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自分なりのしあわせな人生を考える

はじめに

一年ほど前。

私は大学の入試を控えていた。
自分は将来何がしたいんだろう、自分の思考の軸は一体どこにあるんだろうと悩んでいた。

目を背けていたわけではないけれど、しっかり見つめたこともなかった複雑な自分の感情を一つ一つ取り出して、言葉という枠におさめていく。

楽しく、悩ましく、苦しい、けれど当時の自分にできない大切な体験。
そんな一年前の私の試行錯誤の痕跡を残した一冊のノートがある。

久しぶりにそれを開いてみた。
私は世界とどんな接し方をすればいいのか。今の私なりに考えてみる。

岩手への憧れと祖母の暮らし

突然だが、私は60歳を過ぎたあたりで岩手県の遠野あたりに隠居したいと高校の頃から思っていた。
隠居というと意味が強いが、目まぐるしい社会から抜け出して、完全に自分だけの時間を過ごしたいのだ。

小学生の時に宮沢賢治の伝記を読み、彼の生き方に強い憧れを抱いた。
他人に縛られず、この世界の様々なものに魅了され、
自由に生きた岩手県出身の童話作家。

幼い頃の私は宮沢賢治の真似をして、大して興味もなかった石の拾集をしていた。
彼の伸びやかな暮らしぶりに、今もなお憧れがある。
そして岩手という土地にも同等の憧れの気持ちがある。

私は岩手で生まれて、幼少期の数年間を暮らした。
自分の祖母も岩手に住んでおり、ほぼ毎年岩手を訪れている。
岩手に足を運ぶたびに、その土地が持つ雄大な自然や地元の人々の空気感に魅了された。

端的に表現すれば「家事をして、ご飯を食べて、お茶をして、寝る暮らし」
をしている祖母の周りに流れている時間は緩やかさがあり、
そんな暮らしぶりに対する憧れの念が湧いた。
加えて、自分より忙しくなさそうでいいなという羨望の気持ちもあった。

しかし、祖母の境遇は私が知る限りでも決して楽なものではなかったように思う。
詳細は知らないが、祖母との会話から私の頭の内に現れ出る過去の祖母は、様々な悩みを抱えているように感じる。

そのような苦労の遍歴がある祖母だからこそ、現在の平穏な祖母の生活が彼女の人生において一層の輝きを放っているように思う。

大雑把すぎる人生設計

大学に入学し8ヶ月。
学業を疎かにはしたくないと思いつつも、今までの人生の中で一番遊んでいると思う。

時間にゆとりがあり、好きなことができる時間がたくさんあるなと思う。
正直、この生活が楽しすぎて4年で終わってほしくない。

大学を卒業すれば、あとは働いて死ぬだけだ。
私の人生における、働く部分の時間は大して重要ではなく、先ほどの叙述に従って言えば、「働く」と「死ぬ」の間の時間を過ごすことが楽しみでさえある。

私の人生を80年としたときに、20年は学業、40年は労働、20年は隠居かと思っている。

将来何をしてお金をもらう人間になるか。
私の人生を80年とすれば、およそ10分の1の時間はそれについて頭を悩ませていた。

仕事にしても構わないくらいに興味があることってなんだろう。

今の私は、それが「美術」だと思っている。
この先は、私がそう思うに至った経緯を記したい。

私と美術のはなし 

私は絵を描くのが好きだ。いつからとは覚えていない。
物心ついた時から絵を描くのが好きだった。中学高校と美術部に所属し、絵を描きつづけた。

絵を描くのは日常の中で特別に楽しいことだったけれど、それを人生の拠り所にするほどではなかった。ましてや職業とするほどでもなく、趣味の範疇にとどめておくだけで十分だと思っていた。

そんな、私と絵との関係に転機をもたらしたのは、新型コロナウイルスの蔓延による一斉休校だった。

2020年、奇しくもコロナウイルスによって世界は変わってしまった。

高校入学と同時に一斉休校が始まった。
この高校に通うために今までずっと頑張ってきたのに…学校に通えない。

15くらいの年齢の私は、学校がこの世の全てだと思っていたので、学校に行けないことが非常に辛かった。
学校に通えなかった春は、なんのために生きているのか本当にわからなくなった。
いわゆる典型的な「燃え尽き症候群」だったので勉強に身が入らず、
成績はみるみる落ちた。
それまで、勉強が私の自己肯定感の維持にそれなりの貢献をしていたので精神的なダメージは大きかった。

私は何のために生きていけばいいんだろう、何をしたいんだろう。

それがわからず、勉強のモチベーションが無くなった。
そのためさらに成績が落ち、それに伴ってますます自分の心も傷ついていった。


自分を見失った。

私と世界とを繋げていたものが途切れ、世界から自分だけが取り残されたような気持ちだった。

そんな時、中学の頃の美術の先生に「幹子さんも美術の先生にならない?」と言われたことを思い出した。

鬱々としていた私の心は、記憶の中のその一言によって照らされた。
教師として美術についての話をする自分の姿を想像した。
まさに血湧き肉躍るような感情の昂りを感じた。

人生の脱力感から、当時は模試の志望校欄に適当な学校名を書き連ねていた私だったが、その時の高揚感から、本当にやりたいことは美術なんだと直感した。

現時点で隠居へ向かうことが確定している私の人生を、
美術を通した経験がより一層豊かにしてくれるだろうと期待している。

以下蛇足文。
恩師が示してくれた「美術の先生」という職業は
美術のプレイヤーではなくてファシリテーターだ。
その、美術を介した仕事というものが魅力的に思えたので、
私は自分の好きな美術という事柄を通して人と関わることがしたいと思った。

これから

おおよそ以上のようなことを書き綴ったノートからは、
高校生の自分が、将来の方向性を定めるのに苦労した痕跡が窺える。

そのおかげか、大学での学びはとても楽しく、わくわくするものだ。
キャリアに直結するような教養を得られるのでとても有意義だと感じる。

しかし実際大学で学んでいると、綺麗事だけで世の中の仕事はできないのだと思う。様々な環境の人がいて、様々な人生を歩んでいる。
日々目まぐるしく変わる社会の中に暮らしていると、
世の中に存在する人間の数の膨大さと、その一人一人に存在する様々な境遇をふと考える時がある。

すると途端に
自分が大変ちっぽけで、何も成し得ない、情けない存在に思えてくる。

私にとってのイーハトーブ、憧憬の自由の大地・岩手で
隠居をしたいと思ったきっかけは、
高校の時に自己肯定感の低下によって世界との繋がり方を見失い、
いっそのこと社会から抜け出したいと感じたからだ。
社会との関係性を絶てば、人間関係や職業選択への不安など、抱えている悩みの半分以上は考えなくていいのではないだろうか。

けれども、現代においてしがらみだらけの社会との関わりを絶って生きることは不可能に近い。
社会の仕組みに縛られたまま生きて、私はしあわせになれるのだろうか。

否。
唯識論に基づけば、この世界を認知しているのは自分だ。
自分がこの世から消えれば、自分の認知の中から「この世」という概念が消える。
だからこそ、自分のしあわせの価値基準を持てば、いくらでも人生をしあわせに過ごすことができると思う。

美術の道を選ぶ前の私は、自分のしあわせの基準を他人に委ねていたように思う。

私にとってのしあわせは
私にしかわからないし、私にしか生み出せない。

そう思うことで、自分にとって素敵な人生を生きれるんじゃないかなと思う。



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