかったが地元で同窓会があった。
その時参加した友だちは
「やっぱり地元だなと思った。全然穏やかに飲んでるって感じだったよ。」
と言っていた。

久しぶりに会って話してみて、それは違うなと思った。
お酒のせいなのか、歳のせいなのか分からないけど、どう考えてもそれは成人した男女の集まりで。もうあの頃の、男女なんてないみたいな私たちには戻れないと思った。それに対して驚きも悲しみもなく、当たり前として受け入れている自分がいた。むしろ何も変わらずに接せられたら、疎外感を抱いただろう。

今でもよく会う小学校の友だちにそう話したら
「成人式の時も私はそう思ってたよ。ちゃんとギラギラしてた。」
と言っていた。

同窓会でとりわけよく話した友だちが
「結婚とか出産とかは何歳が基準になるんじゃなくて、社会人何年目かなんだと思う。」
そう言っているのを聞いた時、なるほどな思うと共に今年社会人1年目を迎える私と今年3年目になるその子の間にはもう埋まらない何かが出来てしまったことを感じた。

カラオケに行けば朝まで過ごせるものだと当たり前のように考えていた私と、地元のカラオケは2時までしか営業していないことを知っている地元の友だち。それを見越して地元のほとんどの女の子は日付をまたいだくらいに、私の知らない誰かが運転する車を手配して帰っていった。

話していて、一緒に過ごして、すごく楽しくて。
会わなかった間も、相手にも自分にも同じ長さの時間が流れていて、だから違和感もなくて。
仲良くなれる。なれた。
それなのに共有できないものがたくさんある。
友だちではあるけど、いちばんの悩みをオンタイムで聞くことはもうないんだろうなと思った。
過ごす時間はすごく楽しくてそれはまるで「非日常」で。
「非日常」がなければ、しんどい「日常」は生きてはいけないけど、「日常」を一緒に生きていく友だちではなくなってしまったんだなと思った。


ここ最近自分が過渡期にいることを感じる。
まだ社会人にはなれていないけど、着々と学生が終わっていくのを感じる。

”無駄な時間”が好きだった。
友だちと無計画に集まることも、明日を考えずにオールすることも。
何も生まない時間を、ただ楽しいから一緒に過ごしてくれる友だちがいることが何よりも尊いと感じていた。
受験期に唯一の休息としてご飯の時だけは嵐を観ると決めていた私に
「こういうときも海外ドラマとか観なよ」
と言ってきた母と姉を絶対忘れないと思っていた。
全ての時間を意味のあるものにしないといけないと思っている焦燥感や、ただ楽しくて過ごす時間が後々無意識のうちに大事なものをくれていることに目を向けられないことが嫌で。
そんな大人には絶対にならないと誓ったのに。

なぜか、こんなにも楽しいのに「また集まろうね。」という皆に100%で頷けない自分がいた。

呑んでいるときに仕事の話をする大人。
時間の有効活用とよく言う大人。
「意識が高い」と表現して私は揶揄して生きてきた。
でも最近思う。
意識が高いとかではなく、当たり前にそう思うんだろうなって。
少し先、未来のために今を過ごすこと、それがずっと嫌だった。
この先嫌でも考えなきゃいけない時は来るから、今は今を生きていたい。
そう思っていた。
でも気づけば「この先」が「今」になろうとしていた。
「今」が表す時間が少し長くなり、前の自分が「近い過去や未来」だと認識していた時間を「今」として表現するようになった。
それは何となく「社会人」なような気がした。
そういう自分が少し嫌いで、少し好きだと思った。

前にも書いたけど、私には小学校の友だちで構成される4人組がある。
久しぶりに集まった夜、どうせいつか終わるんだから仲良くなりたくないと酔っぱらった私はそう言って泣いた。
それをずっとネタにされていじられてきたけど、やっぱり今そうなろうとしている。
仕事や恋人の関係で集まることが難しくなり、多分何となくだけど、この前が本当に最後になる気がしている。
でもそれが思ったよりも辛くない。
というか受け入れてしまっている。
というか納得してしまっている。
そのことが辛い。
もう十分一緒に居れたなって。
多分もうずっと前から「非日常」だったのになって。

これまでの”無駄な時間”は無駄だけど、結果として何も残らなかったかもしれないけど、無駄じゃなかった。
永遠の友情はやっぱりなかったけど、過ごした時間は多分忘れない。
思い出さない時間は増えてしまうけど、永遠に覚えていたいなと思える時間だった。そういう友情だった。

これからも、もちろん娯楽は好きだし、無駄に友だちと集まったりもする。
でもその相手はきっとどんどん「日常」の中になっていく。


ひとりしか通れないような狭い階段を上がっているとき、今私が落ちたら後ろの人死ぬのかなって考えるんだよね。

かつて好きだった人にそう話した時、
「後ろで、今落ちてきたらどうしようかなって思いながら上がってたから大丈夫だよ」
そう彼は言った。その人と会う未来はもうないのかもしれない。

最近仲良くなりたいと思っている人に同じ話をした時、
「そんなこと考えたこともなかった」
そう彼は言った。その人と会う未来はおそらく来る。

「男女はある程度違う人の方が上手くいく」と聞いたことがある。
私は何を信じて過ごしていけばいいんだろう。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

深夜2時過ぎ、まばらな街頭の下、カラオケから追い出された私は友だち10人弱と1時間ほど歩いて帰った。
「あとどれくらい~?」って嫌そうに言い合っていたけどこの先もう無さそうなそんな時間は嫌じゃなかった。

それから数日後、その日と同じ厚底の黒いローファーを履いて私は表参道のカフェでレジを打った。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?