見出し画像

地球から旅立つ前に

えっ、どうした?
何が起こってる?

突然、管理人から「お母さんが血だらけになっています」と電話が入った。
管理棟に駆けつけると、顎から血を流している母がいた。
母「大丈夫よ」
私「いや、全然、大丈夫じゃないし」
母「歩いていて転んだの」

転んで顎だけが大量に出血するのか。
すぐに主治医に電話をして治療してもらった。4針縫った。
それから母はおとなしくなり、コロナの時期もあって出かけるのを控えた。

数年前から、料理をするのはもう解放されたいと言う母の代わりに、私が両親の昼夕食を作り置きするようになっていた。
それが冷蔵庫に残ったまま、コンビニなどでお弁当を買っている形跡がないという日があった。
私「お母さん、ちゃんと食べてる?」
母「食べてるよ」
私「また宅配弁当を頼もうか?」
母「ミホちゃんが作った料理が一番おいしいから必要ない」

そう言われると、高齢者向けの宅配弁当をまた頼むことはできなかった。
以前、少しの期間だけ頼んでいたことがある。
毎日、宅配で届けてもらうのは、両親に何かあった時を思うと安心だから。
母は食べ物の好き嫌いが激しく、歯も悪かった。
そして、自分の好きなように行動したい母は、宅配があるから出かけられないのを苦痛に思い、私が何度も置き配でも大丈夫だと言ってみても、宅配の人に悪いからと言って、宅配時間には家に居るようにしていた。

母は少しずつ壊れかけていた。
私に暴言を吐くようになり、不機嫌になることも増えていった。

母の様子が気になった私は、毎月の定期受診で主治医に相談。
さすがに母の前で主治医に聞きづらかったので、母は待合室で待ってもらった。
私「認知症ではないですよね?」
主治医「もう少し様子を見ましょう」

どうやら認知症や老人性うつなどの区別が難しいようだ。
漢方薬などを処方してもらい、様子を見ていた。
それから状況が一転するとは、まだこの時の私は思ってもいなかった。

顎のケガが完治した数日後、寝室から母が私を呼ぶ。
私「どうしたん?」
母「尻もちついて立てない」
私「すぐに主治医に診てもらおう」
母「大丈夫よ」

大丈夫と言うのは母の口癖。
前日の足の浮腫みも気になって受診すると、レントゲン写真を見た主治医に「すぐに大きい病院に行って!」と言われ、救急車で向かった。

それまでの母は血液検査をしても異常はなく元気だった。
私は母の心臓に毛が生えているんじゃないかと思っていた。
だけど、心臓には毛はなく、穴が開いていた。

救急車で運ばれる数日前、私は自分の耳を疑う言葉を母から聞いた。
「仕事を辞めて家に居てくれないかな」
そして、救急車で運ばれる前夜にも。
「私の寝室まで手を繋いで行こう」
「私が寝るまで側に居てね」
「ミホちゃん、ありがとう」
今でもこの夜のことを思うと涙が溢れ出る。

数日後、母は手術ができる病院に転院した。
私は手術前にたくさんの書類にサインをする。
何人もの医師や看護師などに「同居していましたか?」と聞かれる度に、自分を責めた。
同居していたのに、なぜ気づかなかったのだろう。
今思うと気づけるはずもない。心臓に穴だなんて。

母はとても我慢強い人で、「痛い」や「疲れた」などの言葉を聞いたこともなく、泣いている姿なども見たことはない。
11年前に最愛の息子を亡くし、4年前に夫を亡くした時も。
自分にも子供にも厳しい人で、人に助けを借りるということを知らないのではと思うほど。そんな母が怖い時期もあった。

それでも時折、母に「ミホちゃんが生まれた時、友達なんていらないと思ったわ。一緒にどこにでも出かけられるし、話し相手ができて嬉しかった」と言われ、私も嬉しい気持ちになった。
厳しかったけど、そこには愛があった。
息子は呼び捨てなのに、娘はちゃん付けにする母。
度が過ぎて両親ともに過干渉なところもあり、それが疎ましく思う思春期。懐かしい思い出。

手術は成功し、会話もできるようになったけど、歯が悪かったこともあり、嚥下が困難になり、寝たきり状態になって医療療養型病院に入った。
その1年半後、危篤と言われて駆けつけた時、真っ先に私は母の耳元で言った。
「お母さん、ありがとう。私はお母さんの子供に生まれてきて良かったよ」
私の声が母に届いたように感じた。
多くを語らなくても、空気で感じ取ることもあるのかもしれない。

人は魂の傷を背負って、この世に生まれてくるらしい。
いろんなことがあったけど、順風満帆な親子などそうはいない。
母と私はお互い自然と「ありがとう」と言えたことで、魂の傷が癒されたのだと思う。
そんな日を迎えられた私は幸せだ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?